超能力開発と修験道
今スピリチュアル分野でのアチューメントの伝授などは 比較的軽い形でおこなわれています。それで被害にあったという人もたまに聞きますが それでもそれは本人達の自由意志で受ける人は自分の意思で受けます。世の中にはたくさんのスピ系のアチューメントや 何かのエネルギー操作の伝授がお金を通しておこなわれていますが それは基本的には自由意志でおこなわれます。それでも その伝授を受けるということは そのエネルギーの支配下に入ることによって元気になるということを意味しますので エネルギーに敏感になってくるとあれでもこれでもと首をつっこむことの怖さを知ることになります。その点自然は そこにただあるだけなので その人を支配しようなどとはせずにただただ 宇宙からの気を流してくれています。その自然の中の気の一番いいところに 神社を人間がつくり 神にまつりあげた存在たちの力を得ようとご利益信仰に走ったところに問題が生じます。本来は宇宙と直結している山に 人間の想いが重い地場をつくりあげてしまうのです。熊野二日目の朝に 突然に玉置神社に行く事になったのも 重くなっている地場があるとすれば それを解除する必要性があることを話しに行くためでした。玉置神社に行かなければ というメッセージが心の中に来た時は 何のために行くのかわかりませんでした。けれどもあの熊野の大日山で修験道にとらわれている亡霊たちのエネルギーと対峙しながら 山を登っている時に 玉置神社になぜ行かなければいけないのかがはっきりとわかりました。この玉置神社ですが熊野本宮の奥の院と呼ばれている神社です。熊野本宮大社を熊野川上流に入った所にあります。スビリチュアルな事,霊的な事に関わっておられる人たちから重要視されている神社のようです。 昨年私に是非 玉置神社にお出向き下さいと連絡してこられたある女性は今年は和合の年であり その為に世界的な規模で祈りが行われるということ またその祈りをおこなう人々がその行事の皮切りに玉置神社に入られることを伝えて来られました。 またある人はずっと前から長年彼の先達と大峰山で修行し玉置神社にもうでていたところその先達の額には角のような物が生えていたのがやがて自分の額にもその突出物が感じられるようになってきたので 大峰山での修行を辞めたという話を聞いていました。この神社は大峰山系の中にある霊場で 古くから修験道の行者たちが深山に入り込み修行する拠点となっていたようです。今のスピリチュアル系の伝授と違って まさに命がけで厳しい行にあけくれる人々の念はそうとう重いものがあるのが予想されました。私がこういった行者たちの念に 初めて気付いたのは 天河神社にいく道中の山の中です。このあたり一体も凄い念がこもっていて いったい何人の行者達がここで 超能力を得ようとして得られずに 無念な中でその生を終えたのであろうかと考えたことがあります。 今回私達が 天河を通る道を避けたのは そういった理由からでした。空海さまのエネルギーが今も流れている高野山の方が まだ安らかな道だと判断したからでした。昔々さまのランドクルーザーが熊野からの近道の山を走りぬけます。山に近づくにつれて 足の痛みと額の痛みが襲ってきます。足にエネルギーが絡まるのは 重い地場に行くときの特徴ですが この額にものすごく圧迫するエネルギーがくるのは この超能力思考である行者のエネルギーの特徴なのでしょう。もう一つの特徴は ハートが閉じていることです。さて 玉置神社につき 私達が目指すのは 上の方にある玉石社のほうだということがわかりました。途中に 大きな岩がありました。 白山菊理姫命と書いてあったように記憶しています。この辺りの地場は山の気が流れていて とても心地よいものがありました。そして 鳥居がいくつも立っている階段を登っていく段になると強烈な結界があります。まずこの辺りで 私の場合は危険人物と判断されたようです。そして この左の祠を通りすぎた時に 強烈に心臓をボクシングのパンチをあびせたような一撃が来ました。帰るときも この前では 首の後ろに枷のようなものが 飛んできました。今まで色々なところを回りましたが これほど厳しい攻撃を受けた所は初めてです。確かにこの神社の前に 熊野の月見ヵ丘神社によっていますから そのエネルギーとあわないということがあるのかもしれません。