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2007年06月30日
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カテゴリ:シリーズ幕末史

元治元年(1964年)8月5日。
イギリス軍艦9隻、フランス軍艦3隻、オランダ軍艦4隻、アメリカ艦1隻
合計17隻からなる四カ国連合艦隊は、下関で一斉に砲撃を開始し、
長州側も前田村の砲台から応戦。
下関戦争・馬関戦争とも呼ばれている、攘夷戦が始まりました。

この頃、井上聞多は、
長州が惨敗することは、良く分かっていながらも、徹底抗戦を主張し続けていました。
未だに過激な攘夷主義を変えようとしない長州の体質を覆すためには、
徹底的に叩きのめされた方が良い。そう考えていたのです。

一方、長州藩首脳は、いつも優柔不断です。
不利な戦況が伝えられてくると、すぐに、
講和を進めてはどうかと家老が言い出します。
聞多は、激した挙句、切腹しようとまでして、
あやうく、高杉晋作に止められる一幕もありました。
彼は、抗戦論も本気でありました。

しかし、そうは言っても、
下関の戦況は、日々、劣勢を深めていきました。
奇兵隊も奮戦はしたものの、全く歯が立たず、
ついに、すべての砲台と沿岸地域を、連合軍の陸戦隊に占拠されてしまいます。

ここに至っては、降伏やむなし。
藩首脳は、そう判断しました。

聞多と晋作を呼び、講和の手筈を進めるように指示します。
しかし、晋作が藩命には忠実なのに対して、聞多は藩主の言うことでも簡単には聞きません。
なお、講和に反対しました。
長州首脳たちの言う開国は、どこまで信念を持っているのか、
疑問に思っていたからです。
世子・毛利元徳から「以後、攘夷は捨て、開国を藩論とする。」
約束を取り付けて、やっと講和に向けて働くことを了解しました。

講和のための使節。
その正使には、高杉晋作が選ばれました。
筆頭家老・宍戸家の養子という名目です。
宍戸刑馬と名乗ります。
副使には、渡辺・杉という2人の家老。
通訳には伊藤俊輔が指名されました。

第一回目の交渉は8月9日。
旗艦・ユーリアラス号の船上です。
相対するは、イギリス艦司令長官のクーパー。

晋作は「我こそは、長州藩家老宍戸刑馬である。」と名乗り、
鎧・直垂に陣羽織、立て烏帽子という物々しい装束で現れました。
長州側が「講和書」を手渡します。

クーパーは、これを見て
「降伏するとは書いていない、これでは全く問題にならない。」
とはねつけます。
しかし、晋作はこれでいいのだ、と反論します。
「外国船の下関の通航は、以後差し支えないと書いている
これが、講和の意味である。降伏ではない、長州藩は敗けてはいないのだ。」

なにを言うか、これだけ砲台を占拠している、というクーパーに、
「貴軍の陸戦隊は、せいぜい3000人であろう、
当方は、防長2州で20万は動員できる、本気で内陸戦をすれば、
貴軍が負けるのである、であるから、今回は講和を申し入れに来たのだ。」
これを通訳から聞いた、クーパーは声を上げて笑ったといいます。

イギリス側通訳のアーネスト・サトウは、
こうした、晋作の傲然とした態度・様子について、
好意を含めた表現で「まるで、魔王のようだった。」
と書き残しています。

第二回目の交渉は翌々日。
しかし、この日。
晋作こと宍戸刑馬と通訳の伊藤俊輔は、交渉の場に現れませんでした。
「宍戸は何故来ない」と怒るクーパー。
実際の所は、2人とも行方不明になっていた為でした。

長州藩内の事情によるもの。
藩内の過激攘夷論者が、講和をすると聞いて憤激し、
「洋夷に対して降伏するとは、売国行為である。高杉と伊藤を斬る。」
と叫び、山口の藩上層部に詰め寄ってきたのです。
そのため、高杉と伊藤は姿をくらましました。
攘夷家にとりかこまれた、藩首脳たちも動揺し、
「これは、高杉と伊藤が勝手にやったことである。」
と言い逃れを始めます。
これを聞いた井上聞多は下関から駆けつけ、
藩の腰の弱さをなじり、高杉と伊藤を保護するよう約束を取り付けました。

しかし、8月13日。
幕府から長州征伐の部署と予定が発表されました。
このことにより、風向きが変わります。
対幕戦を目前にした今、外国との戦いは早く決着したい、
そうした、空気が長州に広まり、四カ国との講和を是認するという、
藩内世論に変わっていきました。

それと、第二回目の交渉では、何一つ話が進まず、
宍戸が来ないのであれば、藩主を出せと要求されました。
藩主を出すわけにはいかない藩首脳も、
是が非でも高杉に出てもらいたいと高杉の居場所を探し
やっと、2人を探し出しました。

そして、第三回目の交渉です。
またも、前回と同じ異装で"宍戸刑馬"が出席しました。
この講和の大きな議題は2点。
賠償問題と彦島割譲問題です。

賠償金について、四カ国側は300万ドルを要求。
36万石の長州藩が50年かかっても払えない巨額です。

「この攘夷戦は、わが藩の意志で行ったものではない、
幕府と朝廷の命令によって行ったものである。
その賠償金は幕府が支払うべきものである。」
と晋作は主張。
幕府と朝廷から出ている"攘夷命令書"を見せます。
「わかった。賠償金のことは幕府に交渉する。」
とクーパーは了承します。

もう一つの彦島割譲問題。
彦島は下関に浮かぶ小島。
この島を、戦いの抵当として四カ国共有の租借地にしたいという要求です。

西洋諸国に蹂躙されている上海を、実見したことのある晋作は、
その要求の本質を直感しました。
1島たりとも、譲るわけにはいかない。そう考えました。

ここで、晋作は、
「そもそも、日本国なるは・・・」と気が違ったように
わけのわからないことを話し始めます。
「高天が原よりはじまる。はじめクニノトコタチノミコトましまし、
つづいてイザナギ・イザナミなる二柱の神現れまして、天浮橋に立たせ給い
天沼矛をもって海をさぐられ、その矛の先からしたたる、しずくが島となった
まず出来たのが淡路国のおのころ島である。・・・・」
古事記・日本書紀の講釈を、延々と始めたのです。

通訳の伊藤もアーネスト・サトウもどう通訳してよいのか解らず、
まわりの、皆はあっけにとられるばかり。
話は、アマテラスオオミカミの代になり、
天孫ニニギノミコトへ神勅を下して・・・ と
留まるところを知りません。
ついに、クーパーも音をあげ、租借のことは撤回すると取り下げました。

この時の事を振り返って、後に伊藤博文は、
「あの時、もし高杉が、これをうやむやにしていなければ、
彦島は香港になり、下関は九竜島になっていたであろう。」
と言い、晋作の機転に感謝したといいます。

こうして、四カ国と長州の間で調印が行われ、講和が成立しました。

今回の事で、逆にイギリス側は、長州に好感を持ちました。
幕府との折衝では、いつも、その態度の煮え切らなさや、
約束を守らない嘘つき外交に、業を煮やしていましたが、
長州は違うと感じました。
その態度は明快で、言った内容は信用できる。
そう感じたのです。

薩英戦争の時の薩摩もそうでしたが、
長州も、これ以降、英国と協力関係を深めていくことになっていきます。





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最終更新日  2007年06月30日 11時54分16秒
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