『Wikiの写真で一言7』柔軟性が害になる/Uber Eatsの落とし穴 他2本
●「情けは人の為ならず」が誤用する理由とは?●Uber Eatsの落とし穴とは? ●柔軟性が害になる事とは?●Z世代は恋人関係も「発信」して「共有」するとは?☆TOPページARCHIVE☆『Wikiの写真で一言』-第7回-■2020年1月~4月掲載分■-------------------------------------------------------------------■もくじ■2020年1月掲載『Wikiの写真で1月な一言』●「情けは人の為ならず」を誤用する理由とは?2020年2月掲載『Wikiの写真で2月な一言』●Uber Eatsの落とし穴とは?2020年3月掲載『Wikiの写真で3月な一言』●柔軟性が害になる事とは?2020年4月掲載『Wikiの写真で4月な一言』●恋人関係を「発信」して「共有」するとは?-------------------------------------------------------------------□■■■■お久しぶりです Voyager6434ですwさて、桜並木が連なる春先の鮮やかさに心奪われ梅雨に入り例年以上に降水量を警戒しながら灼熱の真夏に体調管理に気を使い赤く燃える稜線が煌めく様に美しく山を彩る紅葉の季節に目の保養で疲れを忘れ一面が白銀の世界となる冬来たりなば春遠からじなコロナ禍となってから過ぎ去っていく年月が加速している様な錯覚を覚える今日このごろ写真で綴り駆け足で過ぎ去る月日を語る素敵な記事を・・・この様な場末の不人気サイトがお送りできるはずもなく・・・w4ヶ月振りの更新は、2年も空いたトップページの纏めで今回も、使い回しのイラストを添えましてトップページを飾る「小ネタ」として2020年1月から4月まで掲載してきた「wikiの写真で一言」を、ちょっとした散文を添えて纏めてみました。全然ちょっとしないんですが・・・wwという訳でまずはこの「小ネタ」を御覧ください・・・▲目次へ▲□■■■■2020年1月掲載■『wikiの写真で一言』Brombachsee,Concertbüro Franken,Festival,Konzert,Lieder am See,Livekonzert,Livemusik,Marillion,Musik,Steve Hogarth(画像参照:wikimedia)Marillion『トッポギ~コトヨ口ーーっつ!!!』トッポ ギ 突発的に 岐阜に行きコ ト ヨ 口(クチ)今年も 良く クチにするマリリオン日本の客『全部違うっつ!!!』(※よもやと思い、念の為に書いておきますが、コレはフィクションのネタで写真と、台詞と、ギャル語と、マリリオンとは一切関わりはありませんのでご注意を・・・w)Marillionって何?という方は>>コチラ を□■■■■「情けは人の為ならず」を誤用する理由とは?■いつの世も、シニアになった社会人の方々は、新社会人となり世に出てきた若者に付いて良く「言葉が荒れている」という趣旨の若者disりをまるで念仏の様に唱えるものですが自分が新社会人となり世の中に出た若かりし時に、当時のシニアの社会人から全く同じ事を言われた事は、記憶の忘却の彼方に押しやり若者Disりの趣旨のみが次の世代へと脈々と受け継がれて行き共有されて行く様は移り変わるものの儚さと、変わらないものの頑なさという相反する事象の元で繰り返される見えざる世代交代に人の世の悲哀を感じてしまうそんないつもの春先となりましたwさて、新しいものへと移り変わって行くものには世の中や人の世の流れに加え言葉も同じ様に移り変わりの激しいものの一つの様に思います。例えば「マジでヤバい」という若者言葉の場合これは元々「本当に危険だ」という意味で使われるいわゆる「スラング」なのですが2000年位の頃から若者達によって「本当にすごくよい」という意味でも使われる様になった事で非常に使用頻度の高い若者言葉を代表する言葉になったと言えます。一方で、間逆な二つの意味を持つ様になり使い方次第でどんな場面でも通用する多様性を帯びた事で日常会話を「ヤバい」の一言で済まそうとする若者が増えた事から「若者の表現力が乏しくなっている」「若者の言葉が乱れている」とシニア世代の間などで物議を醸した言葉でもあります。一方の「マジ」の方はこちらも「ヤバい」同様「マジだ」 (本当だ) という肯定の時に使う本来の意味に加えて「マジか」 (冗談じゃ無いよ) と否定の時にも使う真逆の二つの意味を持っており「ヤバい」と共によく使われるスラングなのですがこの言葉に至ってはシニア世代が子供の頃から存在した言葉でもあるのでシニア世代も気が付けばどんな場面でも「マジ」の一言で済ましている事がある社会に浸透した言葉と言えます。若者言葉の乱れに今後の社会を担う若者を育成する立場にあるシニア世代の憂う心情は 良しとしてシニア諸氏も 身体の一部の様に使いこなしている「マジ」の方は物議を醸す事が無かった所にまずは我がふり直せとTwitterで拡散される様な事は無くてもこんな場末の弱小サイトの不人気ブログに「棚上げ議論のdisりの念仏」と、一刀両断される羽目になる訳です(私もでもw)つまり、言葉はその時代に生きる人達がその時代の風潮に呼応する様に見合った意味合いに変化させながら口にしていくものでその様に変化する言葉は「生きた言葉」として社会に定着して行くのだと言えます。この様な社会の動きに付いてかつては生きた言葉を口にしやがて月日とともに形骸化して石頭と化した「シニア諸氏の無為な若者disりの念仏」とは別に・・・w言葉が生まれた起源や言葉が使用される文化風俗歴史に精通し言葉を意思疎通を目的とするものとしてだけではなく民族的意識や国民性の視点から言語学を捉える国語学者の様な研究者による「言葉が持つ真の意味を知るべき」という日本語が本来の意味で使われない、「言葉が荒れる」事を危惧する発言が毎回波紋を呼んでおります。特に、近年若者が口にする「死ね」「殺す」の様な言葉がまるでスポーツ観戦で「打て」「倒せ」と歓声する感覚でゲームでヒートアップした時に発せられる言動として若い世代を中心に定着している風潮に対して言葉の持つ意味が軽くなり、言葉そのものの低年齢化に繋がる結果を生んでいると評し、更には基礎的な道徳心、更には社会の規範に対しての心の乱れが言葉の乱れとなって現れている印象があると指摘している事から先程の、言葉が 身体の一部 となる事象とは異なり若者が抱く 精神 に起因している事もありこれらの見解には非常に危機感を感じるものがあります。