15年ぶりにシンガポールのアラブ人街に行った。
アラブ人街といってもマレー人やブギ人などイスラム教徒の集まりであるコジンマリした集落である。
インド人街同様、高層の建物の中に2階建て程度の空が広い雑多な地域である。
モスク界隈には、布地屋が続き、ろうけつ染め更紗(バティック)の布地やシルク製品、飾り屋が続く。香油を売る店も続く。イスラム教徒の礼拝用の品々や半貴石を扱う小さな店も続く。またブソーラ通りには屋台で賑わっており、ドネルケバブを食べようとしたが、えらく並んでいるので涙を飲んで断念した。イスラム料理の店もあり、インド料理と同様、300円程度で、デザートまでついた飯が食えるといった按配だ。
シンガーポール イズ ファイン カントリー と書かれたTシャツがある。
勿論、いや、多分、ファインは[良い]という意味ではなく[罰金]という意味であろう。
水洗トイレに水を流さなければ罰金。
自分の家の庭の木を勝手に切ったら罰金。
雨どいにボウフラを発生させたら罰金。
子供が、他人の車に落書きしたら鞭打ち。
マリファナをたかだか500グラム以上持っていたら死刑。
それにしてもアラブ人街、雑多な感じが良い。
シンガポールは不自然に緑豊かである。そこに詩はない。人工美も何故か感じられない。
イ、 イカン、またシンガポール批判みたいになってきた。そういう訳じゃないよ。
それにしても、何もないこの国を観光立国に仕上げたという努力は凄いものがある。ソノ分、わざとらしい。
初めて訪れた頃、伝統的なチャイナタウンの街並みが、壊され、高層の建物に変わっていく様子が伺えた。何か、それがとてもつまらなくしているように思えた。
シンガポールは人口の2倍も旅行者が来る観光立国である。タックスヘイブンのせいでもあるが。
60年代、シンガポールは高らかにガーデンシティを宣言した。ホテルも建てだした。観光客9万人。
70年代、バードパーク、セントサ島の開発、コンベンションセンターの設立。観光客200万人。
80年代、歴史的建物を壊し開発しすぎたので、インド人街やアラブ人街、チャイナタウンを再開発、倉庫街であるボート・キー及びクラーク・キー等ウォータフロントの再開発。まあ、現在ガイドブックに載っている観光コースは80年代に作られたものだ。
90年代にはいると、生意気にも、「世界からシンガポールに」「シンガポールを世界に」政策が取られた。その代表が、船ですぐの植民地インドネシアのビンタン島開発であった。90年代前半には観光客600万人である。
そして2000年以降は、もうよく分からん。まだシンガポール21とか言う政策をとっているようである。
私は、買い物しないから、よく分からんが、メシ食いに行くにはいいところであるということである。
そういえば、昔、あまりに暇だったので国立博物館に行き、プロモーション映画を見たら、「シンガポール~シンガポ~」と何か北朝鮮張りに笑顔で歌われて、苦笑した。
昔、シンガポールのベンクーレン通り沿いの安宿のドミトリーに泊っていたが、隣のベッドはマレーシア女性で、やたらめったら、ベッドの上に服があり、ナイトクラブで働いているのよ、と笑顔で答えられた。西洋人20人程度と日本人の私、そしてマレーシア人だけが宿泊客であった。そのくせトイレ兼シャワーは一つ。朝はラッシュであった。勿論私はボロ負け。朝寝坊だからね。
「私の店に遊びに来てよ」とは彼女は言わなかった。
一杯の飲み物で、この宿代が払えるのを知っていたからであろう。
それにしても、帰国して3,4日たつというのに、脳が何かを蘇らせたのか、まだ懐かしい臭いが時々通り過ぎる。