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カテゴリ:本人はいたってまじめな本の話(本がだよ)
この本、哲学とは何か?ということで、「何でないか」から講義は始まるのね。
哲学は、文学とも宗教とも科学とも違う。 んで、哲学は形而上学的な事実を明らかにするんだということになって行く。 この本を読んで思い出したのだれど、「形而上学」という言葉をようちゃん2号は小さい頃に聞いて、なっかなかその概念が掴めなかったのね。 じゃあ、どうしたかっていうと、たぶんあきらめてそのまま放っておいてある。 んだから、なんかこの言葉が説明されていてうれしかった感じ。 ちょっと過去の日記をトラックバックするけれど、ようちゃん2号は人よりたぶん、概念っていうのが掴みにくい脳をしていると思う。 小学校6年生のときに「権利」と「義務」っていう言葉、学校で習ったけれど、やっぱりそのとき、わかった感じがしなかったんだよ。 (今でもわかっていない感じ) ようちゃん2号は「ちょっとやそっとじゃわかったフリしないぞ」っていう頑固さがあるかな? けれど、それよリなにより、物事の掴み取り方が絵画的なせいなんじゃないかと思う。 過去に日記にしたけれど、絵画的な記憶の仕方では、「リンゴの置いていない机の絵は書けない」ということと同じで、概念というものが掴みにくいんだろうと思う。 (探せたらトラックバックするね) そう考えると、じつは「愛国心教育」っていう言葉へのようちゃん2号の嫌悪感は、 「経験なり教育なりで充分脳が受け入れられる状態にないうちに子どもに概念を押し付けていいとする傲慢さ」 というところに根ざしているかもしれない。 概念から導かれる正しさばかりを強要されると、小さい頃のようちゃん2号は、いつもおちこぼれのレッテルを貼られて、また、そのように扱われざるを得なかったと思う。 そういう子どもの苦しみだとか、悲しさだとか、子どもの立場に立った「愛国心教育」の論議は一切ないんだよね。 そういうところからみると議員が「外道・人非人」と見えたのは、ようちゃん2号だからこそ、とも言えなくもないな。 白状するけれど、「おまえらには見えないのか?議員が人としていないということが!」っていう気持ち、あったよ。 ようちゃん2号ひとりが特別だっていうならしょうがないけれど、議員さんの中に子どもだった時期を持たない人がいるんだとしたら、そっちの方がめずらしいんじゃないかな? 自分が子どもだったころのことを都合よく忘れられて、人に押し付けていいとできるというところが、ようちゃん2号と違うところかな? …それが、うらやましいことだとはようちゃん2号、とうてい言えないんだよね。 …形而上学というところに戻るのね。 以下↓引用。(土屋がこの本の中で使う「形而上学」という言葉の意味) --------------------------------------------- 世界は、手で触ったり、目で見たり、感覚で捉えることのできるものから成り立っていると思えますよね。形而上学は、そういうものや観察できる事実を超えたものが存在すると考えます。それを「形而上学的なもの」と呼んでいます。この形而上学的なものを研究するのが形而上学です。ちょうど科学が観察可能な事実を研究するのと同じように、形而上学は観察可能な領域を超えた事実を研究するんです。哲学史上、かなり有力な考え方は、この形而上学の仕事こそ哲学の仕事だと言う考え方です。だから「哲学」を「形而上学」とほとんど同じ意味で使っている人が、哲学者の中にかなりいます。つまり、哲学は、日常接している自然現象や社会現象や心理現象を超えた、感覚で捉えられるものを超えたところにあるものを明らかにするんだと考えるんですね。 --------------------------------------------- 以上↑引用。 観察可能な事実を超えたものとして、土屋は神、存在、価値と意味というものを掲げている。 読んで思ったのは、「文学」、「科学」、「宗教」、「形而上学」、そしてこの本では扱われていないけれど「思想」などは、本当の意味で「私とは何か?」ということを問うていないんだなって思った。 「人はいかに生きるべきか」「どうすれば健康になるか」「どうすれば金が儲かるか」「どうすれば快感が得られるか」というような問題は、「私とは何か?」ということを面と向かって問わなくていいとするためにあるようなものと言えないかな?ってちょっと思ったよ。 見ようによっちゃ「私とは何か?」という問題を回避するためにあるということ。 そして、政治的というか理性的であろうとすればあろうとするほど、やっぱりこの問題は回避される。 「愛国心教育」っていうのもその範疇のような気がする。 結局、今、強まっている空間は、「私を見ない」という空間なんじゃないかな? そしてこれは、自由を求めて自由から遠ざかる道を強めている空間なんだと思う。 (↑ちょっと先走っているんだけれど…) この本の最後の方に土屋は【「人生は無意味か」という問題も哲学の問題】と書いているけれど、人生が無意味であるかどうかは、「私とは何か?」がわからないと、問うことに意味のない問題なんじゃないかな?って思えて来た。 そんで、ようちゃん2号は、この頃「私とは何か?」っていうののとっかかりが見えて来た感じがしている。 それは、自己啓発系やセラピーの「私探し」ともまた違うところになる感じがしている。 「私探し」っていうのは、現状の社会を肯定するというところにしか着地しない。 今までは【自分がどれほどのバカかわかる程度には利口になりたい。】っていうのがテーマだったんだと思うけれど、これからは「私とは何か?」についての言語化がやってみたいことのようだよ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年06月04日 15時40分53秒
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