説明しない授業
何度も言っていますが、私の科学実験教室では、実験結果の説明は、基本的にしません。特に、小さい子どもたちへの場合、そう心がけています。 不親切だという意見もあります。ひとつ、二つの実験結果から、完璧な答えを解説された場合、自分で「はてな?」を作りだす、本当に必要なマインドを殺してしまう心配があります。いや、必ず殺してしまうと思うです。 そもそも、小学校段階で、ちょっと科学的な知識を教えられたからと言って、その知識が本来もっている広くて深い概念を理解することは、マレです。ただ、表面的な「コトバ」を覚えて、それで、「わかった」という気になるだけです。そうすると、その後、続けて追及しようとしなくなります。 では、何もしないのか、と言えばそうではありません。一つの実験からは、必ず、複数の「はてな?」が生まれるのです。その疑問の解明に進んでいくのです。 もちろん、それも原則として、実験で決着をつけます。 当然、私たちでは実験不可能なこともあります。その場合は、本を読んだりして、世界の科学者は、どんなことを言っているのかを調べるのも、実験とほぼ、同様の効果があります。 要は、自分で発見していくのか、上から教えられるのか、という違いです。たとえ、先生の話で、本当に納得し感動したとしても、それは、先生の話のうまさよりも、まず、第一に、世界に問いかける、子どもたちの問題意識があればこそなのです。 人が活き活きとするのは、「発見をしたとき」です。自分で発見するんじゃなければ、アタマに入らないのです。とすれば、私たち大人のできることは、子どもたちが自主的に発見できる素材を、いっぱい効果的に用意してやることだけです。 そうすると、子どもたちは、教師が予想した以上の豊かな世界をアタマの中に、勝手に展開していきます。これは、アタマのカチンコチンな中年のおっさんの教えられるところではありません。 もちろん、受験指導の時は、違いますよ。でも、原理は同じなのです。子どもを言われた通りにやる、ロボットにしてしまう罪悪だけは犯さないように心がけています。だから、生徒が、自分で勉強法の研究をすることを、側面から支えることが家庭教師の本来の職務だと考えています。勉強方法を自分なりに工夫する体験をもつことは、これからの長い人生で、最も大きなパワーを発揮すると確信しているからです。