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ゆきよきの言語学・夏目漱石・日本史

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2015年01月20日
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カテゴリ:言語学
2 仮説と科学

 事物のありかたについての新しい予想はこれまで正しいものと思われて来た認識と衝突することもあり、ここに敵対的矛盾が生れる。この矛盾を起こす葛藤を疑惑というが、認識が不当に逸脱させられて誤謬におちいっている場合には、その是正は新しい予想をつくり出し疑惑を抱くところにはじまるのであるから、認識の発展にとって疑惑は重要な役割を果たしている。認識が絶えず能動的な冒険旅行を試みるところの創造的な科学者は、疑惑の積極的な役割を経験的に納得できるのであるが、政治的な支配者やなまけ者は疑惑それ自体をのぞましくないものと思うようになる。あやまった理論が定説として認められている場合もめずらしくないから、常に疑ってかかる心がまえが要求され、疑惑の場合の敵対的矛盾は実践によって解決していかなければならない。科学は、哲学者が机の前で頭からひねり出した体系のように終末のある閉された絶対的真理の体系ではなく、開かれた相対的真理の体系としてつねに発展し進歩していくわけであり、懐疑精神を積極的に要求しているわけである。
 科学における予想は、それが一般的なありかたの予想としてすでに存在している体系の発展へとつながるところに特徴がある。科学者の立てる予想が仮説とよばれるのも、単なる個別的なありかたについての仮定ではなくて一般的なありかたについての命題であり、「説」であるからである。それゆえ、これが正しいならばそこでとりあげているものは再発見することができるし、さらにくりかえして発生させることができるわけである。個別的な予想といっしょくたにしたり、個別的な予想を度はずれに一般化して、新しい理論の建設を行っているかのように錯覚したりしてはならないのである。
 個別的なありかたの予想でも、実践を通じてその正否を知るには時間がかかるし、予想が否定されるように見えてもさらに異った予想をむすびつけることによって維持していくことも可能である。この場合、この新しい予想を実践によってたしかめる必要があるが、先入見によってこの新しい予想を合理化するならば、それは独断であり、そこから生まれる疑惑も猜疑であるということになる。
 この独断や猜疑は、科学の仮説を証明する過程でも起こりうるのであり、仮説にしてもその正否をたしかめるのに時間がかかるものもある。宗教的あるいは哲学的なあやまった先入見にしばられた結果、科学が実証をくりかえして前進しているのにあくまでも自分たちの独断を清算しようとせず、科学への祭儀を維持している人びとも存在するのである。
 予想はその対象とむすびつくことによって、客観的真理としての資格を獲得し、仮説も証明されることによって、科学としての資格を獲得する。日常性生活での予想にふくまれていた部分的なあやまりが、実践で対象とむすびつけられることによって排除されるように、科学者の仮説にふくまれていた部分的なあやまりも、実験での証明を通じて排除されるから、仮説と科学との間には、飛躍があり転化が存在する。科学は相対的真理として誤謬を伴っているし、仮説にも誤謬があるが、この共通点をとらえて誇張するところに、科学と仮説との同一視ないし科学の仮説への解消、科学をフィクションと規定するところにまで進んでいく。仮説を証明するための実験と理論を受けとる場合の追試験とをいっしょくたにせず、矛盾ぬきで実践それ自体を基本的な存在だとせず、発展の原動力は矛盾であり、現実の世界と認識との矛盾が実践を媒介として発展していくことを把握する必要がある。こうしてはじめて、正しい意味での仮説の持つ意義と役割も理解できるのである。
 自然科学者の中にも観念論者と同様、科学を仮説に解消させる人びとが存在するが、これは科学の発展を形而上学的にしかとらえることができないからである。エンゲルスは「真理性を主張する無条件的な権利をもつところの認識は相対的誤謬の系列を通じて実現される」とのべたが、この相対的誤謬を相対的真理との対立物としてとらえることができず、両者を混同して扱うのも、相対的誤謬(「正しいものよりも、修正の余地のあるもののほうがずっと多くふくまれている」認識)を論理的に把握できていないからである。学説としての相対的誤謬は、体系の核心をなしている存在でその誤謬の訂正が体系を根本からひっくりかえるような場合には、科学の体系に深い信頼を持ち科学ないし真理を固定したものとして考えていた人びとに大きなショックを与え、さらに、こんどは反対の極端に移って、科学の体系はもともと信頼しがたいものであり、仮説でありフィクションなのだと思いこむようにもなる。科学はこの種の逸脱をいまなお繰返している。


