1613853 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

chusan55

chusan55

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

コメント新着

 hijimasako@ Re:敗戦後の学校・・・2学期始まる・・・菊池校長(02/04)  こんにちは。戦後のことをよく知ってい…
 たかさん@ Re[1]:黒部ダム完成・・・想い出は湖底に沈む(10/25) flamenco22さんへ 今はダムの底にある平…
 non@ Re:朝鮮戦争始まる・・・レッドパージ(05/23) それはマッカー”サー”ではなく、マッカー”…
 アイリッシュタイムズ@ Re:七人の侍・・・黒澤映画の最高傑作(07/27) この映画を名画座で年始に見て、コロナ禍…
 背番号のないエース0829@ Re:憧れのハワイ 「堂々と公演 !! ~ 沖縄県立八重山農林…

フリーページ

ニューストピックス

2011年03月02日
XML
カテゴリ:カテゴリ未分類

月が替わって、2011年3月。ブログを書き始めて1年が経ちます。いつも、私のブログ 「チューさんの今昔ばなし」 を見てくださって、ありがとうございます。

このブログでは、昭和の初めから、私が見たり、聞いたり、体験したり、したことを、ほぼ年代順に書いています。今は、昭和21年(1946年)、私の専門学校在学中、敗戦後の惨めな時代に入っています。

このブログは、私の想い出日記ですが、同時に一庶民が体験し見てきた、日本国の移り変わりでもあります。

歳とった者には、もはや力はありませんが、国の盛衰、世の中の移り変わりは、充分に見てきました。過去を振り返りながら、資料を調べながら、さらに続けて行きたいと願っています。

            ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆


このブログを、書き初めの 昭和3年 から 最終ページまで、ホームページ 用 に改訂し、内容も書き加えて、公開しています。  目次 から、どのページでも見られます。

     題 名 は   「チューさんの今昔ばなしと野菜ワールド


なお、エピローグ以後のことは、 ホームページ  の方に書いていますので、そちらでご覧ください。

  このブログ各ページの画像や文章には著作権があります。無断転載転用はお断わりします。

            ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

さて、日本では、アメリカ・イギリスとの開戦前から、物価統制令を出し、生活物資の配給制度を作りました。それが、物資の不足から戦時中に崩れ始め、敗戦後は事実上崩壊しました。

警察も、敗戦後の民衆による反発と突き上げで、戦時中の強圧的な取締りから、違法も見て見ぬ振りをするようになりました。

GHQ(連合国軍総司令部)は、食糧メーデー の経験から、主要食糧(米・麦・イモ類・豆類)については、日本の警察と連携してきびしく取り締まりましたが、その他の物資に関しては、あまり言わなくなりました。

その結果、全国の都市の焼け跡や疎開跡を不法占拠して、バラック建てやテント張りの店がたくさんできました。これを人々は闇市と呼びました。店を開いていたのは、引き揚げ兵士や在日外国人、罹災者などが多かったと記憶しています。


         新橋の闇市
                       東京・新橋の闇市 


私の家の向かい側、建物疎開跡も闇市になりました。主要食糧は表向き売っていませんでしたが、ほかの物は、どこから仕入れてくるのか、いろんな品物が売られていました。安っぽい衣類、鍋やフライパンに茶碗、炭や薪、魚や野菜、乾物、調味料、飴(あめ)や煎餅(せんべい)など、など、など、・・・。

店を出している人たちは、荒っぽい言葉づかいでしたが、暴力沙汰はあまりありませんでした。


       名古屋の闇市
                       名古屋市の闇市

私の家では、父が店の部分を陶器屋に貸していましたが、裁判所の調停に提訴して、店を返還してもらいました。金融緊急措置令で預金を封鎖されたので、何か商売をして新円を手に入れないと、生活に困ってしまうのです。

とりあえずは、5年も前に仕入れて残っていた昆布などを売りました。まだ統制はありましたが、主要食糧以外は警察も黙認していました。

私の家から歩いて15分ほどのところに、警察も眼の届かない地域がありました。私は知り合いにつれてもらって、豆類をたくさん持っているという人を訪ね、豆を売ってくれと頼みました。相手は、人相は悪いが案外に人が良く、倉庫に入れてくれました。

大豆小豆うずら豆など、いろいろありました。大豆うずら豆を1升(1.8リットル)ずつほど買い、これを持ち帰って、姉が煮豆にして売ってみたら、よく売れました。

豆類と同様にきびしい統制品でしたが、これを煮豆にすると、統制外商品になって、売っても差し支えなかったのです。

この豆の仕入れと、煮豆売りをしばらく続けました。そのうちに、豆持ちのおじさんとも仲良くなって、ほかの品物もいろいろ回してくれました。

こんな取引は、厳密に言うと違法かも知れませんが、この時代、こうでもしなければ、新円も手に入らず、生きてゆくことができませんでした。

このころ、水道は普通に出ていましたが、電気はわずかしか供給されませんでした。

晩になって、電灯のスイッチをひねっても、100ワットの電球なのに、フィラメントはわずかに光るだけ、今の5ワットの常夜灯より暗い状態でした。本も読めませんでした。

夕暮れになると町中が暗く、用心もよくないので、店を閉め、そんな暗い明かりの下で、乏しい夕食を食べました。闇市で売っている石油ランプを灯している家もありました。

            * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

闇市は、昭和24年(1949年)まで続きました。この間に、物資は次第に出回るようになり、物資の統制も次々に撤廃されて、自由に商売ができるようになり、元の商店街が復活してきました。

昭和24年、GHQは全国の闇市を撤去させるよう、指令を出しました。闇市は、公有地、私有地の不法占拠でしたから。当時、占領軍の命令は絶対的なもので、反抗して居座ることはだれにもできませんでした。

闇市最後の日、昭和24年(1949年)の何月何日だったかは忘れましたが、向かい側の闇市は、すごい人出で賑わいました。なんでも売れました。そのころ、私の店では、鶏卵やお茶なども売っていましたが、その日はよく売れて、商品が無くなるほどでした。

店の前で、カボチャを食べたあとの、タネを乾かしておいていたら、そんなものまで売れました。

近ごろ、ネットショップで “闇市” という言葉か使われていますが、昔の闇市を知っている世代としては、あまり良い印象は持てませんね。もっと良い言葉があるでしょうに。 

 






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2014年06月13日 08時49分03秒
コメント(1) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.