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アルタクセルクセスの王宮址遺跡

アルタクセルクセスの王宮址遺跡

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2004年12月03日
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カテゴリ:歴史・考古学
 昼間は後輩と共にお城など市内を観光。小さい町なので、観光はすぐに済むし、古本屋が少ないのでそちらで時間をつぶすことも出来ない。
 研究室にも顔を出し、後輩をDに紹介。Dにいろいろ教えてもらい、後輩は「やはりドイツに居ると中近東考古学に関する情報量が違う」と感心していた。

 後輩と共にK君と軽く飲んだあと、夕方大学の講演会に行く。題目は「カトナの王墓」。シリアの青銅器時代の都市遺跡・カトナ(現代名テル・ミショルフェ)で最近ドイツ隊が発見した、盗掘されていない地下の王墓についてである。講演が予定されていたペーター・プフェルツナー教授(チュービンゲン大学)はテレビ局の撮影の仕事で急に来れなくなり、副隊長格のミルコ・ノヴァーク氏が行った。
 カトナについてはライコス日記の頃に何度か触れたことがある。シリア西部・ホムス市の近くにある。シリア・レバノンの海岸部には険しい山脈があり、東方の内陸部の平原に出るには数ヶ所の峠を超えて行くしかないが、カトナはちょうどその峠の一つを越えたところにある。東西のみならず南北交通もオロンテス川が形成した谷のおかげで容易であり、シリア砂漠・北西シリアの田園地帯・そして海岸部の港湾都市の結節点となる交通の要衝だった。
 カトナは東西・南北それぞれ1kmのほぼ方形のプランをもつ総面積110haの大規模な都市遺跡である(遺跡としての名称はテル・ミショルフェ)。近くには川が流れ、大きな沼があったのだが、わざわざ流路を変更してこの沼を干上がらせてから都市を建設したらしい。方形のプランといいこの予備工事といい、計画的に建設された都市のようだ。都市を囲んでいた城壁は今は土塊の丘となっているが、今も地上に残っていて、城壁に囲まれていた巨大な都市の姿を想像させるに十分である。
 遺跡のほぼ中央に小高い丘があり、そこがかつての宮殿の跡と考えられている。1920年代にフランスの考古学者(当時シリアはフランスの国連委任統治領だった)によって発掘され、宮殿の一部と粘土板文書が発見され、この遺跡が都市国家カトナであることが判明した。フランス隊が発掘した場所にはシリア人が住みついて村を作り、1982年に村人が強制移住させられるまで存在した(時期的に、アサド政権によるスンニ派イスラム原理主義者への弾圧とこの村の廃絶は関係あるのだろうか)。このミショルフェ村の住居跡は、あたかもかつての宮殿の壁が残っているかのように現在も遺跡の上に立っている。

 カトナは紀元前18世紀のマリ文書(マリはシリア東部にあった都市国家)の中で初めて言及されており、その頃建設されたものと推測される。これは「目には目を」で有名なバビロニア王ハンムラビと同時代である。その後シリア西部の有力な交易都市国家として繁栄を続けるが、紀元前1400年頃から東方のミタンニ、北方のヒッタイト、南方のエジプトといった大国に囲まれ、従属や離反を繰り返して独立の維持に苦心するようになる(現代でいえば北朝鮮、または上杉・武田・北条の三氏が角逐した戦国時代の関東地方を連想すれば近いだろう。カトナは岩槻の太田氏か忍の成田氏のような位置になる)。
 最近のドイツ隊が発見した粘土板文書によれば、カトナ王イダッダは銅剣1万8千本を作らせて軍を武装させ、またレンガ4万個を作って城壁を補修させたという。またスパイを各国に放って情勢を報告させていた。イダッダはヒッタイト帝国に従属しており、エジプトやミタンニ、そして砂漠の遊牧民の襲撃に備えてのことらしい。
 イダッダの次の王アキツィのとき、ヒッタイトから離反してエジプトにつき(平和主義者で知られたエジプト王・アケナテンに手紙を出し誼を通じている)、ヒッタイト軍によってカトナは滅ぼされ町も破壊されたと考えられているが、その最期ははっきりとは分からない。いずれにせよ紀元前1340年頃のことだったと思われる。

