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カテゴリ:教育
小学校の教員がHP交通事故の被害者の写真を掲載し、被害者を誹謗中傷するような書き込みをしていたことが判明しました。被害者の家族の心を踏みにじるような内容であるばかりではなく、家族にメールまで送り付けていたようです。
この教員は写真の無断掲載で著作権法違反容疑で警察の家宅捜索を受けたのにも拘わらず、校長、教育委員会はHPの内容を確認しませんでした。校長は教員を放置し、教育委員会も口頭注意だけですませ懲戒処分を行いませんでした。 今回、遺族側の告訴・告発により初めて問題が明らかにされました。この教員は抗議を受けてHPが削除されてもプロバイダーを変えてHPを更新し続けたようです。現在の法体系ではこのようなケースに対して対応のしようがありません。 アメリカではプロバイダーはHPの内容には責任を問われないという判決が下りたようですが、上級審の判断はまだ出ていません。日本ではプロバイダーの自己規制に頼らざるを得ませんので、マニアックな不心得者が跋扈しています。 インターネットの世界は自己責任の世界です。法律で規制をすれば中国のようなネットの世界を国家が管理する社会になりかねません。角を矯めて牛を殺しては意味がありません。自由にアクセスできるのがネット社会の特徴だからです。 しかし、自由だからといって何をしてもいいわけではありません。刑法で罰することができなくても社会的制裁を加えるべきです。ネットの世界での出来事はネットの世界の中で処理すべきですが、ネットの世界の常識を逸脱しています。 ネットの世界は玉石混淆ですから情報を評価する力量、情報リテラシーを身に付けなくてはなりませんが、誹謗中傷に対して打つ手がないのが現状です。ネット百科事典、Wikipedでも個人に対する誹謗中傷が流されたくらいだからです。 それだからこそ個人の倫理観が厳しく問われるのです。学校の教師が誹謗中傷を目的とした著作権侵害で訴えられることが異常ですが、事実の確認を怠り教師を放置し、担任をさせ続けた学校、教育委員会の管理責任が問われて当然です。 この教師からはマニアックな病的な性情を感じさせられます。教師の質が厳しく問われている時に、学校、教育委員会の無責任体質が明らかにされました。現代の教育現場の荒廃は教師達の身内の庇い合いにより助長されているようです。 教師だから聖人君子になれというのではなく、世間一般の常識を身に付けて欲しいと言うことです。いじめでは学校側の情報の隠蔽が目に付きました。いじめがないと報告をすれば、いじめがないかのごとく思い込んでしまうからでしょう。 教師の自宅が警察の家宅捜索を受けたのを「処分するほどではない」と判断してしまう甘さが教師から教育者としての誇りを奪い去ってしまうのです。教師は清貧に甘んじても志は高くあって欲しいのですが、笑い話にしかなりません。 教師の質の低下は教師自身が聖職ではなく教育労働者だと自己規定した時から始まっています。団塊の世代の教師には聖職者としての誇りがまだあったような気がします。日教組が日本の教育を駄目にした元凶であるのは事実でしょう。 ソ連が崩壊したのにも拘わらず社会主義的なドグマから解放されていない日教組は子供を人質に取っているので始末に負えません。教師は聖職であることを自覚して欲しいものです。師の影を踏めないような教師であって欲しいものです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006/12/06 08:56:16 PM
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