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カテゴリ:政治
英国の戦時内閣に進言したユダヤ人は、 「パレスチナの地にユダヤ人国家を作ってもらえるなら、 アメリカを連合国側で参戦させて見せよう」と言ったという。 アメリカは独立後130年程しか経っていなかったが、 人口は当時すでに1億に近づき(ちなみにその頃の日本は4900万)、 工業大国として名を馳せていた。英国が米国の参戦を望まないはずはない。 話をもちかけられた翌年、ユダヤ人の条件を飲む内容の「バルフォア宣言」を出す。 アラブ人との協定が1915年、バルフォア宣言が1917年。 この二つをもって「二枚舌外交」と呼ぶ向きもあるが、その間の1916年に、 英・仏・露の三国間で中東の分割支配権を決める秘密協定が結ばれていたため、 三枚舌外交とも呼ばれることになった。 注目すべきは、アラブ人とユダヤ人に約束した領土の境界線が曖昧であり、 また言葉の定義もはっきりとしていなかったため、 それぞれの協定が矛盾していないようにも読める点である。 ここに英国の、良く言えばしたたかさ、悪く言えばあくどさが表れている。 だが、いずれにしろ実際には、アラブ側は中東全域がアラブ人の土地になると思い込み、 ユダヤ人はいずれは自分らの国家が建設されると信じていた。 第一次大戦終了後から第二次大戦が終わるまで、パレスチナは英国の委任統治領となる。 その間、矛盾する協定による紛糾を何とか収めようと、 英国政府は5度に渡って細かく条件を変えた白書を出し、 終いには「ユダヤ人とアラブ人による統一国家建国」を提案するが、 そんな申し出を双方とも飲むはずはなかった。 ユダヤ人は終戦前から反英国テロを起こし始め、それは終戦後も続くことになる。 1948年、紆余曲折を経てユダヤ人指導者がイスラエル国家の独立を宣言した。 同時に、英国はパレスチナの委任統治を終える。 30年以上粘ったとも言えるが、元は自分が撒いた種である。 パレスチナを巡るユダヤ・アラブ両民族には心から同情するが、 英国の困窮を憐れむ人間は誰もいないだろう。 イスラエルの独立を受け、 間髪を入れずにエジプト・ヨルダン・シリア軍がパレスチナに侵攻した。 第一次中東戦争の勃発である。 緒戦は満足な武器を持たず、兵士の数が少ないイスラエルが大敗したが、 1ヶ月の休戦の間に世界中から武器をかき集めたため、 49年の体戦時にはイ軍の死者6000人強、アラブ軍の死者が約4000人という状況となった。 (「その3」へ続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023年11月30日 23時39分57秒
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