オペラ 「蝶々夫人」 新国立劇場公演: すばらしかったが、違和感ポイントふたつ
きょう大雪の日が千穐楽。観客の皆さん、交通がご無事でありますよう。わたしは5日の夜、仕事帰りに観てきました。ムダを削ぎ落とした舞台空間の、すばらしい公演でしたが、ほんの少し残念な点もあったので書いておきます。今年は4月下旬にも 二期会の 「蝶々夫人」 が東京文化会館で行われるので、それも観るつもりです。260205 Giacomo Puccini: Madama Butterfly @ 新国立劇場オペラパレス 指揮: Keri-Lynn Wilson 演出: 栗山民也 出演: Alexia Voulgaridou, Mikhail Agafonov, 甲斐栄次郎、大林智子、内山信吾じつは 「蝶々夫人」 を観るのは初めて。いくつかの旋律の特徴的な一節が、ミュージカルの 「レ・ミゼラブル」 や 「ミス・サイゴン」 で聞きおぼえのあるものだった。後年のミュージカルが、剽窃にならない範囲でプッチーニのメロディーにオマージュをささげていたわけである。2列目右端近くの良い席で、自ら命を絶つ蝶々さんを正面から見る席だった。海外公演での時代考証の失敗をとりあげた記事を何度か読んだことがある。栗山民也さん演出だからその点は大丈夫だろうと思っていたら、別の切り口で違和感ポイントが2つあった。第2幕第2部でピンカートンが畳の部屋に土足で上がるのは余りの違和感。第1幕でもゴローが草履のまま畳に駆け上がるシーンあり。「あ、あれはおかしいよね」 と観察脳が警報を発すると、藝術脳のテンションが下がる。また、第2幕第2部に登場する米人妻ケートを、顔立ちが地味で黒髪の日本人歌手が演じていたのにも違和感。この違和感は、蝶々さんをギリシア人の歌手 (しかも白人としても派手な顔立ちの) が演じていることから来る。「日本人」 と 「米国人」 の生まれの違いがストーリー上 決定的な意味をもつシーンなのに、米国人役の姿は どう見ても漱石の坊ちゃんのマドンナだ。ピンカートンの米人妻役は、少なくとも蝶々さんよりも白人 「らしい」 姿で舞台に立つ必要がある。ケートの独唱部分は、蝶々さんとの掛け合いの僅かなものだし難度は高くないから、日本在住の白人歌手を見つけることも可能だったろうし、日本人なら金髪のウィグを利用するなどして、白人っぽい演出をすべきだった。舞台上のひとが全員 アジア系の人だったとしたら、気にならなかったであろうポイントだ。