時間の感覚
私が十代の頃に出会った年上の人々は皆、口を揃えて「ハタチを過ぎると階段を転がり落ちるようにアッという間だよ」というようなことを言っていた。私はこの「階段を転がり落ちるようにアッという間」というものがサッパリ分からないまま、長いトンネルのような二十代を抜けて三十路を迎えたわけだけれど...私は、生まれた時から那須野が原の大地に抱かれて育ち、そしてそのことを明確に感じ取って過ごしてきた。それが「地球のリズムと共に生きる」ということだと感じていたので、写真家で名文家でもあった星野道夫さん(故人)の著書、「旅をする木」の中にあるエッセイ「もうひとつの時間」を読んだ時は、同じ人がいたぁ~~~っ!!!と嬉しく思ったものだ。地球時間で生きてると時の流れが心地良い。。。ワタシがこうして呼吸して生きている、今この時に、森の生き物たちは何をしているんだろう...カラダを丸めて寝ているツキノワグマ夜の闇を走り回るヒョウクジラは大海原を泳いでいるのか...原生林を吹き渡る風 湧き出で続ける清らかな水レイク・タンガニーカのサンセット...そ~いえば、レイク・タンガニーカのマハレの森で暮らしていた濃密な半年間は、2年間くらいに感じていたなー瞑想を始めてから、時の流れがさらにスローに感じる。スピンが速すぎて、静止しているような感覚なのかなぁ?通勤中に radio をつけたら、パーソナリティが「もう一月最後の日ですよ~アッと言う間ですねぇ」なんて言っているけれど、アッと言う間がワカラナイ。お正月、ずいぶん前だった気がする。新年明けまして、2ヶ月くらいたったような気がする。まだ一月終わらないのー!?と何度も思った。一日も長い。ずいぶんアレコレやっているのにまだこの時間!?と一日に何度も思う。よく、退屈だと時間経つのが遅いと言うけれど、「暇」とか「退屈」という感覚もよく分からないので、誰かが「たいくつー!何か面白いことない?」なんて電話よこして来ると心底ビックリしてしまう。保育園で子供が遊びを持て余して「なんか、たいくつー!」などと言ってくると「よかったねー♪退屈は子供の特権なんだよ」と答えている。朝夕の瞑想が充実していると大変幸福なので、瞑想を充実させるための創意工夫も楽しみ。「空(くう)」の体験って、超リアルな真実なので、本を読みたいとか、コーヒー飲みたいとか思わなくなった。読書は思考を満足させる仮の体験だしコーヒーなどの刺激物は脳を興奮させる仮の体験というようなことが、感覚的に分かってくると、単純に嗜好と思って楽しむ分にはいいのだろうけれど、瞑想に深く入れる(∞空∞)方が楽しいも~ん♪と、いったところ。(実際、コーヒー飲んだりすると瞑想が充実しないし)∞空∞に深く入っている時って、時間の感覚も超越している。30分がアッと言う間というよりは、30分ってこんなに奥深いものなのね~言葉ではうまく言い表せないけれど、>時の流れがさらにスロー>スピンが速すぎて、静止しているような感覚が徐々に毎日の暮らしの中にも浸透してきたようです。瞑想について、いいことばっかり書いているようですが、先日の瞑想会では自分の身体で津波のような体験が起こり死ぬかと思いました。(本当に)日々瞑想していたからかカルマの解放のなされ方も変化し、最初の伝授の時は先祖代々から積み上げっぱなしだった荷物がドバッと落ちてきた感じの「地震型」でしたが、27日の瞑想会の時のは、ハートの中心にグワーッと引き潮のように何かが集まって、ぐわ~んぐるぐるぐる~ってな感じの「津波型」でした。でも伝授の時とは違って、椅子に座っていることも出来ず床に倒れ込んで悶絶したけれど、回復も早くて、15分後には伊予柑食べてたけどねーこれは私の個人的な体験であって、フルフィルメント瞑想を始めたら誰にでも起こる体験じゃないですよ。私は、こういった体験も全て「身包みかき抱いて」幸せに思う人だから、こういった体験をするだけなんだと思います。こなせない宿題はやってこないですからね☆しかし、こうやってPC前にいると時間の経つのが速い!なんでだろう~(ブラインドタッチ出来ないからかしら?)書きたいことはいっぱいあるんだけれど、なかなか更新できないのは、PC時間の感覚が合わないからなのかな。