カテゴリ:言語学
(3)ソシュールは言語の同定性を関係に求めた
本稿は、言語とはどのようなものかという本質的な理解なしには言語に係わる諸々の現象の意義を説くことはできないのだという問題意識のもと、その言語の本質的理解のための要となる科学的言語学体系の創出を目指して執筆するものです。直接的には、過去の偉大な言語研究家を取り上げ、その成果を歴史性も踏まえて考察していくことを目的とした「文法家列伝」シリーズの1つとして、「近代言語学の父」であるフェルディナン・ド・ソシュールに焦点を当て、その言語研究史上の業績を検討していきます。 前回は、ソシュールの言語研究史上の意義の1つ目として、ソシュールが言語を体系と捉え、認識との連関において取り上げたことを説いてきました。17世紀までの言語論においては、言語とそれが指し示す対象との間に、人間の認識というものが介在しているのではないかということが徐々に分かってきたのであって、認識とは何かを解明しつつ言語研究が発展してきたという流れがありました。しかし、19世紀の比較言語学においては、こうした流れが寸断され、言語を人間の認識とは無関係に生成・発展・消滅する自然科学的対象として把握し、個別の音韻法則という言語の音の変化に関する法則を扱う研究が中心となったのでした。ソシュールは、こうした言語学の現状に対して強い不満を示し、個々の言語の音声がどのように変化するかということは、言語の価値体系には何の影響も与えないのであって、比較言語学の考え方は言語の不完全な捉え方だと非難したのでした。それでは、言語の価値体系とはどのようなものかが問題になりますが、ソシュールによれば、それは人間の認識の中で「音の差異」が「観念の差異」と結びついた記号の体系だということでした。ソシュールは言語をこのように捉えることで、言語を再び認識との連関におけて把握しようとしたのでした。 さて今回は、ソシュールの言語研究史上の意義の2つ目として、ソシュールが言語の同定性(何によって同一の言語だといえるのか)をどのように考えたのかを見ていきたいと思います。 ソシュールはまず、言語の同定性は音声や文字といった物理的なあり方そのもので決定されるものではないと主張します。 「記号の生産手段は全く非関与的であること……私が記号を白で書こうが黒で書こうが、彫ろうが浮き彫りにしようが、そんなことは非関与的でしかない。……道具は何の重要性ももっていない。……我々はラングの音的性格などというところにその本質がないことを確認できるのである。」(pp.131-132) ここで述べられていることは、簡単にいえば、「万年筆」という文字を何色で書こうと、書くのではなくて彫って表そうと、楷書で書こうと草書で書こうと、どういうあり方として表したとしても、それらは全て「万年筆」という同じ言葉なのだ、ということです。また、音声言語についても同様のことがいえることをソシュールは述べています。戦争に関する演説で繰り返された「戦争」という語は、たとえ「音的素材」(p.149)が異なっていようとも、全て同じ言葉だといえるというのです。強調のために大きく強く発声しようと、しんみりと静かに発声しようと、「戦争」は「戦争」だということです。 ソシュールは、こうした言語の同定性についての理解を促すために、チェスの駒や急行列車の例を挙げて説明を続けていきます。チェスのナイトという駒は、物質的にどういう素材で作られ、どういう形をしていたとしても、「ナイト以外のすべての駒と異なる限りにおいて」(p.155)ナイトとして扱うのだ、毎日毎日同じ急行列車に乗っているという場合、それは実体として別の車両であったとしても、同じ急行列車といえるのだ、こうしたことと同様のことが言語についてもいえるのだ、というわけです。 ここで考えてみなければならないことは、「同じもの」とはどういうことかということです。例えば、電車に乗っていて、傘を置き忘れて下車してしまったとしましょう。傘を失くしてしまったことに気付いた場合、その鉄道会社の忘れ物センターに問い合わせて取りに行くことになると思います。その際、センターの担当者は、「どういう傘でしたか?」「色は何色ですか?」「どんな特徴がありましたか?」などとその物理的なあり方を確認します。そして、「傘の柄の部分に名前を書いた白色のシールを張っていました」などと答えると、その特長に基づいて担当者が忘れ物の山の中から探してくれるということになるのです。つまり、通常の「物」であれば、「同じもの」だと主張できる根拠は、あくまでも色や形や、それに名前が書いてあったり、印をつけてあったり、偶然ついてしまったキズなどが目印になったりするなどのような物理的な特徴にあるのです。ところが言語の場合には、同じ言語だといえるための根拠が、赤のボールペン字であったり墨汁で書いた毛筆であったり、高い音であったり低い音であったりといった、「生産手段」や「音的素材」など、つまり物理的なあり方そのものには求められないのです。 ではそれは一体なぜなのでしょうか。ソシュールはこの問題を解決するために、言語の恣意性ということを持ち出してきます。ここで、言語の恣意性とは一体どういうことなのかを理解するために、前回も触れた言語が記号の体系だということに関して、もう少し詳しく見ていきましょう。 ソシュールは言語を記号の体系だと述べたのですが、それではその記号というものはどのようなものなのでしょうか。 「言語記号は2つのまことに異なった事象の間に精神が樹立する結合であるが、それらの事象は2つとも心的なものであり主体の中に存在する。1つの聴覚映像が1つの概念に結合されているのである。聴覚映像は物質音ではない。これは音の心的な刻印である。」(p.205) 前回は、「「鉛筆」という観念が「ボールペン」という観念や「万年筆」という観念と違ったものとして頭の中にイメージされていて、その観念に「えんぴつ」という音が結びついて頭の中に存在しています」という例を述べました。