特にその様な表現を「無意識」に行っている所に学者が警鐘する問題の深刻さがあると言えます。そういう意味ではシニア世代も決して例外ではありません。身近な例として「敷居が高い」という言葉がありますが、「相手に不義理をし過ぎて行きづらい」が本来の意味なのに対して「高級すぎて入りづらい」と捉える事の方が一般的に浸透している現状があり他にも「浮足立つ」という言葉は「恐れや不安で落ち着かない様」が本来の意味なのに対して「喜びや期待に満ちて落ち着かない様」と捉えたり「手をこまねく」という言葉は「何もせずに諦観している」が本来の意味なのに対して「準備して待ち構える」と捉えたり と上げれば切りが無いのですが…それらの中でも本来の言葉の意味を誤用している最たる例としては「情けは人の為ならず」が、上げられると思われますこれに付いてはシニア世代も誤用している方が多い事でも良く知られる言葉の一つで、「情けをかけておけば、それが巡り巡って自分にも良い報いが来る人に親切をすれば良い報いがある。」が本来の意味なのに対して「情けをかけてその人を助けてやる事は結局はその人の為にはならない。情けは、人の成長を阻害するものである。」が、今日の正しい意味として使用されて来たという現状があります。この様に多くの人が同じ様に日常で使用する言葉を誤用するというのはこの様な流れを生む何か大きな理由がある様な印象を受けます。そこで、これらの文の誤用に共通する「核」に注目してみますと全て本来の意味に対して、「真逆の意味」に捉えている事が解り非常に興味深い所だと思います。なぜ、この様な事になるのかいつもの偏狭な妄想を交えて紐解いてみますと…例えばこれらの言葉が現代では無い遥か「昔」に生まれたものだとしたならば想像するに……争いが絶えない戦乱の時代・・・或いは、飢饉が続く不作の年・・・或いは、武家による政(まつりごと)の元時には農家の収穫の殆どを年貢として貢がなければならない問答無用な階級社会がまかり通っていた時代・・・まさに「生きる」事だけでも厳しい明日の生活も見えない生きるも死ぬも全てが戦争の行方次第、天候次第、武家の政のさじ加減な理不尽な世の中に於いて自分の事を考えるのが精一杯で他人に対しての配慮など出来無い他人がどうなろうと、あっしには関わりの無い事でござんす の木枯し紋次郎的個人主義な群雄割拠長期的飢饉武士政権階級社会の時代では、いつ死ぬかもしれない世の中で「人に情けをかければ良い事がある」情けは人の為ならず なのに「恐れや不安で落ち着かない」為に 浮足立ち結局「何もせず諦観」して 手をこまねいて「相手に不義理ばかりで行きづらい」敷居が高い 思いをするといった生きるだけでも辛い現実に囚われ階級社会のストレスから 自分の事しか考えられなくなる他人への関心が無くなる風潮に対して明るい未来の為に「道徳心」の根ざした人間社会作りを目指し当時の賢人達が「教え」として世に拡めて生まれたのが、これらの言葉だと考える事が出来ます。しかし、時は流れ、時代は移り、古い考えは滅び去り、新しいルールで世の中が回る現代に於いては、全ての「状況」は異なり現在の様な、法整備がなされ全ての権利が保証されインフラが裏山の山道が舗装されるまでに行き届きそこで事故を起こしても安心の24時間事故解決力の織田裕二イー○ザイン損害保険的各社自由に選択可能な民主主義安穏社会に於いて、憲法第9条で守られた主権を根底に置き戦争や戦乱が拡大する社会からの接触を遮断し国を大きな泡のように包む、バブル方式 を総意として戦争とは無縁な社会を実現した、民主主義ベース社会主義的ガラパゴス文化の現在の日本に於いて(※あくまで個人の偏狭な辛口の妄想です)言葉が出来た時代の風潮と生まれた起源が現在の価値観に投影できなくなっている事が理由となり不安な未来があっても・・・回避出来ない訳でもない明るい未来があっても・・・確定はしていない明日死ぬ不安は無くても・・・生きづらい人間関係でのストレスが・・・最大の問題として生きる意味を考える余地のある・・・現在では戦乱下の世に生まれた言葉の持つ「明るい未来」を目指した願いも、もはや現実感の無いものとなった事で「喜びや期待で落ち着かずソワソワする」為に 浮足立ち結局「準備して待ち構え」たりして 手をこまねいて「情けをかけては、その人の為にならない」情けは人の為ならず なので「高級過ぎて、上品すぎて行きづらい」敷居が高い 思いをする確定していない「明るい未来」を目指すよりも現実を生きる「今」が全てと捉えている所にこれらの誤認識が生まれた理由がある様に思われます。では、なぜこれらの言葉の意味が現在では真逆の意味に捉えられる様になったのかという理由ですが考えられる事としては言葉が生まれる背景に、文化や国民性の現れである他に気持ちの現われがあるとしたらここで言う「背景」が「恐れ」や「不安」といったネガティブな状況に対してその反対側に同じ量と質を持った 「希望」と「安心」を求めようとする自然な動きがある という絶妙な「バランス」で世界が出来ている事を前提として主たる出来事に関連した事象であると仮定すると・・・人の気持ちも、同じ作りになっていると捉えそれで言葉の意味が逆転するという事は「恐れ」や「不安」な気持ちが上回り希望と安心を望む方向に向かおうとした「過去の時流」に対して希望と安心が上回った「現在の時流」に於いて恐れと不安を感じるバランスが過去と逆転 した結果の現れ ではないかと考える事が出来ます。それは、本来「明るい未来」を目指した言葉が現在では意味が変化した事からも「明るい未来」を目指して作られたこれらの言葉がもう 必要が無くなった 事を意味するので先人の作った言葉の意味が現代に通用しなくなったのが現在の研究者が言う様な「基礎的な道徳心、更には社会の規範に対しての心の乱れが言葉の乱れとなって現れている印象がある」というネガティブな指摘は指摘として・・・つまりは先人の賢人が目指した明るい人間社会が「実現」されたこれは「証」ではないかと捉える事が出来ます。