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テーマ:今日行ったコンサート(1209)
カテゴリ:オペラ
東京文化会館 15:00~
5階正面 ワーグナー:歌劇「タンホイザー」 タンホイザー:ステファン・グールド ヴォルフラム:ルーカス・ミーチェム エリーザベト:ムラーダ・フドレイ ヴェーヌス:ミシェル・デ・ヤング 東京のオペラの森管弦楽団・合唱団 指揮:小澤征爾 久々に東京文化会館の天井桟敷です。 全体的にはまぁ面白かったです。 正直に言うと、ここでの小澤征爾の評判は、少なくとも玄人筋には宜しくない。この公演の為のオーケストラが臨時編成ということもあってのことではあるのですが......... でも、例えば、こういうケースで寄せ集めのオケを作ることは少なくないので、だからダメだ、とは必ずしも言えないと思うんですけどね。レベルとして限界があるとかいうことはあるにせよ。実際、今日の公演も、小澤も含めて限界の感じられるものではありました。平たく言えばともあれ纏めようとする傾向が強くて、表現・表情が豊かとは言えない。ここでこう歌って欲しい、と思うところが、流れてしまう。響きに特別なものがあるわけでも無い。まとまりはある。でもそこまで。 ただ、ここで立ち止まって考えなければいけないのは、じゃぁ他にどうすればいいのか、というと、多分どうしようもないのです。はっきり言って限界はあるけれど、このオーケストラはそこいらの在京のオーケストラよりはやはりいいのです。良くも悪くも、小さくまとまっているその内容としては、傷も多いけど、舞台がとっ散らかるということはない。東京都が絡んでるからと言って都響で出来るかと言えば無理でしょう。新日フィルでも、出来なくはないけれど、パフォーマンスとしての可能性もあるけど、リスクが高い。その点では東フィルや東響がずば抜けているかと言えばそうでもない。N響は、未だに昔の柵の拘りがあるからやらないだろうし。 とはいえ、それとは別の問題として、じゃぁこの演奏でいいのかと言うと難しいところで、いっそ破れかぶれになってしまえば結構面白いこともあるかも知れないけれど、それもリスクが高すぎる。何より、小澤の演奏というのは、多分、一般に思われているのとは異なって、そういうのじゃないのです。 小澤の生演奏は、そう多くは聞いていないのですが、今日聞いて思ったのは、一般のイメージとは異なり、この人は結構堅実で明晰な演奏をしようとしているのではないかな、ということです。いやまぁ一種の思いつきなのですが、つまり、この人はまずかなり基本的な所はしっかり作って、その上で築き上げていくものが曖昧というかなんとなくというか、博打っぽい人なのではないかなということ。少なくともオペラでは。 しっかり作る、というと、反論が来そうですが、でも多分彼の音楽作りの傾向は、やはりそうなのです。土台を作って、その上でいろいろやろうとする。昔々彼の録音したエレクトラというのがありましたが、これなど結構評判が悪いのですが、私は好きでした。今にして思うと、凄いひらめきというのは無いのですが、要は「ちゃんとやってる」のです。ただ、それ以上ではない。だから「つまらない」と言われる。でも、曲としてはよく分かるのです。そういう面での明晰さが彼にはある。一度ウィーンで「エルナーニ」を聞いたことがありますが、これなど、とても「分かる」演奏でした。 問題は、その明晰さの上で、「なんとなく」やっちゃうんですよね。明晰さを突き詰めるわけではない。必ず爆発するわけでもない。だから「つまらない」「手抜き」とか言う人が出る。逆にたまたま名演に当たってはまる人はべた褒めし始める。素人筋に受けがいいのも、実はここに理由があって、つまり、多分「分かる」のです、小澤の音楽は。 今日の演奏など、オーケストラがもっと明晰な演奏が出来れば面白いだろうに、と思いました。ただ、だからと言って取り替えようも無いんですよね。小澤もまた然り。今日の歌手陣をここまで引き出せるのは決して凡庸では出来ない相談なのです。これでダメなら二期会は全部公演禁止ものだし、藤原だって新国立劇場だって廃業。トップクラスの来日物だって危ない。 ただ、だからと言って「これがいいんだ」とも言えないんですけどね...... 歌手陣ではステファン・グールドのタンホイザーがいい出来でした。100点満点とは言えないだろうし、高音が苦しい、という話もあるけれど、今、タンホイザーでこれだけの歌を聞かせてくれる人がそうごろごろしているというわけではないのでして、個人的には満足。