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カテゴリ:鎌倉市歴史散歩
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「海蔵寺」を後にして往路と同じ道を引き返し、横須賀線のガード下を潜り 「扇ノ井(鎌倉十井)」に向かう。 その名の由来は、井戸の形が扇の形をしていることからといわれているが、源義経の愛妾、 静御前が舞扇を納めたからとも伝わっている。 現在は民家の敷地内にあるので、公開されていないと。 この辺りの「扇ガ谷」という地名はこの井戸に由来するという説もあるのだと。 民家の奥の崖の補強?部分の下にそれらしき姿があった。 ![]() ズームしてみると、昔の手動井戸ポンプの姿や、石灯籠、石仏の姿が確認出来た。 ![]() NETで調べて見るとやはりこれが「扇ノ井」であるようだ。 鎌倉市扇ガ谷3丁目2。 ![]() 【https://yil.jp/opto/digitalcamera/work/kamakura-well-02-ouginoi/index.shtml】より そして次に訪ねたのが「相馬次郎師常之墓」。 鎌倉市扇ガ谷2丁目9。 ![]() 「相馬次郎師常(もろつね)之墓 「帥常ハ千葉介常胤ガ第二子ニシテ 相馬氏ヲ嗣(つ:継)ギ 巽荒神(たつみこうじん)ノ辺ニ 邸ヲ有セシガ 元久二年(1205)十一月十五日 歳六十七ヲ以テ端座(正座)合掌ノ裡(うち)ニ 決定往生を遂(と)ゲ 其結縁トシテ僧俗ノ人々集リ拝セシトイフ 窟中ノ宝篋印塔 (ほうきょいんとう:墓碑石塔)ハ即チ帥常ノ墓ナリ」 【相馬帥常は、千葉介常胤(ちばのすけつねたね)の次男であり、相馬家を相続し、巽荒神 (たつみこうじん)の辺に住んでいましたが、1205年11月15日に67歳で、正座し合掌したままで 亡くなりました。その姿を拝もうと人々が集ったと言うことです。岩の中の石塔は帥常の墓で あります。】 ![]() 岩の中の「相馬次郎師常帥常の墓」が正面に。 ![]() 木製の扉を南京錠で閉ざされていた。 ![]() 「鎌倉市指定 史跡 相馬師常墓やぐら 平成八年十月十八日指定 このやぐらは、古くから相馬師常(一一三九~一ニ〇五)の墓と伝えられ、地元の人々に厚く 保護されてきました。玄室の平面形は矩形で、羨道を有し、龕(がん)の前に宝篋印塔が立ち、 奥壁左隅の小龕中には一石五輪塔が置かれています。 相馬師常は鎌倉幕府草創期の有力御家人の一人。 千葉常胤の次男で、相馬氏の祖。政治承四年(一一ハ〇)父常胤とともに源頼朝の挙兵に加わり、 文治五年 ( 一一八九)には奥州征伐に随うなど多くの戦功をあげています。 本やぐらは閉塞された大形の龕を持っ特色のある形態であり、保存状態も良好で当初の姿を良く
伝えているとともに、被葬者が知られることが極めて稀な「やぐら」にあって、有力御家人の墓と 伝えられているなど、史料的価値の高いものです。」 ![]() 「相馬次郎師常之墓」の横にはアジサイの花が。 ![]() その奥には別の「やぐら」が。 ![]() 横須賀線に沿った住宅街の道を進む。 ![]() 鎌倉八幡宮で令和三年六月三十日に行われる「大祓」のポスター。 ![]() 「浄光明寺」に向かって進む。 ![]() 鎌倉市扇ガ谷2丁目13−2附近の住宅街を進む。 ![]() そして左手にあったのが「浄光明寺」入口。 ![]() 寺号標石「真言宗泉涌寺派 泉谷山 浄光明寺」。 ![]() その後方に「藤谷黄門遺蹟」碑。 「冷泉為相卿ハ為家ノ子ナリ 従二位中納言トナル 和歌所ノ事ニ由リ 兄為氏ト争論ノ末 ソノ母阿仏尼ト共ニ鎌倉ニ来タリ幕府ニ訴フ 遂(つい)ニ藤谷ニ寓(ぐう:住居)シ 藤谷殿ト 称セラル 藤谷百首 ト呼ビ世ニ伝承セラルル和歌ハ 此地ニテ詠出セラレシ者ナリ 網引地蔵ハ其ノ建立ニ係ルト云ウ 卿ノ墓ハ其ノ後山ノ頂ニ在リ 五輪塔ニシテ 月巌寺殿 玄国昌久ノ八字を刻セント謂ウモ 今ハ漫滅(摩滅)シテ字体ヲ弁ゼズ」 【冷泉為相(れいぜいためすけ)は、為家(ためいえ)の子供です。播磨(はりま:兵庫県)の土地の 所有の事で、兄の為氏(ためうじ)と紛争がおきました。そのため、母の阿仏尼(あぶつに)と共に 鎌倉に来て、幕府に訴えました。そして、藤谷(ふじがやつ)に住んだので、 藤谷殿と 言われました。 