・・・しかし、先人の賢人が目指した社会が果たして現在がそうだと言えるのかどうかという証明が必要な問題 はここでは語る事ではありませんので置いておき・・・先人の賢人が目指した社会が現在だと仮定して言葉の本来の意味を取り違える程現在では通用しなくなった時流について言語学者が本来の職分を逸脱し社会学者の真似をして「心の乱れ」を切り口に世の中に警鐘を鳴らすのも良いですがそれらの言葉が本来持つ意味の「整合性」のみを問題視して世の不安をいたずらに煽るだけ煽る前にそれらの言葉がどういう経緯でなぜ生まれたのかという「目的」を捉えれば言葉の持つ意味とはとある真意で目的を持って過去の日本で作られた既にその真意は達成された世の中でもう現代人には必要のない過去の戒めを含めた意味消失した言葉としてあくまでその精神の一部が現代でも大いに学ぶ価値がある「学問」の一環の知識として「知っておくべき事項」と捉えて紹介するに留めるとして過去の滅んだ言葉は捨てて今の「生きた」言葉を使う今を生きる現代人としてはこういう事を常識として知っておかないと社会人として恥ずかしい という考えがまだまだ上回る世であれば別として・・・昔の意味消失した滅んだ言葉に対して現代人の新たな感性というフィルターを通した事でそれらの言葉が別の意味を持たせて新たな「生」を得るまでに浸透する 様にそう世の中が仕向けるのであれば「ヤバい」が「危険」から「格好良い」に意味が変化し、「マジ」が「本当だ」から「冗談じゃない」に世の中に浸透する様に「情けは人の為ならず」が「情けは他人では無く自分の為にかける」から「情けは人の成長の妨げとなる」に意味が変化する様にそれが世の中の正しい流れとして言葉に新しい意味を加えた上で再び受け止めるのも良いかもしれませんし別に無理やり正して、世の流れを修正しようと目論むことは無い様な気もします。一方で、「現在言葉が荒れている」と感じる感性が今の世の中を生きる私達「一般人」の中からでは無く世の中を正しい方向へと導く立場にある「学者」達の中にあるという事は他ならぬ、世の舵取りをし、先導者となる立場の者達の感性のバランスが「恐れや不安を感じる」方向へと傾いているという事になるのでそれは今の世の中が、自分の事しか考えられない「個人主義」の世の中だった頃の過去の日本の状況へと向かいつつあるこれは「兆候」なのかも知れません。■▲目次へ▲■□■■■2020年2月掲載■『wikiの写真で一言』Frozen lake Jägersee near Kleinarl, federal state of Salzburg, Austria(画像参照:wikimedia)『こんな 所に・・・Uber Eats が 来ると思うかっつ?!!』(※よもやと思い、念の為に書いておきますが、コレはフィクションのネタで写真と、台詞と、UberEATSとは一切関わりはありませんのでご注意を・・・w)■Uber Eatsの落とし穴とは?■「Uber Eats」は2016年にサービスを開始しコロナ禍に於いて、宅配の需要が高まった事で類似サービスの「出前館」などと共に急成長を遂げたアメリカ発のデリバリーサービスで蕎麦屋の出前とも、ピザの宅配とも、まして宅急便とも異なる出前をして欲しい飲食店と自転車で料理を配達する個人事業主の配達員の間を取り持つ「マッチング」を業務としてビジネス化したかつて無いスタイルのサービスとして話題となりました。開始当初、33都道府県の一部エリアのみのサービスに留まり、ややお高い感のある出前料が加算されるシステムなどで一部の裕福な層が利用するサービスというイメージが付きましたがその利便性から近年徐々に需要が高まり全国47都道府県へとエリアを拡大させ飲食店の出前代行サービスとして、広く認識されるまでになりました。一方で、この様な新しいタイプの事業にありがちなそれに伴う問題点も多く、利便性のある出前サービスとして都市部を中心に浸透して行くに伴い低賃金で過酷な労働を強いられる多くの配達員を排出し加えてモラルの低い一部配達員が引き起こすトラブルが多発し近年ではUber Eats側が提供する悪天候時の配達での追加報酬「クエスト」目当ての配達員が引き起こした死亡事故などが社会問題化するなどプラットフォーム(環境)となるフレームワーク(枠組み)を理解する意識の改善や欧米の新事業を環境の異なる日本で展開する為の法整備など解決しなければならない問題が山積みのサービスでもあります。この様な外資系の新ビジネス進出に対して普及が問題になるのも「ものづくり日本」という言葉で象徴される日本の産業がものを作って売る、ものを育てて出荷する、ものを書いて出版するという様な、日本人に取ってビジネスが目に見える具体的な「もの」を売る事だと捉える傾向が強くあって「現金崇拝」が根強く残りその結果「キャッシュレス化」の普及にも影響が及び「キャッシュレス後進国」と呼ばれる事となったり、「音楽配信」などのサブスクリプションをはじめとする目に見えないものを取り扱い、実態のないものを商品として取引する「サービス」と呼ばれるタイプのビジネスに対して「サービス」=「無料」という感覚が根付いていた事などから日本がこの様な新分野に対して毎回世界から大きく立ち遅れる事が急激な普及に対して理解度が追いつかない事態を生み出し普及が社会問題化する要因となっていると言えます。特にUberの問題を物語るものとしては交通法規を守らない自転車の危険運転や商品破損で受け取り拒否したものを近所に投棄したりする様々な迷惑行為に対してUberにクレームを入れても「サービス向上に務める」というテンプレ対応に留まるのみで迷惑行為は「配達員」の問題として警察に届ける様催促するなどUber側は責任を一切取らないというものでこの様なUberの対応がSNSでも拡散され炎上し、ニュースなどでも大きく取り上げられました。あくまでも欧米スタイルの対応を貫くUber側の態度から感じる印象からも分かる様にこの様なUber型プラットホームビジネスの最たる問題というのは日本の企業が行う顧客に対しての誠実な対応に対してUber側のありえない程の顧客に対する不誠実極まりない対処に、あるのでは無く企業の業務の範囲外の事に対しては徹底的に関わらない欧米スタイルのサービスビジネスから垣間見える日本の風土にそぐわない「世界標準」が日本に浸透してくる事に対しての「違和感」である様に思われます。