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昭和15年(1940年)1月、阿部信行内閣総辞職のあと、米内光政(よないみつまさ)海軍大将に組閣の大命が下りました。
日中戦争は主に陸戦でしたから、海軍の出番は少ないものでした。もともと、日本の軍隊は、陸軍がフランスやドイツの軍制を手本にしてきたのに対して、海軍はイギリス・アメリカを手本にしてきたという違いがありました。 ですから、海軍には親英米派の人が多かったのです。このことは近所のおじさんから聞いたこともありますし、当時の世間でもかなり知られていたことです。 日露戦争の日本海海戦で、秋山真之参謀が進言した丁字型戦法も、秋山が、米西戦争(キューバ独立に関わるアメリカとスペインの戦争)を現地で観戦して、会得したものと聞いています。 米内光政 秋山真之 (出典 Wikipedia) 米内光政は親英米派の代表格の人物で、そのため、山本五十六(やまもといそろく)次官とともに暗殺の目標にされていたそうです。 米内光政も山本五十六も、もし日本がイギリス・アメリカと戦争しても、しばらくは勝利するが、最後まで勝ちぬくことはむつかしいと判断していました。 その親英米派の米内光政が総理大臣になったのは、独ソ不可侵条約の影響で、陸軍の親独派が一時鳴りを潜めたためでした。 米内光政内閣は、その後6ヶ月で総辞職しました。ヨーロッパの戦局の転回で、陸軍の戦争完遂派が再び勢いを盛り返し、陸軍大臣を出さなかったためです。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 米内光政は、その後、敗戦をまたいで四内閣の海軍大臣を務め、日本海軍の幕引き役を果たしました。 戦犯にされることなく、東京裁判には証人として出廷し、天皇を擁護して、戦争責任は、東条英機とそれを取り巻く陸軍幹部にあると証言しました。 引退後は、元の部下の牧場経営に加わり、昭和23年に死去しました。享年68歳。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
秋山真之さんは、とても、ダンディーな方ですね!
米内光政さんは、引退後は、元部下の牧場経営に加わったそうで、享年68歳との事、この当時の方にしては、長生きだったのではないでしょうか? (2010年07月19日 12時04分22秒)
米内内閣の退陣が陸軍の反対によったということ、大臣現役武官制の欠陥を表しています。あれが非常によくなかった。軍部横暴の根拠となった。痛恨の制度でした。総理大臣の権限も弱かった。陸軍と海軍の意思疎通もなかった。最悪のセクト主義。陸軍大臣ですら参謀本部の情報が分からなかった。海軍大臣は軍令部のことが分からなかった。ヤマタノオロチみたいな国家体制。こんなことで戦争に勝てるわけがなかった。一人一人は極めて優秀で、愛国心もあったのでしょうが、制度の欠陥はいかんともしようがなかった。そんな気がします。
(2011年02月14日 14時20分21秒)
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