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カテゴリ:小説「愛を抱いて」
64. 愛を抱いて 私は解散パーティーの其の夜、久しぶりに香織に逢った理由だったが、相変わらず彼女には毅然とした存在感が有った。 私も、彼女がそう簡単に隙を見せるとは、思っていなかった。 「世樹子は新しい部屋、見付かったの?」 「其れが…、未だなのよ。 もう、年内の引っ越しは諦めたの。 来年又、ゆっくり探すわ。」 「いっそ引っ越すの止めて、ずっと中野に居れば好いじゃない。」 其の日は、ずっと風が強く、陽が傾く頃から随分冷え込んだ。 其の処の季節にしては暖かい日が続いていたので、急な外の寒さと風は、肌を斬る様に感じられた。 「何度も、数え切れない位、馬鹿な事許やったけど…。 此の部屋での宴会も、今夜で最後なのね…。」 「名残惜しくなって来た? 最後にするのを止めて呉れても、俺達は構わないんだけど。」 「…さあ、どうかしら? 結構、最後って事で、ほっとしてたりして…。」 其れ迄、微かに聴こえていた風の音に混じって、何かが窓を叩く音がした。 「雨ね…。」 誰かが云った。 「うん、雨だ…。」 誰かが答えた。 「結局、私達は遊園地へ連れて行って貰えなかったわね。」 「スカイ・ダイバーには必ずもう一度チャレンジしなければいけないな。」 「アジサイ寺のあの洞穴、未だ在るかしら…?」 「そりゃ、在るだろう。 地震でも来て、埋まってなけりゃ。」 「でも本当、怖かったわ…。 みんなと一緒なら、又行きたいわね。」 外の風と雨は、徐々に強くなっている様だった。 「厭ねぇ…。 台風の季節でも無いのに。」 「傘持って来て無いんだろ? 心配要らない、帰りには貸して挙げるから。」 「借りる事なんて出来ないわよ。 もう、返しに来れないんだから…。」 「あなた達、ヒロ子やノブに強くアプローチしようとしてたらしいけど、旨く行ったの?」 香織が云った。 「旨く行ってれば解散なんて、してやしないさ。」 柳沢が答えた。 「其れは、そうね。 残念だったわね…。 其れで、私達の代わりに手料理を作って呉れる女の子は、もう見付かってるの?」 「全然…。」 「そう…。 でも、あなた達なら又、直ぐ見付ける事が出来るわよ。 急度…。」 「君は、偉く満足そうだな。」 私は香織に向けて云った。 「…其れ、どう言う意味?」 私は香織の言葉には答えずに、続けた。 「君が俺に対して、恨みの有るのは当然だが、どうして柳沢やヒロシや他の者迄、巻き込む必要が有るんだい? 復讐なら、俺だけに向けてやって呉れ。 俺は君の気の済む迄、どんな罰でも受けるし、どんな償いも拒否しない。」 「あなた、一体、何を云ってるの…?」 香織は少し蒼ざめた表情で云った。 「中野ファミリーの解散は、私の所為だと、そう云いたいの?」 「君と俺の責任だ。 違うかい?」 「違うわ。」 世樹子が云った。 「香織ちゃんは、自分の周りの事で忙しくなって、其れでファミリーを抜けたのよ。 こうなったのは、私なんかの気紛れの所為よ。」 世樹子は既に声が震えていた。 私は構わず云った。 「香織、君は悪いとは思わないのか? 否、其れより、恥かしいと思わないかい? 柳沢を傷付ける様にして付き合って、別れちまったら、俺と顔を会わせるのが辛かったのかどうか知らないが、まあ、顔を視るのが厭だったんだろうけど、みんなが気にする事は解ってるのに、自分だけの都合でさっさとチームを抜けて行くなんて…。」 私はパーティーの最初から、ずっと香織を観察していた。 彼女は少し大きめの無地のセーターを着ていたが、其の袖の先は、彼女の両手の親指に掛かっていた。 彼女らしく無い着こなしであった。 パーティーの空気は再び緊迫して来た。 「今夜の鉄兵ちゃんは、偉くきついな…。」 ヒロシが呟く様に云った。 「気が付かなくて、御免なさい。 どうやら、私が此処に居る事は邪魔だったみたいね。 失礼させて貰うわ…。」 そう云うと、香織は立ち上がった。 「待てよ。」 私も立ち上がって、彼女の左腕を掴もうとした。 反射的に香織は私の手を振り払うと、其の左手を右腕の下に差し込んだ。 瞬間、私は感付いた。 私は黙った儘、今度は確りと、彼女の左腕を掴んだ。 「放してよ!」 香織は叫んだ。 私は力ずくで彼女の左手を自分の前へ持って来ると、彼女のセーターの袖を捲り上げた。 「痛い…! 放して!」 私は腕を放さなかった。 香織の左手首の裏側には、未だ新しい傷痕が、はっきりと残っていた。 