Uberの様なプラットホームビジネスの本質は、起こり得る顧客間とのイレギュラーな問題を全て現場に転嫁し切り落とす事で、ビジネスをシンプルに出来る点にあり余計なものは徹底的に抱え込まないという、新時代ビジネスの姿勢の冷徹なまでの徹底さを感じる所でもあります。しかし、落とし穴もあります。今後導入される「インボイス制度」により免税事業主だった配達員が消費税を納める必要が出てきた事で今後、Uberの経営に大きな影響が出ることになりました。「インボイス」とは、ざっくり言いますと・・・事業者は納税する季節がやってきますと、売り上げにかかる消費税額から仕入れ経費にかかる消費税額を差し引いた額を納税する決まりになっているのですが・・・要するに、売上の消費税から、仕入れの消費税を引いても良いと言うことです。この仕入れ経費に掛かった消費税などの「内訳」が分かる様に書かれた書類の事を「インボイス」と言います。事業者は売り手から買った商品から「仕入れ経費税金」を引いた税金を払うため売り手からその内訳が書かれた「インボイス」を受け取るのが事業の上の手順となっているのですが年間売上1000万円以下の事業主は、売上の「納税」が免除されていました。当然、「インボイス」を発行する必要も無い訳ですしこの様な免税事業主との取引をする課税事業企業も免税事業者との取引だった旨を帳簿に記入すれば「インボイス」無しでも税額控除が受けられた訳でした。要するに課税事業者は免税事業者から220万円の請求があった場合ここから消費税10%の20万円を仕入控除税額として差し引けた訳ですつまりUberは、この制度を利用して免税事業者となる販売員達の請求から「インボイス」無しで仕入控除税額を差し引き些末な事務処理と、加えて面倒な顧客対応も差し引きシンプルで利益率の高いビジネスを実現したと言えます。しかし2023年10月1日から、取引の際に事業主から「インボイス」を受け取らないと企業は税額控除が受けられなくなり、免税事業主の消費税を負担する事になります。しかもこの「インボイス」は、課税事業者にのみ発行されるものなので免税事業者だった配達員は今後は課税事業者としてやって行く事になります配達員は只でさえ低賃金労働を強いられている所を売上から消費税が課税され更に収入が減る事になり運営が困難になる事態が発生する事になります。この消費税をUberが負担するという可能性もありますが、これまで免税事業主を雇って成り立っていた事業だけにUberも運営困難な事態に陥る事になります。「インボイス制度」の導入は、現在消費税が8%と10%の二つの消費税率の存在が背景にあり消費税8%から10%の引き上げに対して食料品などに導入された軽減税率に付いて何が消費税率が8%なのか10%なのかをはっきりさせる必要が出てきた所に理由があるのですがこれは、税率一律10%で控除を受けがちな免税事業者とその取引先に対する処置なのではという印象があります。・・・案外日本政府はUberの様な外資系が 米国内で資本主義的反トラストな傍若無人の限りを尽くすのを見て今後も日本でタクシーに宅配に貨物にレンタルにと各種業界へと進出しシェアリングエコノミー部門で突出した存在となり問題が発生したらマッチングした現場に全て転嫁する体制で想定外な低所得者層を次から次へと無責任に排出してはこの様な低所得者層の救済措置は日本政府に全て押し付けて日本の免税層と免税制度を利用するだけ利用して問題が起きても何の責任も取る必要がないシステムで日本経済と日本社会をかき回しながら儲けるだけ儲けて日本円を海外に流出させていく恐れがある事を兼ねてから問題視して来てこの様な制度を設けて排除へと向かう良い口実としたのかもしれません・・・がまあこれは 単なる妄想ですので 突っ込まない様にwしかし実は、これが「落とし穴」ではありません。これからする話は、今後の見通しというよりもいつもの多分に妄想の入った、ウチの見解なのですが・・・w例えばG○○gleの様な企業が「AI」を使ったプラットフォーム事業に乗り出して「マッチング」を プログラム化 してこれを 無料 で始めたとしたら「Uber」や「出前館」の様な所がどんなにサービスを駆使しようと競合他社となるGo○gleが「無料」でやっているので、経営不可能という事態に陥ります。飲食店の配達費はG○○gleから自動的に課金され、配達員はそれをG○○gleを通して搾取無く受け取り、G○○gleはそのやり取りをデータベース化してそれを財産とし、最高の「ウィン・ウィン」の関係が成り立つ事となります。21世紀に入り資本主義が限界に来たと言われるのは経済の父アダム・スミスの時代には無かった「ネット」に「経済」が受ける影響が想定外だった所に理由があり21世紀を20年以上経過した世の中で特定の立場に利益が集中し世界の富の8割以上が1%の資産家が所有する驚異の格差が発生するのもこの時代ならではのものと言えますその様な中で、罪に問われない方法を画策しながら資本主義的システムを利用して利益を得るこの様なタイプのビジネスは社会問題化し法が変わるまでの間経済社会、ネット社会の主流として次々と現れては富を独占し続けて行くと思いますがネットの誕生と共に生まれ地球の歴史のどの世代とも異なる「ネット世代」が現れてから20年余りこれまではアダム・スミスの見えざる手が富をもたらし来たビジネスもその富によって、何でも手に入れる事が出来た資本主義の世の中もネットの時代となりTwitterのフォロワーも、一つの「財産」と呼ばれるそんな折に「Twitterで100万フォロワーを持つ人物はそれによって1億円を稼ぐ事は可能だが1億円があっても100万フォロワーを得る事は不可能だ」と 誰かが言った様に遂にお金で手に入れる事が出来ない「財産」が出現した「評価」が「財産」となる21世紀の社会に於いてTwitterやLINEでいいねされない、Instagramでバエ無い、TikTokでカオスにならないYouTubeのアルゴリズムに引っかかり削除される様なG○○gleのAIに取って変わる様なネット世代が主流となるネット社会に評価されない 様なビジネスは今後、時代遅れと言われ通用しなくなる のかもしれませんと、これはあくまで可能性のお話なので可能性と言ってもほとんどラノベか都市伝説に近いブログ主の取り留めのない「妄想」のお話なのでこれを信じるか信じないかはあなた次第です。。。