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カテゴリ:うつほ物語
その三の二の一 母北の方の微妙な不安
数年、そんな日々が続いた。 仲忠はともかく、彼女は息子以外の誰とも会わず、ただ琴を引き、少しばかりの身の回りのことを覚えながら、自然と共に生きていた。 時には動物達が琴の音に惹かれて来ることもあった。そんな時彼女はひどく穏やかな気持ちになったものだった。 そんな二人だけの世界が終わったのは、それから五六年も経った頃だろうか。 仲忠は日々山の中を駆け回っているせいか、日には焼けているが、肢体もすんなりとし、衣服さえ整えれば、昔の若小君にも似ている様に思われた。 既にその頃、仲忠は母の教える琴の全てを収得していた。だが自分の手とはやや調子が違うな、と彼女は感じていた。 ある日、東国から数百の兵がやってきた。 何かしら現在の政治に不満がある者達が徒党を組んできたのだろうが、彼女はそんなことは知らない。 ただもう、都へ入る途中にあるこの山にまで入り、食べ物を求め、目に入る様々な獣や鳥を殺しては食う。 彼女はそれを直接見た訳ではないが、いつもと違う山の様子に怯えた。 人の怒号、逃げる鳥の羽ばたき、獣の叫び声。 彼女には初めてのものばかりだった。 逃げよう、という息子に向かって彼女は首を横に振った。怖くて、立つこともできなかったのだ。 「さっき見たんだけど、多くの男達が、もうじきやってくるんだ。手には刀や弓矢を持ち、火を掛けようとする奴もいる。…このままでは、僕等が危険になるよ」 「母を置いて、お前は逃げなさい。母は動けません」 「では僕が母様を背負うから」 「いいえ、そんなことはしてはいけません」 「ではどうしろと!」 仲忠が自分に向かって怒ったのは、その時だけだ、と彼女は記憶している。 「 彼女は仲忠に言った。 「母は怖くて、足が竦んで立てません。…そなた、その奥から『なん 「なん それは「ほそお 「今が一番幸せだ、と思った時、もしくは不幸だと思ったとき―――」 俊陰はひどく辛そうな目で娘を見たものだった。 「どうしようもない禍がお前を襲い、生命の危険があった時――― あるいは、獣を友にする様な生活の中で、正に食い殺されそうになる様な時――― 兵に殺されそうになった時…」 そんな時でなくては、この二つの琴は弾いてはならない、と彼は娘に強く言い残した。 今がその時だ、と彼女は「なん風」を取り出した。 初めて弾くその琴は、ひどく大きく響いた様に感じられた。 いや、実際響いていた。どういうつくりになっているのか、「なん風」から出る音は、「ほそお風」に比べ、大きく、太かった。 七弦琴の、高低幅広き音が、山の木々に反響し、豊かな、しかし奇妙な音の連なりになって行く。 仲忠は「様子を見てくる」と木々に昇って飛び渡っていった。 彼女は弾き続けた。ただひたすらに、大小問わず知る曲を全て。 そうすることで、彼女の恐怖も薄れて行くかの様に思えた。 夜中から始まった独演は、翌日の昼まで続いた。いつの間にか、そこから兵達の気配が消えていた。 何がその時起こったのか、彼女には判らなかった。 正直、今でも正確に理解しているという訳ではない。 兵達が何故気配を絶ったのか、彼等は消えたのか、立ち去ったのか、それとも。 何も彼女には判らないことだった。 ただその時、帝の命で山から聞こえる妙なる音を探索していた兼雅が、彼女達親子を発見したことだけは事実である。 そしてあの「若小君」が彼女を見た時、自分と判ってくれた。 それが彼女には、何よりも嬉しかった。 彼には昔の面影があった。その一方で、仲忠と似ていると思った。 本当に嬉しかった。 彼女は「なん風」への疑問を忘れた。忘れることにした。 やがて仲忠ともに三条の屋敷に引き取られた彼女は、それ以来平穏な日々を過ごしてきた。 仲忠の元服の折、その母である自分の素性も世間に知られることとなった。 右大将の妻として、 息子は十八の歳、侍従となった。やがては右大将家の跡取りとして、そのまま出世して行くだろう、と彼女は思う。 だがその息子は、微妙に周囲の公達と異なっている様に思える。 頭は良い。だが良すぎる。 三条に引き取られ、「あめつち」から読み書きを始めたというのに、元服する頃には「私ですらここまでは判らないよ」と兼雅が嘆息する程の知識を屋敷にある沢山の書から身につけていた。 筆跡も見事だった。宮中の誰もが彼からの文を貰いたがっている。 父の代筆をする時など、用が済んだ手紙を貰いたがる女房があちこちから出たとか。 そして何よりも、楽才が。 うつほ住まいの時、彼女は七弦の 十二弦の 仲忠は父親より少し年下の、 夫は無邪気に笑いながら話すが、彼女は少しばかり不安を感じた。そんなに急がなくていいのに、と思った。 かつて自分を養ってくれた時の様に、息子は急いで一人前になろうとしている様に思われた。 だが彼女にはどうすることもできなかった。 急ごうと何だろうが、息子の選んだことである。自分は何もできない。したくても判らなかった。 「姫君として」「奥方として」の物事はそれなりにできるとしても、生きるための知識も知恵も無かった自分が、息子に何を言えるというのか。 今でも、あの頃どうやって食べ物を手に入れていたのか、彼女は息子に聞けずにいる。 昔と違い、大勢の女房にかしづかれる今は、世間を良く知る彼女達からの情報で、それらしき答えを見つけだしている。 だがそれをはっきりとした言葉にしたことはない。するのが怖い。 夫も息子もそのことは触れられたくなさそうだった。 彼女は息子を愛している。だが息子の方もそうなのか、彼女には自信がなかった。 彼女はただ息子からの言葉を待つばかりである。 * 「あて宮にも贈り物はするよ。絶対に受け取ってもらいます」 仲忠はのほほんと、だがきっぱりと言う。 彼がそう言うならばそうなのだ。仲忠は他の青年と違い、その点にぬかりはないだろう。 話題を変える。 「吹上では楽しかったですか? 文では美しい宮の話が面白かったですよ」 「うん。涼さんという方と友達になったんだ」 「あるじの君ですね」 仲忠はうなづいた。 「僕とは違って、よく焼けた、逞しいひとだったな。渚の院が一番良く似合うひとだったよ」 「母はちょっとそういう方は」 彼女は想像して苦笑する。 息子の友達となった青年は、どうやら都の美的基準とはやや異なる姿の様である。 「渚の院も、林の院も、鷹狩も、楽しかったなあ」 「珍しいですね、あなたがそういうのは」 「そうかなあ」 「そうですよ」 そう、実際珍しかった。 仲頼や行正との遊びのことを話したとしても、そんな感想が出たことはない。兄弟の約束をした左大将家の 彼等が多少歳上のせいか、元々遊びの師のせいなのか、何処か一線を引いている様な気もする。 「歳が近いのですか?」 「ええ」 「それは良かった」 「それだけではないんだ。涼さんはね、僕と一緒に砂浜を駆け回るんだよ」 「駆け回る。本当ですか?」 「本当だよ。涼さんは何かというと吹上の浜をぶらぶら歩くのが好きなんだって。時には漁人と一緒に舟を曳いたりするんだって」 それは珍しい、と彼女は思う。 「本当に楽しかった。また会いたいなあ」 そう、本当に珍しい、と彼女は思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017.11.27 12:40:50
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