風任さんの日記に触発されて、何だか、思い出した。
私も風任さんと同じく、Y君とはチベットのラサで知り合った。数人の日本人が集まり(変なゲルマン人,ヘンゲル君もいたが)最初に去って行ったのが、風任さんともうひとりの芸術家の女性であった。
最後に、彼女らに、中国語で、並んで歌を歌ってもらった。「ウラアラーウラアラー」っていうところだけ憶えてます。何て歌なんですか?
そして、「いつか旅人はパッキングする時が来るんですねえ」とY君は名言を残し去っていった。その年に国境が開いたクジュラブ峠を越え、パキスタンに入り、長寿の国といわれたフンザを越え、ヨーロッパに向かうと。
結局、私はバスの関係もあり、最後までラサに残り、そしてネパールに向かった。
それから確か、1ヵ月後から2ヵ月後、私は、パキスタンにいて、イランを目差していた。イランへの窓口となるクエッタに向かう列車の中、ちょうど、モヘンジョダロ近くの駅で、列車からふと外を見ると、なんと、Y君が駅でチャイをしばいているではないか。
彼は何故か1等車に乗っており、早速お伺いした。そして、一緒にイラン、トルコへと抜け、トルコのエルズルムという町のバス停で別れたのであった。
彼と歩いた、イラン、イスファンの王のモスクの裏路地。
トルコの夜行バスの中、一晩中、我々は話をした。おしゃべりじゃないんだけど、何故か、いつまでもしゃべっていたのが不思議だった。かっこうよくいえば、私の尊敬する藤原新也先生と
宮内勝典先生 がインドで会った情景のようだ。何十年も後に二人は対談しており、あの時二人は無口だったよね、といい、何故インドに来たかの理由に、そこに土があるから、と答えたんだよね、としびれる対談であった。まあ、我々はそんなに格好よくないが、そのバスの中での話を一つ思い出した。彼は、W大学在学中で、サンプラザ中野と、デーモン小暮は、売れる前から大学では有名人だったという。
早慶戦で、試合の合間に大観衆の中、デーモンが球場に乱入してギャグをかましたという。
「右翼の人には危ないですが、天皇(昭和)は、実は、、、、、ジャミラだった!」
といって肩をすぼめたという。会場は大うけしたらしい。
その後、働き始めてからも、中野の彼の家にはよく遊びに行き、一度は大阪にも来てくれたりしたが、やがて彼はまた旅立っていった。
ほんとうに旅立っていってしまった。
もうあれから10年になる。
チベット高原。