w■▲目次へ▲■■□■■2020年3月掲載■『wikiの写真で一言』 Frühlingslandschaft in der Schweiz (Aaretal, zwischen Thun und Bern)(画像参照:wikimedia)A.K監督『・・・あの木がジャマだなぁよしっつ切ってくれっつ!!!』大道具頭領『おーっしっつ!!!切るぞーっつ!!!』スタッフ『おーーーーっつ!!!』(木を切りにスタッフが一斉に動く)D.Kカメラマン『はあ?アレは居るだろおいっつ!!!切るんじゃないぞっつ!!!』大道具頭領『おーっしっつ!!!撤収ーっつ!!!』スタッフ『おーーーーっつ!!!』(スタッフが一斉に撤収する)ハリウッド・プロデューサーF.F.C『・・・Japanese Style ?』(※よもやと思い、念の為に書いておきますが、コレはフィクションのネタで写真と、台詞と、黒澤明と木村大作とフランシス・フォード・コッポラとは一切関わりはありませんのでご注意を・・・w)■柔軟性が害になる事とは?■映画に付いて考えた時に、「映画監督ってどういう人?」と問われたら(寅さん風に)「そりゃぁお前w・・・映画をだっつ・・・ええwっつ?あ、あれだよっつ・・・ほらあ 監督するっつ人だよっつ!!!」と、答える他、w映画ファン以外の方で正確に答えられる方は少ないかと思われます日本では是枝裕和監督や山田洋次監督の様な人物が原作本や脚本を映画化する為に就任し撮影プランを立てて、セットや美術やロケ地をどうするか決めて役者に演技を付けたり、セットやロケ地で撮影を指示したり、撮影した映像の編集を指示したり、音声効果や音楽をどうするか決めたりそれらを演出し、スタッフをまとめて監督する人が、映画監督の仕事だと日本ではそんな感じで認識されておりますが海外になりますと事情は変わりまして、ジョージ・ルーカススティーブン・スピルバーグの様な制作者も脚本にも名を連ねる様な映画作家は別として、映画監督は基本映画を撮影する為に雇われた雇われ監督であり、現場の撮影を監督した後は編集などには関わらず、それでお仕事はおしまいというのがハリウッドスタイルとなります。映画の撮影が完了したら撮影した素材の編集は厳密に分担作業化しておりまして映画監督は撮影現場では、撮影を仕切る立場ではあっても立場は、脚本家や音楽家や編集や美術スタッフ同様に映画制作で雇われたイチスタッフという事になります。従って契約にもよりますが、映画監督だからといって脚本や衣装デザイン、美術、編集はもとより音楽音響をどうするかとか、特撮CGをどうするか などにクチを出す権限は無い様で、撮影された素材の仕上げの全ては映画製作の全権限を持ったプロデューサーが仕切る事になります。つまり、映画を作っているのは映画監督ではなくてプロデューサーであり、映画監督はプロデューサーが作りたい映画を撮る為に雇われた映画人、というのが欧米での映画監督の立場という事になります。そういうハリウッドスタイルに慣れていない日本人監督がハリウッド作品を担当した時など美術スタッフなどと勝手に打ち合わせを始めたりするとプロデューサーがすっ飛んできてえらい剣幕で怒鳴られるらしくw映画の演出に関わる以外の制作事に付いては必ずプロデューサーを通して話し合いをするというのが欧米の映画のシステム という訳です。又これらは監督組合、脚本組合、俳優組合など、それぞれの組合で決められた守らなければならない取り決めでもあるようです。例えば映画はオープニングでタイトルが出た後キャストや主要スタッフや監督などのテロップを出して映画が終了したら、キャストスタッフ関係者全ての名前が流れるエンドロールと呼ばれる これらの表示は欧米では義務付けられておりこれを怠ると厳しい罰則が下される厳密なものでもあるようです。では「スター・ウォーズ」の場合はどうなのかと言いますと「スター・ウォーズ」は映画が始まって「STAR WARS」のタイトルロゴが画面奥にフェードアウトした後これまでのあらすじが画面手前下からスライドインして画面奥へとフェードアウトした後レイヤ姫の乗った宇宙船が飛んできてそれを追うスター・デストロイヤーが画面上部を覆うようにどおおおおおおっとフレーム・インしてくる特撮映画史に残る衝撃的名シーンが繰り広げられるほかはそのまま映画は進行しルークやレイア姫、ハン・ソロ、チューバッカC3PO R2D2が横一列に並んだラス・トシーンが開けてエンドロールになるまでキャストスタッフテロップが出ないまま映画は終了しますこのスリリングで非常に画期的な演出はその後の娯楽映画のあり方にも影響を与えたスター・ウォーズならではの「仕様」なのですが。これは当然、当時問題の対象となりキャストスタッフテロップを出すようにと映画組合の間で揉めた様です。プロデューサーでもあるジョージ・ルーカスは映画を作る度 毎回組合と揉め事が起こるのが煩わしくなって最終的には組合から脱退したそうですが米国では組合非加入の映画制作では組合に加入した俳優やスタッフは雇う事が出来ない決まりになってはいても労働条件を守って一定の手続きをすれば組合と契約出来るという救済措置があるので2000年に入って制作されたあのスター・ウォーズはジョージ・ルーカスが私財をつぎ込み自主制作映画として作った映画となりました。つまりオープニングテロップやエンドロールは全ての映画に関わった人間を表示しなければならない映画組合の規約があり、それに則って付けられていた訳です。なので 映画館でエンドロールが流れ出した瞬間殆どの観客は席を立って劇場を後にしますがそんなものに付き合うのはよっぽどの映画好きかお人好しダケだと無駄な時間を省く行為としては極めて合理的と言えます。ただ、私の様な映画好きはそれを含めて「映画」と思っている好意的な人間でもお人好しという訳でも無くw別の目的があり、それを確かめる為にエンドロールの最後まで居るようにしております。実はエンドロールと言っても色々なものがありまして・・・例えばエンドロールに3曲位の音楽を強引に差し込んでいる様な映画がありますがこれは映画に出資しているスポンサーの契約の消化に当たっている行為でそういう映画は本編内にも 車や店舗、身につけているアイテムや食べているものなどこれでもかという位アピールしておりますこれが邦画の場合だとこの様なアピールだけでは済まなくなり出資者は出資者という立場を利用して映画に出資している、ただそれだけの理由で映画制作そのものに口出しをし映画制作が自分達に有利に働く様に画策して来ますのでこれが「過ぎる」とキャスティングや映画の物語そのものにもクチを出し映画を波状させる事にもなります。