しかしもっと大きな理由は 私はこの地に来た目的が 自分が信じているアセンションの到来に向けて 宇宙の中心域の愛の波動に 繋がることを呼びかけに来たからでした。愛という言葉は 厳しい修行をする者達にとっては 必要の無いものです。愛という言葉を山道で言う度に 衝撃波が私の身体を襲うのです。ほんとうに厳しい状況でした。このような鳥居がいくつもいくつも急な斜面に立っていて それが皆 壁となって行く手を阻んでいるのですから ほんとうに厳しい状況でした。バシ、バシ 攻撃の波がきます。「ハートを開いて 宇宙から降りてきている光に繋がってください。」 バシッ!「今の時代は皆が宇宙に帰還する時代になっています。」 バシッ!「今までの部族間、民族間、種族間の争いから 一段上った所で和合することが大切です。」 バシッ!エネルギー的攻撃の前にもう一歩も上に上れなくなりました。お薬の「救心」が欲しいなあと思いました。ついにどうしようも無くなって 最後の切り札を使うことにしました。「私は孝極天皇です。 私が生きていた頃は皆様は 天皇や皇族のために国家安泰の加持祈祷を行いその超能力で この日本を救おうとしてくださいました。その想いと努力に心からの感謝を表します。ですが 今は寺社は天皇家と結びついて統治をする時代ではなく それぞれが宇宙の中心に向かって 帰っていく時代に来ています。もう 貴方たちを縛っているものは存在せず、 ゆえに貴方たちは自由です。それぞれの自由のものとに帰還の途につきたいものは そうしなさい。」しばらくして 結界が開かれた。私の前に道が開けた。 私は歌いました。愛を感じて 夜のしじまに世界を包むハーモニー命の歌よ愛を感じて 今を見つめ夜の闇を抜けて 愛は今そこにいる者達は 半信半疑 息を潜めて私が通りすぎていくのを見つめている感じです。まさにそれぞれの人達の自由意志の中で どうするかが決められているようでした。水戸黄門さまの印籠のようで少し悪いと思いましたが それでも天皇という言葉に反応して 道をあけたものの すぐに光に入るには あまりに長くハートを閉じていたのでしょう。やっと階段を登りきって 玉石社にたどり着きました。そこで 私は天に向かって長い長い祈りをしました。この地が宇宙の愛のエネルギーを下ろし そのエネルギーのまえに人々が無心になって喜びを感じあえるようになるように。この地に人々が超能力を求めて集まるのではなく ただただ 天に生かされていることを感謝し ただただ喜びのもとに宇宙に繋がれますように。私の祈りは まだまだだったようです。いつもは祈りの後には 日の光が差しますが この場は まだ私が思っているようには解放されませんでした。私は私なりにベストを尽くしましたが この場所は また別のご縁ある方たちの訪問が必要なのかもしれません。過去において修験道を極めようとしていたことのある方たちが 自分が関わった部分の滞っているエネルギーを解除してくださると嬉しく思います。今回私は 水の流れを追いかけて その水が通らなくしている滞ったエネルギーを見つめてきました。 その滞りは 歴史の中において人間が出してしまった重い想念であると気付きました。平城京から長岡京そして 平安京の流れを調べることで 今の神社を見つめる目も養われました。天皇と直接に結びついて生存してきた神社仏閣、 天皇の背後にいる時の為政者は力をもって政治を治めようとしました。 その力をとことんまで極めようと命がけで頑張った人たちが 修験道の行者達でした。彼らの勤勉さと想いの強さに畏敬の念を覚えるとともに 彼らが本当のことを知らなかったことを残念に思います。あの時代は 『力』を学んだ時代だったのでしょう。真の強さが宇宙中心の愛からそれぞれのハートにもたらされるものであって ハートを開くということが もっとも大切であることを彼らは知る由もありません。 あえてハートを閉じて ハートの外に超能力を求めたことによって その能力は得られず 厳しい修行が実らなかった。なぜなら ハートが開くともう その力を使って何かを自分の為にしようなどとは考えなくなるからです。その力が扱えないものが その力を持ったときの事を考えると いっそ力は無い方が良いのです。しかし どれだけ沢山の人たちが 依然として その力を現すグッズやツールを身に付けていることでしょう。大嶺山に昔あった超能力思考は 現代にも私達の世界にずっとずっと残ったままになっていると感じながら山を降りました。