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昭和20年(1945年)8月の日本の敗戦・無条件降伏のあと、軍人・軍属の人たちの復員(ふくいん)が続きました。復員とは、戦争のために召集された兵士が、任務を解かれて帰郷することです。 国内にいた軍人たちは、昭和20年のうちに帰郷しましたが、海外からの復員は、昭和21年(1946年)の半ばごろが最も多かったと記憶しています。中国に居留していた民間人の帰国の方が、かえって遅くなりました。 私の家では、東京の陸軍通信学校にいた兄が、敗戦の翌月に帰って来ました。仏印(フランス領インドシナ・現在のベトナム)に駐留していた従兄弟と、中国戦線にいた別の従兄弟が、昭和21年5月に、スマトラ島にいた姉の夫が翌6月に、それそれ復員しました。 復員船 氷川丸 (出典 Wikipedia) 復員船 旧軍艦 若鷹 (出典 Wikipedia) 復員のために、日本に残されていた軍艦や客船・貨物船などが総動員されました。この年に歌手・田端義夫が歌った "かえり船" が、海外からの復員の時期と重なって、大ヒットしました。港の岸壁や駅のホームでも、この歌がスピーカーから流れていました。 田端義夫(当時の写真・出典 Wikipedia) 田端義夫は、大阪駅のホームで、自分の歌の流される中で、生還の喜びに、復員兵が家族と抱き合う姿を見て、本当に歌手になって良かったと思い、涙が出た、と話しています。 波の背の背に ゆられてゆれて 月の潮路のかえり船 かすむ故国よ 小島の沖じゃ 夢もわびしくよみがえる ・・・・・ (時雨音羽 編著 日本歌謡集 より引用) 田端義夫の歌う かえり船 は、YouTube で聴くことができます しかし、戦地や外地からの復員・引揚げは、必ずしも当人に、幸せをもたらしてくれるばかりではありませんでした。日本に戻ってみれば、家は焼かれ、家族の生死も分からず、その日からの生活のめどの立たない人も多かったのです。 旧満州からの引揚げ途中に、両親が死に、兄弟ともはぐれて、一人で帰国した女性が、住む家も仕事も無くて、夜の女に転落したというような話も聞きました。 また、戦争で多人数の男が戦死や戦病死したために、未亡人になった人も多く、大正生まれの女性は、大変な結婚難でした。当時は女性の仕事場はほとんど無く、男不足の世の中、公務員でも会社でも、求人・採用は男性のみ、という例がほとんどでした。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * このころ、私は、一番下の姉と二人で、父の実家へ行き、父を京都の家へ連れ帰りました。その当時、特急などはなく、往復とも、超満員の北陸線の列車内で、一晩中立ち通し。帰りの汽車では、弱っている父を二人で支えていました。 その一番下の姉も、両親や伯母たちに説得されて、この年の秋、一年前に死んだ長姉(2011年2月11日のブログ参照) のあとの後添いとして、義兄と結婚し、長姉の遺した二人の子供を育てました。 軍隊から復員した従兄弟たちにも、女性からの縁談がたくさん舞い込みましたが、一人は、死亡した兄に代わってあとを継ぐために、家や田畑を守ってきた兄嫁と結婚しました。別の従兄弟は、出征前に勤務していた会社の主人に請われて、その家の娘と結婚し、婿養子になりました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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