邦画に変な映画が多いのはこういう行為が横行する映画製作はお金がかかるという所に問題の「核」がありこれでは「映画」である事が映画を破綻させる理由であると言えなくも無い訳です・・・wそれに比べ命令系統がプロデューサーを「核」として一本化しているハリウッドはそういう事は無く鬼の様に多くのスポンサーが付た「007スペクター」は (確か・・・w)映画全篇に渡ってコレでもかという位のアイテムの宣伝場面が挿入されましたがちゃんと名画となりましたしかし80年代などは米国音楽界と映画界がタッグを組んでいた事で安くヒット曲が使えたという背景からエンドロールで結構雑なチョイスでヒット曲を使用する映画が多くそういう映画は脇も甘く映画本編も雑だったりしましたw一方でしっかりとした映画はエンドロールにも力を入れて全スタッフをねぎらう様な特別な音楽を付け厳粛な雰囲気を漂よわせるものがありました又 最近はアベンジャーズシリーズの様に、ラストシーンの後にもショート映像を流したものやディズニー作品の様にエンドロールを利用してテーマ曲の完全版披露を一つの見せ場にするものなどエンドロールタイムを退屈なものにしない工夫をしております。この様にエンドロールを見れば製作者の姿勢が解ったり映画が狙う意図が見えたりと多角的に映画を評価する時作品からは見えない制作の側面を見て取る一つの目安として非常に興味深いものがありそういうものを鑑賞するのも映画の醍醐味の一つだと思いそういう訳で映画は劇場内が明るくなるまで席を立たない様にして毎回鑑賞しております。wさて「組合」であるからには当然「ストライキ」もあるわけで、ストライキを行えば当然映画制作に影響を与える訳で、これをTV界で行えば尋常じゃない位の数のドラマ作品が影響を受け放送そのものにダメージを与える事になります。2008年の米脚本家組合の3ヶ月に渡る巨大ストライキの際に影響を受けた有名ドラマの中にヒットメーカーJ.J.エイブラムス制作の大ヒットドラマ『LOST』がありましたが、これは24話を16話に短縮して成功させた稀有な例で、まあJJは天才ですから・・・w日本人キャスト田村英里子の出演となった事でも日本で話題になった『HEROES/ヒーローズ』シーズン2では全24話予定の所を、後半の脚本が上がらなくなった事で折しもシーズン2が視聴率不振に陥った事もありこの機会を逆に利用して番組の立て直しを計り潔く11話に短縮したのですがその甲斐もなく視聴率不振は収まらず残りのシーズンも『プリズン・ブレイク』のセオドア役ロバート・ネッパーの出演などで、テコ入れを行なったのですがどのシーズンもシーズン1の質を保てずにシーズン4で終了する事となります。まあシーズン1でやるべき事と観たい事を全部やってしまいましたから「飛び道具」に頼る様じゃ終わりでしょ・・・w当の『プリズン・ブレイク』もシーズン1以降のシーズンは視聴率が低迷し最終シーズンが脚本家組合のストライキと重なった事もあり打ち切りが決まります。まあ脱獄して話が終わっているのにいつまでも続けてましたから・・・w日本では近年リメイクされた事でも知られる人気作『24-TWENTY FOUR-』の場合はドラマそのものが「24話」をやらなければならない事から放送予定だったシーズン7は1年延期し代替処置として『24リデンプション』と名打ち2時間スペシャルを放送し、延命しておりまあ、2時間の話を2時間で描いた割には詰め込み過ぎという感じではありましたが・・・wという訳で、当時放送していた殆どのドラマがストの影響を受けて視聴率を低迷させる事となります。本来、ストによってその様な結果を生めば自分達の権利のみを主張した挙げ句業界全体の不利益をもたらしたと組合そのものが批判の対象となり今後、映画ドラマ業界の中で仕事をする上で風当たりが強くなるだけで何の得も無いという印象しかありませんがそれは今後の仕事付き合いを考えて気まずい思いをすると感じる極めて「日本的」な感覚と言えます。ストライキは本来、交渉の要となるもので決行したら仕事が止まる事を「切り札」とした水際のギリギリのラインまで如何に攻めるかという「やらない前提」で進める駆け引きなのですが、それだけにその一線を越えた時にすみやかに決行出来る「決断力」と「実行力」を持つことが必須の交渉術だと言えます。そういう点では決断力が必要な「集団」という点に於いても実行力を持つ「組織」という点に於いても世界に大きく遅れを取っていると言われている日本の映画界は、映画監督は演る側、撮影監督は撮る側と分かれている点では欧米のシステムと同じでも容易に他の部署に口出しが出来る点に於いては一見集団としては柔軟な印象がありますが先程の例の様でも分かる様にのべつ幕なし意見を言える立場が増殖してもそれを制する括弧とした「仕組み」が無いので組織としては潜在的な問題を抱えたシステムと言わざるを得ないものがあります。例えば、近年映画界に参入してきた「CG部門」に於いて最たる例を上げますと藤沢周平原作の小説を巨匠山○洋次監督演出木○拓哉主演で描かれた『武士○一分』の撮影現場では配属されたCGチームが画面で「ほたる」が飛ぶCGを合成する座標を認識するためのマーキング作業の最中にセットを認識する為、必要な分のマーキングシールを貼っていたらベテラン山田組の撮影スタッフ達によって撮影の邪魔だという理由で、全部剥がされるという事態が発生し、その後、そのホタルをCGでどう飛ばすつもりなのかCGスタッフはペンライトを持たされてセットの中で実演させられるという、仕事の邪魔をされた挙げ句、まさかの仕打ちを受けます。いくら撮影現場では新参者の若輩スタッフだとは言え仮にも今後世界市場に打って出る、今後の邦画界を担う新たな騎手達に対してのリスペクトのかけらも無い振る舞いに驚かされますが松竹映画の中でも穏健派で特に若者文化に理解があったはずの山田組と言えども中身が世代交代を遂げないままスタッフ達が監督と共に歳を重ねるに従ってそれらが形骸化したのか自分達の撮った素材をどこの馬の骨だか分からない若造達に汚されたくないという閉鎖的感覚の権威主義が、いつの間にか根ざしていたのかもしれません。