個我を超えて...
生まれ出ずる苦しみは、全て私の個我(表面的なエゴ)から来ていることなんだと、しみじみしてしまう。先日、「もっと大きな愛に成長しないとダメだ!」というありがた~いお叱りを頂き、本当にその通りだー!成長したい~!もっと大きな深い愛の私になりたい~!という切なる願いを抱きつつ、精進する(?)日々。。。ONENESSについて、ちょっと気になることがあった。私は、肉体を保持した状態でのONENESSというものは、個我(エゴ)を超えた状態であって、それはより自然であるがままであり、パーソナリティの喪失とは思っていなかったのだけれど、「肉体を持った生を謳歌したいので、まだONENESSにはなりたくない」という意見を聞いて、頭の中が「???」でいっぱいになってしまった。周囲の人々の悩みや落ち込み話を聞く度に、苦しみって、分離感から生まれている気がする今日この頃。。。本当に一人一人の悩みや苦しみは多様であるけれど、問題のねっこは「分離感」という共通のものに感じられて...個我(エゴ)を超えたONENESSな状態になってこそ、自分や他者を判断したりすることなく、真の生を謳歌出来るんじゃないか。ONENESSって、画一的なものではなく、多様性のきらめきに満ちていながら、判断のない状態なんじゃないか。ONENESSになってこそ、真に一人一人のパーソナリティがイキイキとインディペンデントするんじゃないか。そんな私のONENESSについての概念は、「肉体を持った生を謳歌したいので、まだONENESSにはなりたくない」の前では、所詮理屈で高理想なものなのかな。5月の下旬に、フルフィルメント瞑想の次なるステップである、プロスペリティのマントラ&ヤントラの伝授を受けた。豊かさのマントラ&ヤントラだから、パワフルでエネルギッシュなものかと思っていたけど、入れてみたら「豊かさ」って、言葉では言い表せないような澄み切った静かなものだった。澄み切った静けさの空(くう)の世界を瞑想中に経験していると、肉体を持った生の謳歌とONENESSって相反しないものだと感じるんだけど。「肉体を持った生を謳歌したいので、まだONENESSにはなりたくない」かぁ~こうやっていちいち引っかかってること自体「判断」なのだろう。あ~、より大きな愛に成長したい~☆