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初代カメハメハ大王の名前から、ハワイが王国であったことはよく知られている。 また明治26年(1893年)までの26回の送り出しで2万9132人が、翌年の日清戦争開戦の年(明治27年)には約4万人もの人がハワイへ移民しており日本とハワイとは関係が深い。 ハワイ諸島はカメハメハ大王(1758~1819年)が、はじめて統一王朝を建てた。 アメリカは太平洋戦略の重要な拠点と位置づけて、1898年にマッキンリー大統領によってアメリカに併合されたことでハワイ人による国家は終焉を迎えた。 併合後1959年に至って、ハワイはアメリカの50番目の州になった。 アメリカのDe Long駐日公使が、ハワイ公使を兼ねることになって就任したのは1871年である。 それから三代目のRobert Walker IRWIN(1881.7.16任命)総領事は、日本人を妻として終生を日本で送った。 アルウィンは政府高官井上馨の紹介で東京芝の高級料亭「紅葉館」の伊香保出張所を、明治24(1891)年に買い取って別荘とした。 100年前の東京の夏も今と同じくらいに蒸し暑く、涼しい避暑地が欲しかったのであろう。 この別邸として使われていた当時の建物が「旧ハワイ公使別邸」として、現在も伊香保温泉の石段街に続く入り口の右側の小高い丘の上にある。 初めてこの建物を見た人はRobert Walkerが建てたものと誤解し、洋風で無く純日本建築であることに奇異の念を抱く。 しかしこの建物はもともと料亭が出張所として使っていたものであることからすれば、純日本建築であることは至極当たり前で当然のことなのである。 1985年に保存のため移築されていたのだが、石段街延伸に伴う改修工事が終わり周辺整備の一環として元の場所に移して26年5月3日から無料で公開されている。 この建物は昭和60年にハワイ移民100周年を記念して、旧ハワイ王国公使の居住建物の名前で保存されることとなった。さらに建物は、渋川市指定史跡に指定された。 しかし実際はハワイ王国の公使が日本家屋を購入して使用していた、建物と言った方が正確である。 一階は全面フローリングだが、二階は畳敷きとなっている。硝子戸に嵌められたガラスが歪んでいるのを見ても、明治が偲ばれる。 渋川市とハワイ州ハワイ郡は姉妹都市として、様々な交流が行われているという。 また、毎年夏に伊香保で「ハワイアンフェスティバル」が開催されるのは、アルウィンとの繋がりによるものとされる。 湯の町伊香保は、全体にモミジの木が多い。訪れたのは11月初旬だったが、高台から何処を向いても今を盛りに燃えるような赤が続いている。 京都東福時のモミジも有名だが、仕組まれない自然の紅葉はまた格別であった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016年11月18日 12時56分18秒
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