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カテゴリ:鎌倉市歴史散歩
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長谷寺からは再び江ノ電に乗り鎌倉駅に戻る そして鎌倉駅西口から歩いて「寿福寺~英勝寺~海蔵寺」と徒歩で巡る。 まずは寿福寺。 「亀谷山 寿福 金剛禅寺」の銘のある石碑の後ろに赤塗りの惣門が。 寿福寺惣門前に立っている源氏山の碑。 寿福寺惣門脇の「実朝をしのぶ碑」(書は故平山郁夫1992) 。 寺の裏には源実朝の墓地と伝えられている五輪塔があるのです。 建久3年、源頼朝の次男として誕生12歳で鎌倉幕府第三代将軍となる。 寿福寺との関係は深く、開山栄西禅師が実朝に献上した喫茶養生記をはじめとする 寿福寺は臨済宗建長寺派の寺。この寺は鎌倉五山の第三位。 この地は、昔、奥州征伐に向かう源頼義が勝利を祈願した云われる源氏山を背にした 源氏家父祖伝来の地である。また源頼朝の父・義朝の居館があった所。 頼朝が落馬が原因で建久10年(1199)に亡くなると妻・北条政子が夫の菩提を弔うため, 正治二年(1200)に明庵栄西を招いて義朝ゆかりの土地に創建した。 墓地には源実朝、北条政子の墓と伝えられる五輪塔がある。本尊は宝冠釈迦如来。 裏山の墓地には明治時代の外部大臣・陸奥宗光や俳人高浜虚子、作家・大佛次郎などの 有名人の墓が。 源頼朝が没した翌年、妻の北条政子が明菴栄西を開山に招いて建立した鎌倉五山第三位の寺です。 鎌倉幕府三代将軍の源実朝も、再三参詣しました。 栄西は日本に初めて臨済宗を伝えた禅僧で、『喫茶養生記』を著すなど、お茶を飲む習慣を日本 に伝えたことでも知られています。 裏山の「やぐら」(中世の横穴墳墓)には、源実朝、母・政子の墓といわれる五輪塔があります。 墓地には俳人・高浜虚子や作家・大佛次郎などが眠っています。 ● 宗 派:臨済宗建長寺派 ● 山号寺号:亀谷山壽福金剛禅寺 ● 建 立:正治2年(1200) ● 開 山:明菴栄西」 寿福寺 境内図。 【http://www.kcn-net.org/kokenchiku/jufukuji/jufukuji.html】より 寿福寺惣門から中門を望む。 惣門から中門まで60~70メートルの石畳は両側の杉林に挟まれ、閑静な禅寺の雰囲気。
昭和41年3月22日 指定 亀谷山寿福金剛禅寺(臨済宗建長寺派)は、正治2年(1200)に頼朝夫人政子が、明庵栄西禅師を開 山として建てたもので、鎌倉五山の第三位の寺であります。 この地は、もと源頼朝の父義朝の館があったといわれ、鎌倉入りした源頼朝はここに館を造ろう としましたが、岡崎義実が義朝の菩提を弔うお堂を建てていたのでやめたといわれています。 墓地にあるやぐらには、源実朝、北条政子の墓と伝わる五輪塔が二基あります。 現在伽藍は外門、山門、仏殿、鐘楼、庫裡などですが、外門から山門に至る敷石道は静寂感が漂 い、また仏殿前に四株の柏槙があり、往時のおもかげを残しています。 平成8年3月30日」 突き当たったところにある中門の奥にある仏殿。 中門より内は一般人非公開の模様。 右手に折れ、庫裏に向かう。 庫裏にて鎌倉二十四地蔵尊・延命地蔵の御朱印を戴く。 併せて鎌倉五山の御朱印もお願いしたが、一回に一御朱印のみとのこと。 鐘楼。 かつての寿福寺の梵鐘は、中国から伝来した「いぼなし鐘」と呼ばれたものだったと。 しかし、1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原攻めが起こると、後北条氏 (小田原北条氏)によって取り上げられ、鉄砲の弾に使われてしまったと伝えられていると。 「いぼなし鐘」は、栄西が宋より持ち帰ったものとも伝えられているのだと。 中門の前を左手に曲がり、すぐ右に曲がって仏殿のある敷地に沿って奥にすすむと墓地が。 ここには、"やぐら"といわれる岩を掘った空間に北条政子や源実朝の供養塔があり、 大仏次郎、高浜虚子などの著名人の墓も。
三代将軍 源実朝の墓
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Last updated
2022.05.19 14:43:30
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