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カテゴリ:小説「愛を抱いて」
60. 東京タワー 千絵や美穂達と喫茶店を出ると、外はもう暗くなっていた。 市ヶ谷駅の前は、人波で慌ただしかった。 横断歩道の先で彼女達と別れ、私は電話ボックスに入った。 ダイヤルを押して、時計を視ると、7時を少し廻っていた。 「もしもし…。」 世樹子の声がした。 「あ、俺…。」 香織はバイトに行っている筈だった。 「あのさ、西沢が今、パブでバイトしてて、安くなるから呑みに来いって云うんだけど…、明日、一緒に行ってみない?」 「あの…、明日は駄目なの…。」 「そう。 じゃ、仕方無いや。 又、今度にしよう。」 私は別にがっかりはしなかったが、少し厭な気がした。 「其れじゃあ、まあ、あさって…。」 「ああ…、鉄兵君、あさっての事…。 もう誰か誘っちゃった…?」 「柳沢に云ったけど、用事が有って行けないって云ってた。 残念そう…。」 「私、行けなくなっちゃったのよ…。 東京タワー…。」 「え…?」 悪い予感が全身を襲った。 「どうして…?」 恐怖を感じながら、私は訊いた。 「あの…。」 世樹子は口籠った。 外の騒音で聴き取り難かったが、今夜の彼女の声色は最初から少し普段と違っていた様に思えて来た。 世樹子は理由を云わなかった。 明日の事で先程厭な気がしたのも、其の為だった。 私の頭脳は急に加速を上げて回転し始めた。 然し、考えると言う事は出来なかった。 世樹子は黙っていた。 「何か変だぜ。 どうしたんだい…?」 「御免なさい…、私、行けないのよ。」 私は、彼女がもう逢うまいとしている、と言う恐怖に駆られていた。 唯、そんな筈は無い、と言う希望の糸口を必死に探していた。 「御免なさい…。」 世樹子は繰り返した。 外の騒音が次第に聴こえなくなり、心の中が透明になって行くのが解った。 「君が行けない事は解ったけど、其れであさってはどうなるんだい? ヒロ子やノブには、中止って云ったの?」 私は東京タワーへ行こうとしていた。 恐怖を和らげようとしていた。 惨めになる事を拒絶していた。 フー子の名を出さなかったのは、其の為だった。 フー子は既に彼女が行かない事を知っていそうだった。 未だ知らない可能性の一番高いのはノブだった。 私は本能的にそうしていた。 「ノブちゃんには、未だ云ってないの…。 明日中には逢って…。」 「じゃ、ノブちゃんに俺と2人で行こうって、云ってみてよ。」 世樹子はノブと、ヒロ子やフー子程親しい理由では無かった。 「え…?」 「俺はどうしても、タワーに行きたいんだよ。 だから、君等は行けなくなったんだから、俺と2人っ限でも良かったら一緒に行こうって、ノブに云っといて呉れ…。」 「ええ、解ったわ…。 そう云っとく。でも…。」 「俺は1人でも行くぜ、東京タワーへ…。」 私は電話ボックスを出た。 (彼女を失くしてしまう…。) 透明な心の中に、うっすらと其のフレーズが浮かんでいた。 電話ボックスの中で全身を襲った衝撃が、やがて少しずつ哀しみに変わろうとしていた。 其の哀しみに耐え切れない事を怖れて、私の一部は彼女を諦めようとしていた。 全てが哀しみに変わった時、自身の破滅を防ぐ為に、今の内に覚悟を決めて置こうとしていた。 予測を最悪の方向へ、向けて置こうとしていた。 然し、どうしても、「そんな筈は無い。」と言う声無き叫びが消えなかった。 翌日になって、私の頭は少し冷静を取り戻した。 然し、一日中世樹子の事を考えていた。 彼女が私とはもう逢うまいとしているのは、明白だった。 そして、其の事はもう私に伝わったと彼女は思っている筈だった。 「いつも、失恋は突然遣って来る…。」 私はそう呟いた。 ノブは必ず来ると、私は踏んでいた。 又、ノブは私と世樹子の関係を知らない筈だった。 そして、次ぐ12月9日は雨だった。 夕方、私がキャンパスを出る時、雨は未だ降っていた。 待ち合わせは5時半に市ヶ谷の改札口であった。 私は1人、重い足取りで市ヶ谷駅へ歩いた。 駅前に差し掛かった。 横断歩道の手前で赤信号を待ちながら、私は改札の方を見回してみた。 ノブの姿は見当たらなかった。 信号が青に変わり、私は又歩き始めた。 時計を視ると、5時35分だった。 10分は待ってみようかと思いながら、私は傘を閉じた。 待っても無駄の様な気もした。 「鉄兵君。」 突然背後から呼び掛けられて、私は愕いた。 改札の内側の掲示板の横に、世樹子とノブの姿が有った。 「来たわよ。」 世樹子が掲示板の裏に向かって云った。 「ハァイ。」 フー子とヒロ子も居た。 悪夢の様な一夜だった。 私は4人の女を連れて、上りの電車に乗った。 彼女達は普段と変わらぬ様子で話した。 