その様な状況下で、監督のみならず、1スタッフレベルで他の部署に容易く口を出せる体制というのは、融通が効くどころか、逆に能力のある者が優遇され、発言力が増して行くにしたがって誰も意見できない立場を生み出し、何者も何も変える事が出来ない、その様なシステムが存在しない21世紀の世の中に於いて現場が時代遅れのカオスとなる「温床」を生み出す良く分かる実例だと言えます。所でなぜ伏せ字があるのかと言いますとまあ、しいて言えば「AIのアルゴリズム」の問題ですモニョモニョ・・・wなので、先程のマーキングシールの話の様に「邪魔だから取れっ!!!」 とくれぐれも言わない様に・・・wさて欧米の場合も 確かに、ハリウッドの映画組合にもヒエラルキーの様なものがあり交渉の先陣に立つのが監督組合の代表という慣習から監督組合の代表が、映画界の中では非常に有利な優遇される立場にあると言えますが、毎年組合の代表は投票で決められる為「癒着」の様なものは無く日本でありがちな、誰も意見できない立場を生み出す様な「温床」の存在しない所にシステムとしての完全性が伺えます。ココで最初の話に戻りますが・・・wそれで映画監督とはどういう人物なのか という事ですが狭義では、冒頭で話した「プロデューサーに次ぐ権限を持った映画制作を統括する人物」で広義では、特に巨匠と呼ばれる様な人物になると作る映画にも自分の経験や考えを衒いなくストレートに出す傾向があるそういう類まれな「作家性」を持った映画人が映画監督 として広く知られるという認識があります。そういう「作家性」の非常に強い「天才」肌な人物程世に疎く人付き合いや人柄に問題のある人物だったりする事がありそれは山田○次監督とて例外ではありません。「武士の○分」の記者会見の時、山田○次監督は映画スクリプター野上照代のエッセイを描いた次作「母○え」で、念願の吉永小○合を迎える事が決まって舞い上がっていたのか本来「武士の一○」の話に終始してヒットに繋げなければならない所を本作とは関係ない次作のしかも吉永小百○への思いを語るという一幕がありました。この誰も止められない監督の空気の読めない行動に対して俳優生命をかけた出演となった主演の○村○○はバラエティー番組の中で冗談交じりでこれらの裏話をしていたのですが正直心中は穏やかなものでなかったと思います。「男はつらいよ」では、学もなく場の空気が読めない主人公寅さんが引き起こすドタバタをユーモアと心情たっぷりに描いてきた山田監督でしたが東大出身のインテリで理論派な類まれなる映画作家ではあってもそういう人物にありがちな、視点が高い故に10年先は見えても足元が見えない人の世の営みに疎くなるそれだけに「人情」を掘り下げる視点が深くなり大傑作と呼ばれる作品を輩出する。作家性のある映画監督は、良く自分の体験を描いたりしますが実は「寅さん」というのは他ならない作者本人を描いたものだったのかもしれません。。。w所でなぜココにも伏せ字があるのかですがそりゃぁアナタw・・・伏せ字をだっつ・・・ええwっつ?あ、あれですよっつ・・・ほらあ アレするっつからですよっつ!!!内容が「記憶」に頼ったものになって裏付けが取れなかったからなんて言えないモニョモニョ・・・w■▲目次へ▲■■■□■2020年4月掲載■『wikiの写真で一言』James Hetfield with Metallica in 2004. (画像参照:wikimedia)J.M『クッソーーーーーーーーッツ!!!爆発デカくて誰もオレ見てねーーーーーっつWWWW!!!』(※よもやと思い、念の為に書いておきますが、コレはフィクションのネタで写真と、台詞と、メタリカとは一切関わりはありませんのでご注意を・・・w)■Z世代は恋人関係も「発信」して「共有」するとは?■「人知れず努力する」という言葉がありますが、これは、誰にも知られずに、誰の力も借りずに、自分のみの力で自分で立てた目標達成の為にあらゆる努力を惜しまず誰も助けてはくれない先の見えない不安の中で正解があるのか無いのか分からないまま答えのない問いかけに応え続ける様な地道な積み重ねを繰り返して自分に負けず、孤独に打ち勝ち、自分を信じて強靭な精神力を培いながら自分を高める事に務める。「孤高の人」というイメージのある言葉であると同時に多くの事を抱えながら物事を動かし、時には他を救済してみせても都合が悪くなったら即切り捨てる様なその場に応じた「機転」を持つのでは無く一度決めたことは一度信じた人は自分を信じる様に信じる事を貫き通す何かを抱える事、何かを救う事とは何かという真の意味を知り「信念」を持ち続ける誰よりも人を信じる人だと言える様に思います。奥ゆかしさを美徳と感じる昭和の世代にとってはこの様な奥ゆかしい人物は正に人の鑑と言える というお話ですが21世紀を20年以上経った現在に於いてZ世代と言われる若者にとっては心に刺さらない話なのかもしれません。という小話です遡ること37年の1985年昭和の大ヒットアニメにお隣の喫茶店に住む学園のアイドル的存在の幼馴染のヒロインと弟が野球部のエースの双子の兄弟との野球を通した青春を描いた「タッチ」という作品があるのですが、これは原作コミックス総売上2億部アニメ最高視聴率31%を記録した正に国民的作品でその内容が、幼馴染の 朝倉南 との関係も野球部のエースの弟 和也 の気持ちを気遣って常に一歩引いた態度を取り続け自分の事に関して、考えの多くを語らない兄 達也の 奥ゆかしい性格を反映させた様な全編に渡ってキャラクター達が自分の考えの多くを語らない内容になっており特にヒロイン 浅倉南との恋の行くへなど、お互いの気持ちは分かっていても、進展しない様は「いじらしくて涙が出てくる」という欧米のアニメ好きな若者が評価する程の日本人の「奥ゆかしさ」を漫画で描いた真骨頂とも言える作品で、これが奥ゆかしさを美徳と感じる当時の日本の視聴者の琴線に刺さった事での大ヒット作となった訳です。そして時が流れ 2013年に放送された大ヒットアニメ謎の人食い巨人に征服された世界で高い堀の中で隠れる様に怯えて暮らして来た人類が自由に向かって巨人打倒への戦いを挑む姿を描いた『進撃の巨人』は最終シーズンとなる第4期が放送されたコチラも平成から令和にかけて制作された中の誰もが認める国民的アニメなのですが、この作品の特徴が、先程の「奥ゆかしさ」を美徳と感じる昭和の国民的作品『タッチ』の内容に対して主人公たちが置かれている状況や隊員や上司達が何を考えて行動しているのか事細かに描写する「頭の中の声」で進行する「状況の共有」が中心として描かれる正に、真逆の内容という特徴があります。