「見附」と云うところ
写真1 牛込見附写真2 四谷見附写真3 赤坂見附写真4 日比谷見附 写真5 四谷見附橋の高欄東京には赤坂見附、四谷見附など「見附」という地名が何ヶ所かあります。ここは、嘗て江戸城の門があったところで、城に出入りする人や物を検査し、敵の侵入を監視するところでした。濠に架かった橋を渡ったところに高い石垣で四角に囲まれた関所があり、その左右には長い石垣と濠が続いていて、江戸城の内外を仕切っていました。平時は城内への出入りをチェックするところですが、戦時には小さな防御砦にもなります。西欧や中国では街全体を城壁で守りましたから、かつて街を囲んだ巨大な城壁が、現在の街の真ん中を貫いて遺蹟として残っています。しかし、日本の武士達は自らは城内に立てこもり、町民達は城壁の外に置きましたから街中には大きな遺蹟は残っていません。監視所であった見附跡の石垣が旧江戸城を囲むように残っているだけです。武士が町民を守らないのは外国に比べて残酷なようですが、実は逆で、外国では町民達は略奪の対象になったので城内に囲われて兵士と共に戦いましたが、日本では戦いは主として武士達の間で行われ、町民達は戦場の外に置かれていたので逃げることは出来ました。江戸城は内濠、外濠の二重の濠で囲われており、「見附」という関所は内外の濠の要所要所に置かれていました。昔は内濠、外濠合わせて50~60もの見附があったと云われています。それ程多かった見附も今は五つ、六つと数える程です。私達が往時の姿を見ることが出来るのは外濠の見附跡の石垣ですが、それらは牛込見附(飯田橋駅近く)、四谷見附(四谷駅近く)、赤坂見附(赤坂見附駅より2分)、日比谷見附(日比谷駅より5分)などです。(写真1、2、3、4)大阪城の天守閣は再建されましたが、江戸城の天守閣は明暦の大火(1657年)で焼失してから現在に至るまで再建されていません。天守閣も見附も、江戸の遺蹟は放置される運命にあるようです。しかし、観光用に再建されて真新しくなるよりも、草むした石垣の方が重みがあります。なお、四谷見附の橋の高欄が新宿歴史博物館の庭に保存展示されていました。装飾的には立派な高欄です。(写真5)(以上)