この例でいえば、上記の引用で述べられている「聴覚映像」というのが「えんぴつ」という音のイメージのことであり、「概念」というのが「鉛筆」という観念のことになります。ソシュールはこのように、人間の認識の中で聴覚映像と概念とが結びついていると主張し、これが記号だとしたのです。そして言語とは、こうした心的な記号の集合体だというわけです。 ソシュールのいう言語の恣意性は、この記号内あるいは記号間の関係をどのように理解するかに関連しています。ソシュールは次のように述べています。 「言語事実がその間に起きるこれら2つの領域が無定形であるばかりか、2つを結ぶ絆の選択、価値を生み出す2つの領域の合体は、完全に恣意的である。」(p.249) ここでは、「2つの領域」、つまり聴覚映像と概念のことですが、これらが一定の決まった形がないこと、つまり恣意的であることと、聴覚映像と概念との結びつきが恣意的であることと、2つのことが述べられています。まず分かりやすい後者から説明しますと、これはある概念に1つの聴覚映像が結びつくその結びつき方が規則的ではない、ということです。具体的にいえば、日本人はワンワン鳴く動物を「いぬ」と呼び、ニャーニャー鳴く動物を「ねこ」と呼んでいますが、それは何か機械的に結びつけられるような法則に基づいてそう呼ばれているわけではないのであって、その逆であっても構わないということです。ただ習慣によってそう呼んでいるだけであって、そういう意味で聴覚映像と概念との結びつきが恣意的であるとソシュールはいっているわけです。一方、前者の方は少し分かりにくいのですが、分かりやすくいうと次のようになります。まず、概念が無定形=恣意的であるというのは、色を表す言葉を考えてみるとよく分かります。日本人は通常、青と緑を別の色として把握していますが、ヴェトナム人は青も緑も同じ色として把握しているようです。こうした事実を見ると、色をどのように分類するのかということには一定の規則があるわけではなくて、どのようにも分けることができる、つまり概念は恣意的であるといえることになります。また、聴覚映像が無定形=恣意的であるというのは、例えば、日本人は[r]と[l]の音は区別しませんが、アメリカ人は両者を区別します。これは聴覚映像をどのように分けるかということについても規則的ではなく、恣意的に決定されるということです(音声ではなくて、文字で考えてみると、例えば、「士」と「土」は区別するのに、「吉」と「𠮷」は区別しない、といったことを恣意的とソシュールはいっているのだと思いわれます)。つまり、ソシュールのいう言語の恣意性とは、聴覚映像と概念との結びつきに必然性がないことに加え、概念がどのような範囲を表すのかや聴覚映像がどのように区別されるのかについての定まった基準もない、ということです。 ソシュールは、このような言語の恣意性があるからこそ、言語の同定性は物理的なあり方そのものには求められないのだと主張する訳です。つまり、ある言語の物理的なあり方は恣意的であるから、そうした恣意的なものを言語の同定性の根拠にはできないのだということです。ではソシュールは、言語の同定性の根拠として、どのようなものを考えていたのでしょうか。ここで改めて、前回引用した次の2つの文章を読んでもらいましょう。 「音素を分類するにあたっては、それらが何からできているかを知ることより、それらが互いに何において異なっているかを知る方が問題である。したがって、分類に際しては、否定的な要因の方が実定的な要因より重要となる。」(p.79) 「コトバは根柢的に、対立に基盤を置く体系という特性をもつ。」(p.147) 他にもソシュールは、「いかなる価値といえども個的存在ではあり得ず、記号は集団〔体系〕の容認によってしか即自的な価値をもつには至らない」であるとか、「1つの語が単独に存在し得るという幻想があるが、ある語の価値は、いかなる瞬間においても、他の同じような単位との関係によってしか生じない」であるとか述べていました。こうした箇所でソシュールが述べていることは、言語はそれ自体がどういうものかによって決められる(同定される)のではなく、他と違うという関係、体系全体におけるその語の位置づけによって決定される、ということです。先に言語の同定性とチェスの駒の同定性が同じ性質のものだとソシュールが述べていることを確認しましたが、チェスのナイトという駒が「ナイト以外のすべての駒と異なる限りにおいて」決定づけられるということが、非常に分かりやすい例になっていると思います。つまり、ナイトという駒は、馬の首から上の形をもっているという「何からできているか」は問題ではなくて、紙片に「ナイト」と書いたもので代用できることから明らかなように、他の駒と「対立」している、つまり「ナイト以外のすべての駒と異なる」のであれば、いかなる形をとっても「ナイト」は「ナイト」として機能するのだということです。そしてこれは言語においても同様であるとソシュールは主張しているわけです。 「かりに音が変化しても関係が変らない限り、言語学はそのような音変化に係わらない。」(p.80) ソシュールはさらにこのことを端的に次のように表現しています。 「言語の中には(つまり一言語状態の中には)差異しかない。」(p.253) 以上見てきたように、ソシュールは言語の同定性という問題について、物理的な形そのものではなくて、言語全体の体系においてその語が他の全ての語と異なっているという関係こそが、その根拠になるのだと主張していたのでした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2016年08月21日 23時54分52秒
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