ただ、これは、異論のある人も居るでしょう。恐らく最大の理由は、私にはタンホイザーに格別の思い入れを持って語るほどの思い入れが無いから。 逆に、ヴォルフラムを歌ったルーカス・ミーチェムには、私は点が辛くて、というのは、私の中ではヴォルフラムについてはフィッシャー=ディースカウの歌声が根付いていて、何故か離れてくれないのです。それほど素晴らしいとは言えないだろうとは思うんですけどね。でもまぁ、そういうわけで、私はディースカウの特徴のある声と歌い回しの印象が強いもので.....確かに、ミーチェム、悪くは無いとはいえ、声量なども含めてちょっと弱かったと思うんですけどね。 女声陣では、エリーザベトのムラーダ・フドレイがなかなか。声量がある圧倒的なタイプではありませんが、東京文化会館で十分聞こえる(その意味では今日のメインキャストは十分な声量でありました。ヘルマン辺方伯は前半はずっこけてたし、声はあるけどちょっと大雑把でイマイチでしたが)ということならまぁ問題は無いのだろうと。一方、ヴェーヌスのミシェル・デ・ヤングは、声量もあり、いい声を聞かせてくれはしましたが、比べてしまうともう一つ丁寧さ、繊細さが欲しかったかも知れません。 合唱はまぁまぁ健闘。巡礼の合唱はなかなか宜しかった。 演出は (以下ネタばれがあるので注意)、評価が分かれるところでしょうか。個人的には、そう悪くは無いと思いつつ、最後はちょっと....でした。 基本は現代風の演出。それ自体はまぁ悪くは無い。タンホイザーらミンネゼンガーは画家として描かれ、ヴァルトブルクの歌合戦は美術展に於ける新作の発表会と化す。タンホイザーはヴェーヌスベルクで恐らくは前衛的な、ショッキングな表現方法を手に入れたのでしょう。皆に糾弾されるわけですが........ 最後、エリーザベトの救済によってタンホイザーは救われる......のですが、このへんから逆算していくと問題が。 「ローマ」での赦しを得られず、絶望してヴェーヌスベルクを求めるタンホイザーは、冒頭同様ヴェーヌスを描いて自作を完成させようとしますが、ヴォルフラムの導きでエリーザベトの名を呼ぶことで、「救われ」ます。が、それは、エリーザベトがヴェーヌス同様の姿で現れ、新しい絵筆をタンホイザーに与え、ヴェーヌスと共にモデルとして横たわることで為されます。タンホイザーは絵を完成させる。そこで、背後の舞台装置が転換して、第二幕の美術展と同じ場面が現れますが、そこには誰もが見たことがあるような泰西の名画が。しかも、そこには、マネの「草上の朝食」などの"問題作"も含まれている。現代ではジョアン・ミロも目立つところに掲げられていて、タンホイザーの書き上げた絵は、今度はヘルマン辺方伯ら一同によって讃えられ、歓迎され、辺方伯に契約書を提示されてサインし、凱歌を上げるタンホイザー。 いやまぁ、ちょっとステレオタイプに過ぎるかも知れませんけどね。でも、さぁ、これは、どうなの?一種の皮肉なの?それとも大真面目なの?じゃぁ一体何故彼は受け容れられたの?ストーリー的には分からなくは無いのだけど、ちょっと納得感が薄い。何より「どっち側」で受け取ればいいのか。個人的には皮肉と取りますけどね。 だってさぁ、こんな浅薄な話、無いでしょう?そもそも「この前衛絵画が受け容れられるかどうか」で何故巡礼に出たり、身を捧げて救済を求める必要があるわけ?しかも、それでエリーザベトが死んだのだとしたら、一体タンホイザーはなんなんだよ。この結論から考えると、第3幕で巡礼が戻って来た際の、布を外した枠だけのキャンバスを持って歩く巡礼の姿が、あたかも十字架を背負って歩くように見えるのも、「あれは何だったんだ?」感に支配されるのです。 ちなみに補足すると、タンホイザーらが描いた「絵」は、一切観客には見せられません。極めて周到に見えないように配慮されていて、最後の最後でも、いよいよ見せられようとするところで終わる。これはある意味正しいので、つまり、「絵」を見せてしまうと、意味するところが特定の「絵」なり「技法」なり「立場」に縛られてしまうので、見せないことで抽象的な「迫害されるべき何か」に集約している。ここまで周到に考えられているのに...... 「分かる」けど、じゃぁつまりなんなの?という意味で「分からない」演出。むー。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年03月19日 01時52分14秒
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