カテゴリ:シリーズ京歩き
畳が一面に敷きつめられた部屋。 床の間には、掛け軸や花器などが飾られ、 部屋は、障子やふすまにより仕切られている・・・。 日本では一般的な、和室の部屋でありますが、 こうした居住空間が生まれてきたのは室町時代の頃のこと。 この住宅様式は、出現してきた当初、書院造りと呼ばれ、 そうした部屋の中から、茶の湯や生け花など、様々な日本の伝統文化が生まれてきました。 銀閣寺というお寺は、こうした書院造りの原初の姿を、 そのままに、今に伝えている寺院でもあります。 京都を代表する観光地として、あまりにも有名な銀閣寺。 その正式名称は「慈照寺」といい、平成7年には世界遺産にも登録されています。 銀閣寺を代表する建物が、国宝の銀閣。 金閣・銀閣と並び称されることが多い、この銀閣ですが、 金閣の方は、金箔が一面に貼られていて、絢爛豪華な印象であるのに対し、 こちら銀閣は、しっとりとした渋めの建物になっています。 この銀閣にも、元々は、銀箔が貼られていたのかというと、そういうわけでもなくて、 創建の当初は、一面に黒漆が塗られていたのだそうです。 この銀閣の正式名称は「観音殿」。 二層のうちの、一階部分は「心空殿」、二階の部分は「潮音閣」と、 それぞれの層にも、名前がつけられています。 一階は書院造り風の住居、 二階は観音像が安置されている仏殿になっているのだそうです。 銀閣の前庭には、ちょっと不思議な砂の造形が広がります。 帯状の砂紋になっているのが銀沙灘、 その後方にある、円錐を切り取ったような形の盛り砂は、向月台といいます。 これらは、江戸時代に銀閣寺が改修された時に作られたということなのですが、 その作られた経緯や目的などについては、良くわかっていないのだそうです。 銀閣寺の庭園もまた素晴らしいです。 錦鏡池という池ごしに、銀閣を望みながら、 池の周囲の遊歩道を進んでいきます。 木々や花々に目をやりながら、さらに小高い丘を登っていくと、 そこにも、もう一つの庭があります。 山麓にあるこちらの庭園は、昭和になって発掘・再現されたものなのだそうで、 室町の頃の面影を残している庭であると言われています。 これらの庭園は、国の特別名勝に指定されています。 ところで、銀閣寺というのは、 元々、室町の8代将軍・足利義政の築いた山荘・東山殿があったところ。 義政は、祖父である義満が築いた北山殿(金閣)への思い入れが強く、 また、彼自身、政治から離れて隠棲することを望んでいて、 そのための、山荘をぜひ造営したいと考えていました。 しかし、義政には、嗣子となる男子がいなかったため、 後継者を弟の義視に定め、退位する準備を進めていきます。 そして、その一方で、庭園や山荘などの設計についても、 自らの手により取り掛かろうとしていました。 ところが、そうした折、妻の日野富子に男の子(義尚)が生まれます。 そこから、こじれ始めたのが義政の後継者問題。 結局、この後継者争いは、山名宗全と細川勝元の間の戦いへと発展し、 ここから10年にも及ぶ長い戦乱が続いていくことになります。 これが、世にいう「応仁の乱」。 この戦いにより、政治は大きく混乱し、京都の町は焦土と化しました。 義政の念願であった山荘造営の計画も、あえなく頓挫します。 しかし、それでも義政は、山荘造営に対する夢をあきらめていませんでした。 応仁の乱が鎮静化し始めると、義政は実子・義尚に将軍職を譲り、 ついに念願だった退位を果たし、再び、山荘造営にとりかかっていきます。 こうして、8年の歳月をかけ、完成したのが東山殿なのでありました。 池をめぐる庭園と、12を数える亭舎が山上や庭園内にかけて配置されていたという東山殿。 この東山殿には、文化人や公家・禅僧などが集い、 いわば、義政の芸術サロンのようなものになっていきました。 そして、こうした中から、和室の文化や、日本の伝統文化が生まれてくることになるのです。 銀閣寺の堂宇のひとつ、国宝・東求堂です。 義政の築いた東山殿。 その当時の建物のうちで、 今に残っているのが、銀閣(観音殿)とこの東求堂。 もともと、この東求堂というのは、義政の持仏堂であり、また、 彼の書斎でもあった建物でありました。 通常は、非公開なのでありますが、訪れたこの日は、たまたま特別公開の日にあたっていて、 その内部を拝観することができました。 東求堂の中の一室、「同仁斎」と名付けられている部屋です。 義政が書斎として使っていた部屋であり、 また、ここに様々な人が集まることにより、 義政の芸術サロンともなっていたとされている部屋であります。 この「同仁斎」が、現存する最古の書院造りの部屋。 今で言う、床の間にあたるものの原初の形が、そのまま残されていて、 義政は、ここに美術品・工芸品の数々を飾っていたのだといいます。 床板のように見えているのが、実は、これが備え付けの文机。 「附書院」と呼ばれているもので、このあたりも原初の床の間という感じがします。 この部屋の広さは四畳半。 これが四畳半間取りの発祥であるとされていて、 この半畳のたたみというのが、ここに、炉を置き、茶をたてるためのスぺ―スとして、 義政が工夫したものなのでありました。 この部屋を訪れた客人に対して、義政が、茶をたて、花を賞で、香をたてたことが、 茶道・華道・香道の源流になっていったとされているのであります。 和室の部屋の原初の姿をとどめ、和文化発祥の場所でもあった、この東求堂・同仁斎。 これこそ、義政の研ぎ澄まされた美意識から生み出されたものであり、 わび・さびといった日本文化が発展していく元になったものなのでありました。 義政という人。 政治家としては、戦乱と混乱の時代をもたらし、 そうした面では、全くの失格者と言わざるをえない人だったわけですが、 しかし、その反面、美の求道者、具現者としては、卓越した感性を持った人でありました。 今日の日本文化という意味でいえば、大きな影響を後世に残したと人と いうことが言えるのだと思います。 和文化の源流の姿を、今にとどめる、この銀閣寺。 とても貴重な文化遺産であると思いますが、 しかし、また、そこからは、文化と世俗社会という両面において、 その光と影が、垣間見えてくるようにも思えます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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