日本人はボイン好き。
おっぱいのことではない。母音のことだ。日本語は基本的に母音+子音でできている。そして、子音が細く弱く、母音を強く引っ張る。日本は母音優先の文化で、西洋の子音優先文化と対極にある。この構造が、歌やリズムにも影響する。西洋の歌では、リズムの前に子音が発音され、母音が中心にくる。これに反して日本の歌は、リズムの中心で子音を発し、母音を後ろへと押しのばす。だから、ほとんどが裏拍子になる。(演歌なんかがその象徴かな。)また、母音は立ち上がりがなだらやかで低周波。だから、日本人の歌は音の立ち上がりがゆるやかになる。なんか「エッジが立っていない」「まるっこい」イメージがするのはこのためだ。(とくに東北人は、鼻濁音が入るので、角なしのまんま~る状態になる。)これに引き替え、西洋の音楽は、子音がぴーんと高い周波数を多く含むので、音の立ち上がりがすぱっと鋭くなる。というのが、専門家の説だ。なるほど。ということでやちまた道、この説で沖縄の音楽を考えてみた。沖縄の言葉は、母音がすくない。「あいうえお」が「あいういう」のように置き換わる。そして、それとは逆に子音がヤマトより発達していて多い。だから、「少なくとも」ヤマトゥンチュよりは、子音の方に意識のある文化だと言えるわけだ。ヤマトゥンチュが歌う八重山民謡は、なんか民謡というよりは、演歌っぽい感じがするのも、このヤマトゥンチュのボイン好きに由来するように思えてしょうがない。それに対して、ウチナンチュ(とくに八重山の人たち)が歌う歌は、どこか、エッジが立っていて、声を張り上げなくても、歌の輪郭がしっかりしている。そして子音独特の、なんと表現したらいいか、竹の間を渡る「風の音」のようなものを感じる。それが、いわゆる八重山民謡らしい音になっているのでは。これは、多くの人が誤解しているが、個人レベルの話ではなく、いにしえからDNAを介して伝わる地域性・民俗性の問題だと言えないだろうか。人間しゃべれない音は、聞けないという法則を持っているらしい。少しボイン好きの耳を改良して、八重山の音を聞かないと、聞けていない「大切な音」があるような気がする。