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アルタクセルクセスの王宮址遺跡

アルタクセルクセスの王宮址遺跡

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2007年06月24日
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カテゴリ:歴史・考古学
 歴史好きならローマ帝国を知っている人は多いと思うが、「エトルリア人」という民族を知っている人はそれほど多くないと思う。しかしながら、ヨーロッパの大部分を制覇したローマ帝国もかつてはエトルリアの属国で、その文化もエトルリアから多くを学んでいる(というか模倣)、といえば異様に聞こえるかもしれない。まさに「ローマは一日にしてならず」である。
 ローマ人は紀元前500年頃にはエトルリアから独立し、紀元前1世紀までにかつての支配者エトルリア人を征服してしまった。ローマ人たちはエトルリア人の痕跡をほとんど抹殺してしまったので、いまやエトルリア人は「謎の民族」になってしまった。ただギリシャやローマの史書にはエトルリア人がたびたび登場する。だからヨーロッパではエトルリアというのは結構知名度が高く、エトルリア学は早くもルネサンス時代に始まっている。


 エトルリア人は遅くとも紀元前8世紀には存在しており、イタリア中部のトスカナ地方を中心としていくつかの都市国家を営み、統一国家を持たなかった。紀元前6世紀頃、ギリシャ人やフェニキア人との交流をきっかけに興隆する。この頃の土器には彩文や把手の形態がトルコで出土するものとそっくりのものがあるが、これは東方様式化時代という同時代のギリシャ陶器の影響の結果である。
 海上交易に活躍したエトルリア人は、イタリア南部に入植したギリシャ人とやがて商売仇になり、カルタゴ(フェニキア人が北アフリカに建設した都市国家)と結んでこれに対抗する。紀元前540年、サルデーニャ島アラリアの沖でエトルリア・カルタゴ連合軍はギリシャ人と海戦し、ついに地中海西部の制海権を握り、その繁栄は絶頂に達する。上にローマへの影響について触れたが、アルプス以北に居たケルト人などはエトルリア人を通じて地中海(西アジアやギリシャ)の文明に触れており、ドイツやフランスの先史時代にもエトルリアは無縁ではない。
 ところが紀元前500年頃、支配下においていたローマ市が離反して独立し(共和制ローマの始まり)、紀元前478年にはナポリ湾のキュメ(クマエ)沖の海戦でギリシャ人に敗れてその繁栄に翳りが見え始める。紀元前4世紀には北方からケルト人が南下してきて荒らしまわり、エトルリアにさらなる打撃を与えた。
 その一方でローマはその勢力を着実に拡大し、エトルリアの都市国家は南から次々とローマに征服されていった。上記のように紀元前1世紀にはローマに完全に併合され、エトルリア人たちはローマに同化されてしまった。
 エトルリア人は華麗な壁画古墳や印象的な人形陶棺を残したが、そのうちチェルヴェテリタルクイニアの古墳群は2004年に世界遺産に登録されている。また世界地図を見て欲しいが、観光地として人気のあるトスカナというイタリアの地方名は、エトルリア人のラテン語での別称「トゥスキ」に由来する。イタリア南部の海はティレニア海と呼ばれるが、これはエトルリア人のギリシャ語名「テュルセノイ」あるいは「テュレノイ」に由来している。

 ところでこのエトルリア人、ギリシャ人から導入したアルファベットを使っていたのでその残した文字を読んで発音することは出来るのだが、まだ解読されていない。彼らは自身のことを「ラセンナ」、転じて「ラスナ」などと呼んでいたことは判っているのだが、エトルリア語は言語系統が不明なのである。
 不明といえばエトルリア人の起源もよく判っていない。これは古代からすでにそうだったらしく、ギリシャの歴史家はさまざまな説を伝えている。紀元前1世紀の歴史家ディオニシオスが、エトルリア人はイタリア固有の民族であると伝えている一方で、著名な歴史家ヘロドトス(紀元前5世紀)はその著書「歴史」の中でエトルリア人の起源について以下のように伝えている(巻1、94節。訳は松平千秋による岩波文庫版)。

 
・・・リュディア全土に激しい飢饉が起こった。リュディア人はしばらくの間はこれに耐えていたが、一向に飢饉がやまぬので、気持ちをまぎらす手段を求めて、みながいろいろな工夫をしたという。そしてこのとき・・・(サイコロ遊びなど)あらゆる種類の遊戯が考案されたというのである。・・・さてこれらの遊戯を発明して、どのように飢餓に対処したかというと、二日に一日は、食事を忘れるように朝から晩まで遊戯をする。次の日は遊戯をやめて食事をとるのである。このような仕方で、18年間つづけたという。
 しかしそれでもなお天災は下火になるどころか、むしろいよいよはなはだしくなってきたので、王はリュディアの全国民を二組に分け、籤によって一組は残留、一組は国外移住と決め、残留の籤を引き当てた組は、王自らが指揮をとり、離国組の指揮は、テュルセノスという名の自分の子供にとらせることとした。国を出る籤に当った組は、スミュルナに下って船を建造し、必要な家財道具一切を積み込み、食と土地を求めて出帆したが、多くの民族の国を過ぎてウンブリアの地に着き、ここに町を建てて住み付き今日に及ぶという。彼らは引率者の王子の名にちなんで、・・・テュルセニア人と呼ばれるようになったという。