悲鳴の様な女の泣き声が、部屋中に響いた。 世樹子だった。 「何…? 香織!」 フー子が叫んで立ち上がった。 香織は観念した様に身体の力を抜いた。 私は掴んでいた腕を放した。 フー子が香織の側へ行くや否や、彼女の左手を取って、其の傷痕を見詰めた。 「ど…、香織!」 フー子はそう叫ぶと、香織の両肩の下を掴んだ。 「香織! 香織! 香織!… 」 何度も叫びながら、フー子は香織の肩を揺すった。 香織は最早、揺すられるが儘に、其の場に立ち尽していた。 「香織! 香織! 香… 」 フー子は最後に、香織の腰の辺りに泣き崩れた。 そして、優しくフー子の頭を抱き締めながら、香織は静かに頬を濡らした。 風が叫び、雨が泣いていた。 ── 12月5日、夜になって、世樹子は飯野荘へ帰って来た。 部屋では、香織が一人で背中を向けて坐っていた。 「ただいま。」と呼び掛けても、返事の無い様子に世樹子は直ぐ異常を感じて、香織の側へ走り寄った。 「…! 香織ちゃん…!」 世樹子は真っ青になって叫んだ。 香織は泣いていた。 婦人用の剃刀を手首に当てた儘、 「…此れ以上、どうしても、力が入らないのよ…。」 と云って、香織は泣いた。 剃刀の刃の下から、次々と鮮血が流れ出ていた。 私が市ヶ谷の駅前から世樹子に電話を掛ける、2日前の事であった。 ── 誰も殆ど喋らなかった。 時間だけが、幾つも流れた。 我々は唯、崩れて行く許の、其々の心を見詰めていた。 どうやら風は収まり、雨も穏やかになった様だった。 柳沢が笑っていた。 ヒロシが眠そうな眼をして、カーペットに肘を付いていた。 香織が、世樹子が、フー子が微笑んでいた。 「私は、急度在ると思うわよ。」 「永遠の有る街か…。」 「でもさ、俺達の、人間の哀しみの本当の理由は、永遠が無い事、永遠で在り続けられない事さ…。」 「そうね…。 もう私達は、其れを知ってしまったのね…。」 「私…、幸せだけを風船に詰めて、飛ばしてみたい。 遠くの街に住む人達へ、飛ばし続けるの…。」 「若しさ、偶然風向きがいつも一緒で、其の風船が同じ処へ飛んで行ったら…。」 「そうよ、そしたら、風船が幾つも落ちて来る、其の街には永遠が有るわ。 哀しみが無いんですもの…。」 「そんな街で巡り逢えたら、素敵だったわね。 私達…。」 「…でも、私達って、一体何処へ行きたかったのかしら?」 「何処でも無いさ、此処に居たかったんだよ。」 「…此処で、何をしたかったのかしら?」 「…俺達は唯、愛を抱いていたかっただけさ。」 12月24日の朝、私は大きなスポーツ・バッグを抱えて、中野駅から上りの電車に乗った。 電車の中で先程迄、私の側に居た女の事を想い出していた。 昨夜、彼女は私の腕の中で、いつ迄も泣いていた。 今迄彼女は、1人で居る時には、いつも泣いて許いたのだ。 新しい朝が来ない気がして、涙を流し続けたのだ。 だから、彼女の笑顔は、いつも懐かしかった。 東京駅の新幹線口の前に、既に川元は来ていた。 私を見付けるなり、川元は云った。 「お前、よく来れたな。 多分寝過ごすと思って、心配したぜ。」 水登は一足先に帰省していた。 「今日は、クリスマス・イヴか…。」 ホームに上がるエスカレーターの上で、私はぽつりと云った。 列車はホームに入っていた。 網棚にバッグを放り上げると、「ビールを買って来る。」と云って、川元は車両の外へ出て行った。 彼女は私の腕の中で、いつ迄も泣いていた。 やがて、泣き疲れたかの様に、彼女は静かに眠り始めた。 泣かないで 泣かないで 心が寒いの? 夜は未だ 浅いのに あなたは 眠るの…? 彼女は安らかに眠っていた。 其の寝顔は穏やかで、まるで眼覚めればもう1人だと言う事に、気付いていないかの様だった。 彼女は最後迄、優しかった。 そして、私は最後に優しかった。 彼女は、ほんの細やかな愛を抱いて、今は唯眠っていた。 ゆっくりとホームが動き始めた。 ビールを半分一息に呑んで、私も眠りに就こうとしていた。 東京の街が、静かに遠ざかって行った。 完 主題歌「愛を抱いて」 挿入歌「世樹子」 〈六四、愛を抱いて〉 長い間、御愛読有り難う御座いました。 御意見、御感想、御質問等、左記へお知らせ願えれば幸いです。 筆者 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2007年11月16日 12時48分10秒
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