渋谷松涛 高級住宅地の先陣
松濤のお屋敷鍋島松濤公園松濤と言えば、東京の高級住宅地の代名詞ですが、明治の初め、そこは茶畑でした。徳川幕府が倒れ、大名達は家来を連れて故郷に帰り、空いた大名屋敷や武家屋敷の跡地に、明治政府は外貨獲得のため桑や茶の換金作物を作らせたからです。しかし、日清戦争(明治27~8年)が終わる頃には東京への人口集中が始まり、住宅地は市内の中心地から郊外に押し出されます。大正14年に山手線が開通すると、環状線の内側より外側の人口増加率が高くなります。今でこそ庶民が自分の家を持つようになりましたが、戦前は借家が普通でした。100人位の大地主が東京の30%弱の土地を所有していましたから、自分の土地に自分の家を建てるのは大地主か大金持ちでした。ハイカラ好みのお金持ちは洋風の家を建てました。大正から昭和に流行った洋風建築はアメリカから輸入したビクトリア様式の建物でした。東京でこのビクトリア様式の洋館が最も多く建てられたのが渋谷だったそうです。渋谷一帯は渋谷川を挟んで起伏に富んだ景色の良いところです。今の山手線の渋谷駅付近は宮益坂と道玄坂が落ちあう低いところですが、その両側には格好の住宅地が広がっていました。中でも環状線の外側の台地は人気がありました。そこが渋谷松濤です。松濤の名前の由来は、明治になって佐賀藩鍋島家が明治政府よりこの地を購入して松濤園という茶園を拓いたことにあります。大正時代に新興階級である政府高官や軍人がこの地に好んで家を構えたと言います。洋風建築を日本に導入するのに貢献した建築家、山田醇も渋谷松濤に居を構えました。渋谷松濤は、昔からの高級住宅地でした。今もその伝統を受継いで、松濤には瀟洒なお屋敷が建並び、鍋島松濤公園があり、観世能楽堂があり、美術館が三つもあります。松濤の住宅地から渋谷繁華街へ坂を下ったところに渋谷東急文化村(音楽、演劇のホール、映画館、美術館などの複合文化施設)があります。街の密集度ナンバーワンの渋谷繁華街から僅か離れたところに、松濤のような静かな住宅地が広がっているのが不思議な位です。(以上)