 「寝食を忘れて」とはいうけど、実際に出来ますかね?
 それはともかく、リュディアというのは現在のトルコ西部、スミュルナというのは現在のイズミル市(エーゲ海岸にあるトルコ第三の都市)にあたる。つまりエトルリア人は現在のトルコからイタリアに移住した者の子孫だというのである。そういやローマ市を建設したアエネアスも、トロイア(トルコ北西部)出身ということになってますな。
 ただし上記ディオニシオスはこのヘロドトスの記述に対して、リュディア人とエトルリア人では言語も宗教も違うので信じられない、とコメントしている。ただ現代の学問ではディオニシオスの主張を裏付けることも出来ないし、彼の時代にはエトルリア人はほとんどローマ化していたということも出来る。
 ローマ文明の起源にもつながる問題だけに、これについては長らく議論がなされてきたが、なにぶん考古資料を除いて歴史資料の少ない時代のことでもあって結論を見ず、起源そのものよりもむしろどのようにしてエトルリア人という民族が成立したのか、その過程に研究の興味は移っていた。

 ここでやっと本題だが、この起源論争に一石を投じる研究成果が先日発表された。古色蒼然としたこの問題に使われた研究方法は、DNA解析という最新技術を使ったものだった。
 トリノ大学のアルベルト・ピアッツァ教授を中心とする研究グループは、かつてのエトルリアの中心地であるトスカナ地方のムルロ、ヴォルテッラ、カセンティーノといった町に代々住む住民のDNAを採取し、イタリアはじめヨーロッパ各地の住民のDNAと比較した。この地の住民のY染色体はハプログループGに集中しているのだが(済みません、僕自身はなんのことやらさっぱり分からんのですが)、この特徴を持つ集団はイタリア国内には他にいなかった。似た傾向を持っていたのが、なんと現在のトルコに住んでいる人々だったという。
 エトルリア人のDNAに関する研究はここ数年すでに行われていて、イタリア・スペインの別の研究グループがエトルリアの遺跡から出土した人骨80人分のDNAを分析したところ、互いには非常に近いものの、現代イタリア人のそれとはかけ離れていることが判明したという。また現代のトスカナ地方の牛のミトコンドリアDNAを分析したところ、親縁性のある例はイタリアはおろかヨーロッパに全くみられず、中近東にあったという。
 これらの結果からピアッツァ教授らは、エトルリア人が小アジア(アナトリア)からイタリアへ移民したというヘロドトスの記述は信憑性がある、と結論付けた。牛については、テュルセノスに率いられたエトルリア人が最低限の家畜を連れていたためだろう、という。

 この記事を見たときは、ほう面白いな、とは思ったのだが、すぐに「ホンマかいな」と思うようになった。今のトスカナ地方の住民とエトルリア人を同一に見ていいのだろうか?
 イタリア数千年の歴史の中で、東方から多くの移民がやってくる時期はいくつもある。エトルリアののちのローマ帝国は西アジアにまで版図を拡大していたので、そこの出身者がローマ兵士としてイタリアに来ることもあったろう。また5世紀の民族大移動の時代には、ゲルマン人のほかアッティラ率いるフン族など、東方からさまざまな民族が到来した。現在だってトルコ人やアルバニア人がどんどん来てるんじゃないだろうか。
 まあ「エトルリアの遺跡から出土した人骨」というのだから、遅くともエトルリア人は東方と関係があったかもしれないが、この分析だけではこの特徴を持つDNAが「いつ」イタリアに来たのかは分からないので、エトルリア人よりもはるか以前、たとえば西アジアから農耕が伝わった新石器時代のカーディアル文化の名残り、と考えてもおかしくはあるまい。
 まあもう少し成り行きを見守ってみますか。

 ところでエトルリア人移民のエピソードは僕の専門にも無縁ではない。
 紀元前12世紀初頭にヒッタイト帝国などを滅ぼしてエジプトに襲来し、西アジアを混乱に陥れたという「海の民」にはいくつかの部族名が言及されている。「海の民」を撃退したエジプト王メルネプタ(紀元前13世紀末)の碑文には、「海の民」としてシェルデン、シェケレシュ、エクウェシュ、ルッカ、テレシュといった集団の名前が言及されるが、これはサルデーニャ、シチリア、アカイア、リュキア、ティレニアといった後世のイタリアからトルコにかけての地名に比定されている(異説もある)。繰り返すがティレニアとはエトルリア人のギリシャ語名である。またヒッタイト帝国の末期には飢饉が頻発していたことが文字資料から窺えるのだが、これとヘロドトスの伝える「18年に及ぶ大飢饉」は同じものか。
 飢饉に苦しみ新天地を目指し海に漕ぎ出したリュディア人たちは、エジプト経由でイタリアへ向かったのか?逆にイタリアからエトルリア人の祖先がアナトリアに向かったのか?それとも別の時代の全く関係ないエピソードなのか。あるいは数世紀に及ぶ文化交流(民族移動ではなく)を掻い摘んで述べたものなのか?あるいはアエネアスと同じく民族起源伝承の類なのか。
 出土する考古遺物でいうと、紀元前12世紀以前には該当地域ではいずれもミケーネ式の土器や牛皮形青銅鋳塊が出土するので、地中海で活発な交易網が形成され人的交流があったことは間違いないし、紀元前12世紀頃からは手づくねのブッケロ(瘤つき)土器という特徴的な土器が見られることも共通する。
 肝心のアナトリアとイタリアを直接結びつけるこの時代の遺物は今のところ見つかっていないのだが、興味は尽きない。

 Asia Etruscos sibi vindicat.(セネカ)





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最終更新日  2007年06月25日 01時48分50秒
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