3 概念と判断の立体的な構造

 われわれが抽象的なかたちで思惟をすすめるときには、概念とよばれる超感性的な認識が使われる。一部の学者は、思惟を頭の中で行う言語活動であると主張しているが、これは思惟をすすめるときに頭の中に観念的に音声や文字があらわれるという経験から出発している。ここでは言語の問題を一応捨象して概念のありかたを考察する。
 概念は個々の事物の持っている共通した側面すなわち普遍性の反映として成立する。個々の事物はそれぞれ他の事物と異っていてその意味で特殊性を持っていると同時に、他の事物と共通した側面すなわち普遍性もそなえているので、この普遍性を抽象してとりあげることができる。概念にあっては事物の特殊性についての認識はすべて超越され排除されてしまっているが、このことは特殊性についての認識がもはや消滅したことや無視すべきだということを意味しない。特殊性についての認識は概念をつくり出す過程において存在し、概念をつくり出した後にも依然として保存されている。普遍性には、個別の事物の一面として個別的な規定の中におかれている普遍性と、個別的な規定を超えた存在としてとらえられる類としての普遍性の二種類が存在する。
 類としての普遍性も、個別的な存在としての類が多種多様にあるから、それぞれ特殊性をそなえた類としてとらえかえされるものや、ヨリ高い類として普遍的概念として捉えられるものなど、対象の立体的な構造をたどって抽象のレベルが高くなっていくが、概念は超感性的な点で共通しており、言語表現でも同じ語彙が使われるのである。
 このように、概念は現実の立体的な構造に対応して、やはり立体的な構造をとることが要求されているのであるが、抽象のレベルの差異がある概念を頭の中で切りはなして別々に扱っていても、現実の事物としては切りはなされて存在していないものもあるから注意を要する。「物質」という非常に高度なレベルの抽象概念そのものが個別的な事物のほかにあるはずだと考えて、それをさがし求めた学者も少なくない。ここからカント主義ないし不可知論への転落がはじまるのである。
 概念には外延(概念の対象としている普遍性が貫かれているところの事物の範囲)と内包(概念の対象としている普遍性に構造的につねに相伴うところの普遍的な事物のありかた)とが存在する。内包をどのようにとらえるかによって外延のとらえかたも規定されてくる。範疇とかカテゴリーとかよぶものは論理学に使われるいくつかの基本的な普遍的概念をさすのが普通である。
 認識の側からバラバラな概念を相互にむすびつけて構造づけることは概念を使うことであり、この能動的な構造づけを一般に判断とよんでいる。ヘーゲルは『大論理学』の第3部、主観的論理学または概念論において、判断を次のように分類している。

A 定有の判断(個別性の判断)
 a肯定判断――バラは赤い。
 b否定判断――バラは青ではない。
 c無限判断――バラは象ではない。
B 反省の判断(特殊性の判断)
 a単称判断――この人間は死すべきものである。
 b特称判断――若干の人間は死すべきものである。
 c全称判断――人間なるものは死すべきものである。
C 必然性の判断(特殊性の判断)
 a定言判断――バラは植物である。
 b仮言判断――もし太陽がのぼれば、昼である。
 c選言判断――肺魚は魚であるか、または両棲動物である。
D 概念の判断(普遍性の判断)
 a実然判断――この家は悪い。
 b蓋然判断――家がこれらの性状を有するなら、良い。
 c必然判断――これこれの性状の家は良い。

 エンゲルスはこのヘーゲルの類別を思惟法則においてのみでなく、自然法則においても成立すること、思惟法則と自然法則とは、それらが正しく認識されさえすれば必然的に相互に合致することを書いた。武谷三男はさらにすすんで自然科学史から理論発展における3つの段階を指摘し、彼のいう三段階論(現象論的段階、実態論的段階、本質論的段階)を主張した。思惟法則と自然法則との展開が相互に合致するという問題は、科学の体系の歴史的な発展は論理的であるという問題である。この、歴史と論理との統一は、現実の世界のありかただけでなく、認識のありかたにおいても成立することを、自然科学の発展は実証している。現実の歴史と同様、認識ないし科学の歴史についてもしばしば飛躍的にかつジグザグに進行する。三段階論はこれらのジグザグを捨象した非常に高度のレベルの抽象においてつくり出されているのであるから、この抽象をそのまま具体的な科学の歴史に押しつけて、三段階論は欠陥があるとかあやまっているとか主張することは、抽象についての無理解をPRしているようなものである。
 事物や科学の歴史的=論理的な把握は、対象の正しい位置づけを行うとともに、将来の発展についての正しい見とおしを与え、指針として大いに役立つ。
 判断は概念相互の能動的な構造づけであるから、判断を下すだけの自信がない場合もあれば判断しかねる場合もあり、また予想した判断が現実にぶつかってくつがえされる場合もある。「このバラは赤くなくはない」という表現も、対象と関係のない認識の矛盾から生まれた二重否定の場合と、対象の不明瞭から生まれた二重否定の場合とを区別しなければならない。





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最終更新日  2015年01月20日 13時01分22秒
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