私も会話を弾ませたが、心は荒んでいた。 御茶の水で中央線に乗り換えた。 私は初めて世樹子の悪意を視た。 (今夜、彼女は何故、市ヶ谷へ来たのか…?) 私は想像した。 世樹子はノブに、私が2人限でも行こうと云った事を伝えたに違いなかった。 そして世樹子の予想外だったかどうかは解らないが、ノブは行くと返事をした。 或いは、若しかしたらノブには何も云わず、当初の計画通りを装ったのかも知れなかった。 東京駅で山手線に乗った。 何れにしろ、世樹子がノブと私を2人限で逢わせたくないと思っているのは、確かであった。 フー子とヒロ子は完全なる世樹子の内輪だった。 私は彼女等3人の笑顔が、不気味に感じられた。 ノブだけが、何の思惑も無く純粋に言葉を発している様に見えた。 電車は浜松町に着いた。 浜松町駅前へ出ると、東京タワーが直ぐ正面に見えた。 「何だ、駅から近いんだな。」 私は云った。 「あら、近そうに見えるけど、此処から結構有るのよ。」 ヒロ子が云った。 我々は明かりの付いたタワーを目指して歩いた。 ヒロ子が云った様に、可成距離が有った。 神社の境内を通り抜け、我々はタワーへ成る可く直線的に進んだ。 タワーの真下へ遣って来た時、フー子が 「あれ…?」 と声を出した。 入口は真っ暗で全く人気が無く、飄々としていた。 「そっか、寒い時期には早く閉まっちゃうんだ。」 開館時間のパネルを見ながら、ヒロ子が云った。 「残念だったわね、鉄兵君。」 私は内心ほっとしていた。 一刻も早く、部屋に帰りたかった。 「どうする…?」 フー子が云った。 「此処からなら、もう半分歩けば六本木よ。」 「そうなの? じゃ、行っちゃいましょうか?」 女達は六本木へ行くと云い出した。 「そうしましょ。 鉄兵君?」 私は心模様を顔に出さない様、注意を払いながら、 「よし、行こう。」 と、答えた。 六本木の街に入った時、足は棒になっていた。 私は腹が空いたと云い、皆でイタリアン・レスト・パブのテーブルを囲んだ。 「此の街へ来ると矢っ張り、鉄兵君と初めて逢ったあのディスコを思い出すわね。 覚えてる? 鉄兵君。」 「勿論。 あの夜の君は素敵だった。」 ディナーを並べるにはテーブルは余りに小さ過ぎたが、我々は食器を重ね合って食事をした。 テーブルの上が片付くと、皆でカクテルを注文した。 「其れにしても、残念だったわ。 鉄兵君、がっかりしたでしょ?」 ノブが云った。 「そんなでも無いよ。 どうせ何れ又行くんだもの。」 「そうね…。」 「君はもう懲りてしまったかい?」 「いいえ。」 「そう、良かった。 じゃ、今度はちゃんと時間を確認して一緒に行こう。」 「今度も誘って呉れるの?」 「当然。 一緒に行って呉れるかい…?」 「一寸…、何か2人限で良いムードになってない?」 ヒロ子が云った。 「ノブちゃん、気を付け為さいよ。 鉄兵君は危ないんだから。」 世樹子が云った。 「そう…?」 ノブは笑った。 「そうなのよ。 自分では大丈夫と思っていても、気が付いたらもう鉄兵君のペースに載せられてるの。」 「鉄兵に対してはね、石橋を叩いて渡らない位の心構えで居なきゃ。」 「フー子、どうでもいいけど、髪が焼けてるぜ。」 フー子はテーブル・ライトの横で頬杖を突いていた。 「え…!」 フー子は愕いて身を起こした。 「嘘よ。」 世樹子が云った。 「全く、鉄兵君は…。」 ヒロ子とノブは笑った。 「ああっ…、本当に焼けてるわ…!」 フー子が自分の髪を見ながら、悲痛な声を上げた。 皆、フー子の髪に注目した。 「まあ…、冗談じゃなかったの…?」 世樹子が丁寧に髪を調べて遣った。 私も愕いていた。 「大丈夫、一寸焦げた程度みたいよ。」 「うん、全然変わってないよ。 元々、全部焦げてる様なものだし…。」 そう云って、私は女達に睨まれた。 「ノブちゃん、冬休みはどうするの?」 私は云った。 「どうって、どうもしないわよ。 自宅だから、帰省も出来ないし…。」 「アルバイトは?」 「別に今の処、する予定は無いわ。 暇なんだけど…。」 「ノブちゃんは年末にスキーに行くのよね。」 世樹子が云った。 「…じゃ、年が明けたら、1日位身体の空く日が有るかな?」 「日頃遅く帰ってたりしてると、正月なんかは家に居て家族の行事に従わなきゃいけないものなのよね…。」 又、世樹子が云った。 「世樹子、俺はノブちゃんに話してるんだから、少し口を控えて呉れないか。 君には何も訊いてない。」 此の言葉が、いけなかった。 〈六〇、東京タワー〉 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007年11月08日 15時13分03秒
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