想像力と不親切
想像力と不親切。最近,ぼくが思っている子育てのキーワード。子どもにとって,自分で考える場,相手を思うシチュエーションをいかにこちらが作るかが大切なんじゃないかなとつくづく感じています。急に思い始めたんじゃなくて,ずっと思っていることなんだけど,こと,最近強く思っています。いじめ問題,考えられない家族内や,そのほかの事件,子どもが自分で命を絶つ出来事・・・ぼくは,子どもたちに想像力をもっとつけないといけないんじゃないかなと思っています。見回せば・・・ほしい情報は瞬時に集まる。音楽はボタンひとつで聴ける。誰にでもすぐに連絡ができる。ゲームはますますリアルになる。テレビだって,よりリアルになる。おもちゃも,いかにリアルなものにするかを競っているかのよう。不便さを知っているぼくらの世代からすれば,ありがたい存在のあらゆる技術。でも,今の子どもたちは,最初からその世界。3Dテレビや3D映画が流行り始めて,人間が想像で補わないといけない部分がどんどんなくなっていることが,なんだか恐ろしく感じるんです。かく言うぼくも,あたらし物好きだから,わくわくするわけで,便利になったり,リアルのなることを完全に否定するわけではありません。ただ,子どもたちから,想像力を働かせる場を奪ってはいけないと思うんです。ささいなことかもしれないけど,たとえばテレビの画質が上がる分,脳が想像して点と点をつなげて線としてみる領域がなくなるわけですよね。それが,とうとう奥行きまで想像しなくてもよくなってきている。便利になればなるだけ,してもらうことが当たり前になって,子どもが怪我をすれば,遊具のせい,おもちゃのせいになってすぐにニュースになる。便利さの代償はものすごく大きい気がしてならないんです。だからこそ,子育ては,いかに子どもに想像力を働かせる状況を作るかが大事だと思うんです。不親切なおもちゃ大いに結構。めんどくさいおもちゃ大いに結構だと思うんです。ぼくは,木のおもちゃが好きだけど,極限まで抽象化して,想像する子によっていろいろなものに見える木のおもちゃって,便利さの代償を十分に補っているような気がするんです。そして,不親切さ。やってみたいけど,一人じゃできない不親切さって,おもちゃにとって重要な要素じゃないかなって思いませんか?そりゃ,子どもが一人で遊んでくれるおもちゃに救われることもよくあるけど,親が関わる必然性を持っているおもちゃって素敵なことじゃないかなって。さらに,関わる親も,意識的に不親切になる。かわいさあまってあまりにも親切にしていると,ただでさえ,身の回りにはやってもらえる便利な技術があふれているので,それこそ,やってもらうことが当たり前の子どもになるんじゃなかろうか?幸せって,どれだけ自分の責任の中で自由でいられるか,人の自由を認められるかで決まってくるんじゃないかなって感じています。話があまりにも広がってきてしまったけど・・・子育ては,しっかりと関わりながら,想像力と不親切さをどれだけ子どもに与えてあげることができるか。それが,子どもの将来のしあわせにつながるような気がしています。だって,人のせいにばかりして,自分のことを省みれなかったり人の気持ちがわからなかったりしたら,幸せになれるとはとうてい思えないんです。せいぜい,自分が幸せになれない理由を誰かのせい,何かのせいにし続けるのが関の山でしょ?なんだか,理屈っぽい話になってしまいましたが,最近のニュースを見ながら,あまりに人のせいにする風潮が感じられて,書かずにいられなくなってしまいました。付け足しで・・・日本全体が,人のせいまっしぐらな気がしてならないんです。誰が首相に立っても,すぐに支持率が問題になって,結局責任を取ってあっという間に交代。これがもっともその現状を象徴しているような気がします。そりゃ,誰が立っても国民全員にぴったり来ることなんかない。だって人間なんですから。だからこそ,考え方は違うけど,じゃあ,どういう協力ができるだろうかっていう意見はほとんど出てこないじゃないですか。あれが悪い,あれのせいだ・・・あまりにも悲しい現実のような気がします。みんなの幸せのために自分は何ができるだろうか?って,みんなが考えられるようになったら,みんなが幸せで,楽になるんじゃないかなって思いませんか?そう思うと,やっぱり,幸せになってほしいわが子には,“想像力”を伸ばす“不親切”を与え続けたいなって思うんです。