 1999年、シリア、ドイツ、イタリアの考古学者が共同でこのカトナを再発掘することになった。シリア隊は一番いいものが出ると思われる丘の中央、イタリア隊は手付かずの丘の西方、ドイツ隊は一見地味な作業である、かつてフランス隊が掘り出した王宮跡の再調査に着手した。ドイツ隊は宮殿跡の上に立っていたミショルフェ村の住居跡の間に細長い発掘坑を設けて調査を進めたが、結果的にはドイツ隊が一番大発見をすることになった(そのためシリアやイタリアの担当者と紛争になったという)。
 かつてフランス隊が掘り出して「礼拝所」と判断した部屋が実際にはどうも便所だったことが判明したり、粘土板文書が出て来たり、壁画の一部が出土した。壁画片は亀を描いたもので、様式的には同時代のギリシャで栄えたミノア・ミケーネ文明の影響を受けているが、亀(陸亀?)という画題はシリア独特のものだという。
 また崩れたレンガが堆積してフランス隊が掘るのをあきらめた場所では、レンガの下に深い巨大な竪穴がありまだ下に続いていることも判明した。ここでも近い将来大発見があるかもしれない。

 さて最大の発見となった王墓である。これは宮殿の内部にある。宮殿の北東に廊下があり、フランス隊は途中で掘るのをやめたのだが、この廊下は奇妙なことにスロープ状に低くなっていた。ドイツ隊はこの廊下の続きを追っていったのだが、その長さは40mに達し、90℃右に屈曲してさらに地下に続いていた。これはただの廊下ではなく、地下王墓へのトンネルだったのである。このトンネルはさらに90℃屈曲している。
 そしてついに、墓の入り口に達した。入り口の両脇は神もしくは王を象った二体の石像が置かれ、その石像にはお供え物(皿に盛った肉)がされていたらしい。入り口は石や粘土で塞がれており、この墓は盗掘されていない手付かずの王墓であることが分かり、期待が高まった。
 墓室は中央の大部屋とそれに繋がる三つの小部屋からなり、中には1600点以上の副葬品が手付かずのまま、つまりほぼ埋葬されたときの状態で、足の踏み場が無いくらいに並べられていた。ただ木製品は腐って無くなっていた。墓室内には二つの石棺、複数の木棺、多くの石のテーブルや木製の櫃が壁際に並べられていた。
 ただ被葬者の骨は原位置、つまり埋葬されたままの状態ではなく、動かされた形跡があった。盗掘者が骨だけ動かして他の財宝を盗まないというのは考えにくいから、これは追加の埋葬などの際に以前に葬られた人物の骨が片付けられて動かされたり、埋葬して遺体が腐り骨だけになるのを待ち、骨だけを集めて改めて埋葬する「再葬」(沖縄では最近までこの習慣が残っていた)が行われたのだろうと思われる。当時としては珍しい火葬骨もあった。
 副葬品の大部分は土器で、ギリシャや北シリア(ミタンニ)からもたらされた彩文土器が含まれている。エジプト王の名前が刻まれた石製容器のほか、アフガニスタン産のラピスラズリやスーダン産のカーネリオンに黄金を組み合わせた豪華な七宝細工が出土した。遺物の年代はだいたい紀元前15~14世紀に属するが、上記の通り追葬の可能性もあるので墓自体はもう少し古くなるかもしれない。

 以下は私見。
 宮殿の中に王墓を作る例は、同時代(後期青銅器時代)のシリアやイラク(アッシリア)にあるから珍しくは無いが、このような40mもの長い羨道(墓室へのトンネル)を持つ例はシリアではどの時代を見ても絶無である。
 二度屈曲する羨道や不整形な(角が丸い)墓室はエジプトではテーベ「王家の谷」にあるシリア遠征を繰り返したトトメス3世(在位・紀元前1490~36年。テーベ第34号墓)や、その母親で共同統治者だった女王ハトシェプスト(在位・紀元前1490~68年)の墓(テーベ第20号墓)に近い(年代は中公「世界の歴史1」にある屋形禎亮の記述に依拠。古代エジプト史の絶対年代については議論が絶えない)。トトメス3世の子・アメンヘテプ2世(第35号墓)以降ののちのエジプト王墓では、墓室と羨道が直角、のちには同軸上にあり、また墓室が綺麗な方形に整形されるのに対し、これは明確な違いがある。多少のタイムラグは考慮しないといけないが、カトナの王墓もこれとほぼ同時代と見ていいのではないだろうか。
 シリアに対し17回の遠征を敢行したトトメス3世は、シリア諸侯の子女をエジプトに連れ帰りエジプト式の教育を施したといい(人質という意味もあったろうが)、この王墓の主もエジプト式の教育を受け、その来世観やエジプト工人などをシリアに持ちかえった可能性が高い。なおエジプトの王墓は「王家の谷」と通称されるワジの奥深く、つまり人里離れた場所に設けられている。シリア伝統の王宮内王墓と、エジプト式の長大な岩窟墓が折衷されたものがカトナの王墓であり、エジプトの多大な政治的・文化的影響を受けたシリアの立場を如実に示す大発見だったといえるだろう。





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最終更新日  2004年12月07日 02時01分01秒
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