これは「SDGs」が叫ばれる現在とは異なり「男は外で働き女は家庭に入る」「先生は、偉い人は、上司は、無条件に尊敬する」「目上の言う事には逆らわない」「大人とは忍耐強いもの」などの考えが主流だった頃の「沈黙」+「大人」=「尊敬」というたとえ自分が憤るような不当な扱いを受けたとしても大人に逆らうな、上司に逆らうな、親に逆らうな、男に逆らうななどという大多数の要求が「正しい事」とされ少数派のマイノリティーが圧力に屈するしかない暗い過去を振り返らない、明るい未来を目指しながら都合の悪いものには蓋をしてでも一度決めた事は覆さずに前進する「団塊集団」としての社会を築いていた頃の主に昭和の世代の価値観と世相を反映させた良い意味でも悪い意味でも「沈黙」が美徳だったまだまだ社会が「個人」と向き合っていない時代故の捉え方、という側面が背景となり女性が社会に進出し始めて意見を言う女性が注目し始めた80年代の世の中で現在の様に、女性の活躍の場が無く女性が社会に進出する事に対しての理解が無く男を働き手とした生活しか選択肢が無かった過去の昭和の時代性を、反映して80年代を象徴する、男に意見する活発なヒロインに対して昭和の寡黙な古いタイプの男を主人公に添えて管理社会と呼ばれる、何もかもが新しくなった80年代の世の中で、今も変わらず存在する昭和の良き時代の香りがするそんな昭和の男を高校球児のエースとして描き消えゆくものに対してのノスタルジーを失われた青春時代を思い出す様に感じさせた所に大ヒットの鍵があった「タッチ」とは明らかにヒットの鍵が異なる様に思われます。それは2000年以降に登場した「インターネット」に大きな理由があった為だと言えます。「インターネット」の大きな特徴は社会に於ける第二のインフラという側面の他に、離れた他者との情報を瞬時に「共有」出来る点にあります。これは単に、電話回線を使って文書を送信するFAXが便利になったもの、という捉え方では無く電話の様なリアルタイムで会話が進行するタイプの特定の人物との意思疎通だけではなくどこの誰か分からない、不特定多数の自分と同じ考えを持った、或いは異なる誰かへ発信する意思表明に対しての「共有」を目的としたこれまでの社会には無かった情報社会ならではのコミュニケーションの形としてまたたく間に世界中に普及した所に大きな特徴があったと言えます。これによって最も影響を受けたのは生まれた時からネットが存在したZ世代で、彼ら彼女たちにとっての「世界」とは手のひらサイズで繋がる事が出来る「近くて狭い」ものでありその手のひらサイズで繋がる「ネット」とは遠くに居る人の考えを知る、または伝える「窓」であると言えます。従って、Z世代にとっての「人付き合い」とは「共有」であり友人関係や恋人関係に至る「人付き合い」もお互いが今どう云う状態なのかいま自分達は付き合っているのかどうか当事者以外の人達へ向けて「発信」をして皆に「認識」され「共有」された時点で成り立つ様な「確認」をする事を大事に思っているらしくこの点がこれまでの世代とは異なる大きな特徴があると言えます。これは、他者に邪魔されない様に皆には内緒で恋愛したり、長年連れ添った夫婦が言葉を交わさなくても理解できる「阿吽の呼吸」という言葉で昭和の夫婦を表した「何も伝えない事」が「愛妻家」で「確認をしない事」が「良妻」の証だった時代とは全く逆の行為と言えます。つまり、現代の若者にとって奥ゆかしく、寡黙で、多くを語らない何よりもネットに疎い「人知れず努力をする」人物とは対外的には尊敬できる人物、だとしても感覚的にはまるで「進撃の巨人」の巨人の様に何を考えているのか分からない、ネットに疎いからコミュニケーションの手段がない、それがもし会社の上司で自分にも他人にも厳しい人物なら、感情を顔に表さない事で崩さない表情からは何も読み取れず多くを語らない事で意図があっても知る由も無い「餌」として自分が食い物にされている様な、プレッシャーで潰される様な恐怖しか無いそんな怪物に映っているのかもしれません。「進撃の巨人」が現代の国民的な作品となった訳はこの様な所に理由がある様に思えます。というわけで、結局は極めてベタではあっても「腹を割って話す」という行為は実はどんなに世の中が変わっても有効であり今も昔も変わらないもののひとつと言えるのかもしれません☆というお話でした☆■ という所で終了です。 次回は何が更新されるでしょうかw それでは良い一日をお過ごしください☆【ブログ更新】『Wikiの写真で一言7』●柔軟性が害になる ●Uber Eatsの落とし穴 他 [全4本] https://t.co/xQh5tigVkk #r_blog— Voyager6434 (@voyager6434) April 7, 2022■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■【CD】 Marillion マリリオン / An Hour Before It's Dark 価格:2860円(税込、送料無料) (2022/4/3時点)【送料無料】 トッポギ 韓国食品 韓国料理お取り寄せ 冷凍 1人前 レシピ付き 【李朝園】価格:1800円(税込、送料別) (2022/4/3時点)VANS バンズ ERAレトロな2トーンカラーとチェッカーボードがマッチングローカット スニーカー メンズ 【VN0A38FRU8H ERA】価格:4790円(税込、送料別) (2022/4/3時点)【Blu-ray】武士の一分 [ 木村拓哉 ]価格:4989円(税込、送料無料) (2022/4/3時点)【輸入盤】Ride The Lightning (Rmt) [ Metallica ]価格:1695円(税込、送料無料) (2022/4/3時点)進撃の巨人 全巻セット(1-34巻) [ 諫山 創 ]価格:16907円(税込、送料無料) (2022/4/6時点)[新品]タッチ [文庫版] (1-14巻 全巻) 全巻セット価格:8946円(税込、送料別) (2022/4/6時点)