話題のロード・オブ・ザ・リングの原作本の「指輪物語」をゆっくりと読んでいる。これは、パワー・トリップをいかに超えるかというお話だと思う。
一般的な言葉かどうか知らないが、僕たちは「パワー・トリップ」を絶えずしている。
パワー・トリップとは、誰かをコントロールする、あるいは支配する試み、または他の人によってコントロールされる、あるいは支配されることだ。
パワー・トリップは比較、競争、判断、そして怖れを食べてることで生きている。
パワー・トリップは、僕たちが、意識の第三の次元を生きることから現れる。
僕たちの行動、考えと感情がこの意識のレベルから生じるのは、僕たちが、僕たちの周りの全部の人々、植物、動物、地球から分かたれているという基本的な誤解に、感染している時だ。
僕たちは、僕たちが、生の源から分かたれているという迷信が生じるこの次元の中で、僕たちの生の、全ての局面を抑圧するたくさんの神と宗教を創りだす。
「指輪物語」のなかでは、そのありとあらゆる話がある。
(ヒンズー教的解釈として)生を構成するエネルギーの、七つの異なった次元があるとして、そのの内のひとつが、意識の第三の次元だ。
それぞれの次元は始まりも無く、終わりも無く、それ自身のユニークな振動数、エネルギーのパターン、色と質を持っている無限のエネルギーフィールドだ。
そして、意識の第三のレベルから、「私」と、「私のもの」という幻想が生まれる。
リアリティから分かたれて、僕たちのライフ・エネルギーを「エゴ」の中に結晶化するという幻想が生じる。
「旅の仲間」はバラバラになる。サウロンやオークは最初からバラバラだ。
「瞑想の中で、あなたはまるで自己(セルフ)であるかのようなところに入る。しかし、より深くへとあなたが行くと、より自己は衰えていく。あなたが最終的にあなたのセンターに行きつくとき、あなたはそれ以上何でも無い。神であることについての問題は生じない。あなたは確かに神聖だ。なぜなら存在全体は神聖であるから。しかしそれはパワートリップではない。なぜならパワートリップはあなたより低く、あなたのほうがより高い、他者を必要とするからだ。
深い瞑想では、あなたは木さえもあなたと同じであること、動物さえも鳥さえも、岩さえもあなたと同じだということを知っている。存在全体は途方も無く大きな同一性の中に生きている・・・。
瞑想者だけが、全ては同じであることを知っている。なぜなら私達はみな有機的な宇宙の一部だからだ。異なった姿、異なった形は美しさを創り出す。なぜならそれらは多様性を作るからだ。しかし、根を深く降りていくと同じジュースだ。:それは木に花が咲くのと同じ栄養だ。それは花になる。それはあなたの中で花開き、ブッダになる。」OSHO
七つのエネルギーセンターであるチャクラは、僕らが七つの次元に入っていくため扉として使うことができる。だから、チャクラ瞑想は重要なものだと思う。
それぞれのチャクラが、僕たちの周りにそれぞれのエネルギーフィールドを発生する車輪のように回転している。
エネルギーフィールドは、一般的に、七つの身体と呼ばれているオーラを形作るらしい。
第三チャクラは俗に、パワーセンターと呼ばれ、意識の第三レベルへと入るための扉だ。
それは体の太陽神経叢の辺りに位置し、そして火ように回っている集中力を持ち、電気的なエネルギーであり、その色は、太陽の色、黄色だ。
エレメントとしては、火の質、健康であれば、火花を散らすような輝きを持つ。
例えば、神社にある狛犬は、俗にアストラル界と呼ばれるこのエネルギー・フィールドの邪まなものから、我々を守っているという話を聞いたことがある。
いずれにしろ、健康なパワーセンターは、ライオンのように孤りくつろぎ、弱い犬のようには噛み付かず、めったなことでは咆哮しないが、威厳がある。
その時、王が帰還する。
だけど、意識の第三レベルに生きている時、僕たちの全てのチャクラとエネルギー体は、僕たちが生から分かたれているという誤解によって、変化する。
つまり病気になってしまう。
この変化が、チャクラとサトルボディーの性質を、それぞれのチャクラとそれぞれの身体の中で表現されるエネルギーの流れる方法を決定する。
ライオンのように威厳があるのではなく、比較、競争、判断、怖れをもって、パワー・トリップをするようになる。
指輪をはめて世界を支配したくなる。ホビットですら、自分が小さい人であることを忘れてしまう。
意識が、より高いレベルへと上っていくにつれて、そして人生をこれらのより高い次元から生きるにつれて、全てのチャクラとエネルギーボディも、それぞれの意識の上昇で変容される。
パワー・トリップでない本当の旅が始まる。
もちろん指輪物語のように、行きつ戻りつではあるだろうが、往きて帰りし英雄物語でなく、書かれざるサムのその後のような物語が語られる。(この項いつか続く)
「この試練の時にあって、彼の心を揺るがぬようにしっかり支えてくれた力は、マスターへの愛でした。しかし、また、かれの心の奥深くにある質実なホビット的分別というものがいまだ克服されることなく生きていたのです。こんな幻影が自分をだますための単なるまやかしでないにしても、かれは心のすみに、自分がこのような荷を負うに足るほど偉大ではないことを知っていました。彼が必要とし、また相応しているのは、自前の庭師の小さな庭がひとつだけで、王国の規模にまでふくれあがった庭ではないのです。使うのに自分の手があればよく、命令してやらせる他人の手は必要ないのです。(指輪物語・王の帰還)