カテゴリ:名作の散歩道
バッハ「ト短調のフーガ」の追いかけるようなピアノ曲が創作意欲をかきたてたという。
「美しい村」…序曲 美しい村 夏 暗い道 「風立ちぬ」…序曲 春 風立ちぬ 冬 死のかげの谷 目次をみているとそんな楽の音が聞こえそうである。 「美しい村」 精神的危機(多分、苦しい恋愛)を持てあまして、季節にはまだ早い軽井沢に来て鬱々としている小説家らしい主人公。ラブレターもどきの手紙をうじゃらうじゃら書いて暇をつぶしている。ふざけて書いたが、この序曲手紙部分に若い私はぐっーときたのよね。何故ゆえにか。 文章をいろどっている、高原の乾いた空気、野ばらや藤の花のにほひ、空き家の別荘やバンガロオ、落葉松林へ彷徨い、ヴェランダから見る樅の木の群れ、遠見の中央アルプスの山々。今じゃそれなりに皆、経験して珍しくもないのだが、当時は高嶺の花、憧れが多分に入っているね…。 軽井沢の恋というと、私は古くは野上弥生子の「迷路」、近くは小池真理子の「恋」があるのを思出だすね。 そう、傷心の主人公もほっそりと背の高い、きらきらと光っている特徴のある目ざしの少女にめぐり会ったのだった。ひそやかに恋に落ちていく。恋の行方ははっきりせずに一旦物語を閉じる。 「風立ちぬ」 「美しい村」終章でのいったいどうなるのかしら?という不安な気持ちとあっけなかった後の物語。 「序曲」で別れを予感させときながら「春」ではその少女(節子)と婚約して登場。「お前」なんて呼んじゃって…、えっ!だけどね。しかも、その頃は死病といわれた胸の病に侵されていて。というより「美しい村」で逢った時からだったのかも知れないけど。やっぱりこのパターンは純愛ものにつきものなのね。 八ヶ岳の山麓のサナトリウムに行くことになり、主人公も蜜月旅行ならぬ付き添いでいくことに。風変わりな愛の生活がはじまった。小説にして私小説、堀辰雄の実人生でもあった。 サナトリウムで看病しながら小説を書きはじめ、そのテーマがこの「節子」のこと。しかも「私のことならどうでもお好きなようにお書きなさいな」と軽くあしらわれる。(節子の気持ちは軽くないのだけれど、恋人に仕事ー小説書きをさせたいけなげさなのだ) 主人公の夢想する「小説」の筋は作者の手から物語が離れていくような展開になって来る。作家魂と申そうかよくあることだ。 『病める女主人公の物悲しい死』 『身の終わりを予覚しながら、その衰えかかっている力を尽くして、つとめて快活に、つとめて気高く生きようとしていた娘―恋人の腕に抱かれながら、ただその残される者の悲しみを悲しみながら、自分はさも幸福そうに死んでいった娘、...』小説なのか、物語の中の物語なのか。 けれど、主人公は夢想を恥、恐怖に襲われ悩む。「はたしてこんな生活をさせて幸せなんだろうか?おれの気まぐれではないのか」節子の病気は重くなっていく。 節子は『私達のいまの生活、ずっとあとになって思ひだしたらどんなに美しいだらうって…』と微笑するけれど、主人公私は出会った頃に感じたような『幸福に似た、しかしもっともっと胸のしめつけられるような見知らない感動で自分が一ぱいになっているのを感じ』るのだ。 溶けあう心、一瞬の幸せの色濃い思い出。自分は生きていくのに、たくさん幸せをくれた相手は死んでいく。時を閉じ込め、風の中に気配を感じる。 やっぱり文学の香気がいっぱいだった。 『風立ちぬ いざ生きめやも』 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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うわーーーーーっ、姫野カオルコを読んだ自分が恥ずかしくなるような(恥
私は自身に対して美しい生き方を感じたことがありません。 そのせいか、青年期の淡い色合いを貫いた作品には馴染めたことがありません。 そういう素直な感覚が自分にはないのです。 ばあチャルさんの感性がうらやましいと思います。 (2005年07月12日 17時33分59秒)
うわ~、懐かしいです。20才くらいの頃、『菜穂子』『楡の家』『風立ちぬ』など、読み耽ってました。立原道造など、軽井沢ゆかりの作家を訪ねて信州を友達と彷徨い歩いたのを思い出します。ブンガクしてたな~あの頃...( = =) トオイメ
あ、でもやっぱり一番は福永武彦の『草の花』です(^^ゞ (2005年07月12日 17時55分52秒)
十代の終わりに読んで、時々見てはいたが、しっかり再読したのは今回初。もっと皮肉ぽくよむのかと思ったら、しっかりはまった。私はやっぱり「ローマンス」が好きなのかな~?
(2005年07月12日 18時47分57秒)
>うわーーーーーっ、姫野カオルコを読んだ自分が恥ずかしくなるような(恥
ううん、ちがう。 文学的表現が異なるだけなのだと思う。 堀辰雄の文章をよく読むと「激しい生への愉悦」がひそんでいるもの。この生は性と考えて間違いない。精神と肉体の一致がこの世の幸せと一瞬を濃密に生きた証があるから、失って後残された者が満たされたのだと思いました。 >私は自身に対して美しい生き方を感じたことがありません。 >そのせいか、青年期の淡い色合いを貫いた作品には馴染めたことがありません。 >そういう素直な感覚が自分にはないのです。 パティさんの率直ともいえる感性の中に感じる色気の魅力は敏感な(センシティブな)部分で、私は感じ入るばかりですよ。 (2005年07月12日 19時03分14秒)
>うわ~、懐かしいです。20才くらいの頃、『菜穂子』『楡の家』『風立ちぬ』など、読み耽ってました。立原道造など、軽井沢ゆかりの作家を訪ねて信州を友達と彷徨い歩いたのを思い出します。ブンガクしてたな~あの頃...( = =) トオイメ
年代はずれていますが、私も(笑) >あ、でもやっぱり一番は福永武彦の『草の花』です(^^ゞ そうそう、それ。猫のゆりかごさんのお好きな『草の花』、比較的若い頃に本当に興味を持って読んだのですけど、覚えているほどには印象がないのです。ところが、その当時どうしてもどうしても読みたかったことはしっかり覚えているのです。で、これは是非再読と思っている一冊なのですが、本がないのです。処分したなのかなー(汗) (2005年07月12日 19時09分54秒)
>堀辰雄とヘルマン・ヘッセとトーマス・マン。
文字を見ただけで反応する世代かもしれませんね。 >青春の時にしか持ち得ない、ストイックな胸の蠢動を描いていますね。 だから、その輝きが懐かしくもこんなに鮮明に蘇るのでしょうね。文学の中でふたたび味わえるなんて幸せです!! (2005年07月13日 05時34分24秒) |
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