藤谷百首(ふじがやつひゃくしゅ)と言う和歌集は、この場所で詠まれたものです。 網引(あみひき)地蔵を建てるのに、関係しているようです。またその墓は、この後の山の頂にあり、 五輪の塔で、月巌寺殿玄国昌久の八文字が刻まれていますが、 現在は、磨り減ってよく 読めません。】 ![]() 「冷泉為相 舊跡」碑。 ![]() 「浄光明寺(じょうこうみょうじ) 鎌倉幕府六代執権・北条長時が、開山に真阿を迎えて建立しました。北条氏の帰依が篤く、 また、鎌倉公方(鎌倉府の長)の保護も受けました。 本尊の阿弥陀三尊像(国重文)は宋(現在の中国)の影響を受けた美しい造形です。 中央の阿弥陀如来像の衣の装飾には、「土紋」といわれる鎌倉地方特有の技法が使われています。 裏山には歌人藤原定家の孫で、歌道の名門冷泉家の始祖為相の墓があります。 母の阿仏尼は、京から鎌倉への紀行文『十六夜日記』の作者です。 ・宗派 真言宗泉涌寺派 ・山号寺号 泉谷山浄光明寺 ・建立 建長3年(1251) ・開山 真阿(真聖国師) ・開基 北条長時」 ![]() 「山門」に向かって進む。 ![]() 右手の塀の白線は5本の筋塀(すじべい)。 元々は、皇族が出家して住職を務めた門跡寺院の土塀の壁面に、その証として5本の定規筋を 引いたのが始まり。皇族や摂家などの御所に用いられた。 皇室に由来する格式を表し、その格式の高さにより三本、四本、五本の種があり、 五本を最高とするのだ と。 ![]() 浄光明寺は鎌倉七口(三方を山に囲まれた鎌倉への陸路の入口を指す名数)のうちの 亀ヶ谷坂(かめがやつさか)と化粧坂(けわいざか)にはさまれた扇ガ谷(おうぎがやつ)の 支谷、泉ヶ谷に位置しているのだ。 「山門」はもと英勝寺の惣門を移築したものであると。 切妻造本瓦葺の山門(四脚門)、英勝寺創建の寛永年間の作と推定されている。 ![]() 「真言宗 泉涌寺派 准別格本山 泉谷山浄光明寺」。 ![]() 頂いたパンフレットから「浄光明寺」の境内配置図を。 鶴岡八幡宮から北西約0.5㎞、仮粧坂の東約0.5㎞、亀ヶ谷坂の南南東約0.3㎞に位置する 「浄光明寺」は、鎌倉の北西を開析する扇ガ谷の一画にあたり、鎌倉の交通上及び防御上の 最も重要な地域に営まれた寺院であり、切通の近辺に重要な寺院を配置する鎌倉幕府の意図が 現れているのだと。 ![]() 台座に「楊貴妃観音」と刻まれた石仏像。 ![]() 世界三大美女のひとり、楊貴妃像。 2003年に寄進されたこの像は鎌倉の隠れた美人祈願・恋愛成就スポットと言われていると。 ![]() 「楊貴妃観音」のお顔をズームで。 左手に持っている花は「蓮の花」ではなさそう。 ![]() こちらも周囲に切目縁を巡らした「本堂」の如き大きな唐様建築の「客殿」。 ![]() 見事な龍の彫刻。 ![]() 客殿左手に建つ「庫裡」は切妻造桟瓦葺で妻入り。 ![]() 「客殿」と「庫裡」の連絡廊下にも入口が。 ここが「庫裡」の入口か。 ![]() 萩の花が咲きだしていた。 ![]() 境内には「タイサンボク(泰山木)」が。 ![]() そして大きな白い花が。 葉は長さ20 cm以上ある広楕円形で、表面は濃緑色で光沢があり、裏面は毛が密生しており 錆色に見える。 ![]() 大きな白い花からは、甘い香りが漂って。 ![]() 「国重要文化財 阿弥陀三尊像ほか(石段上、収蔵庫内)本日、拝観できます」と。 ![]() 「鐘楼」。 昭和六十一年(1986)建立の切妻造本瓦葺の「鐘楼」。 ![]() 「梵鐘」。 ![]() 切目縁を巡らせた宝形造りの「不動堂」。 切目縁は縁板を敷居と直角方向に張った縁。濡れ縁に用いる。 露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の不動堂。.正面は桟唐戸と脇間は引き戸式の舞良戸。 延享二年 (1745)建立(推)で、天明三年(1783)再建と。 ![]() 扁額「不動堂」。 ![]() 正面に苔むした石段があったがここは通行禁止であった。 ![]() 右手にあった石段を上って行った。 途中にあった「虚空蔵菩薩」。 ![]() 近づいて。 ![]() やぐら内には墓石が。 ![]() 多くの墓石がやぐら内に。 ![]() 正面に「収蔵庫」。 200円を払い、国重文の「木造 阿弥陀如来及両脇侍座像」を案内して頂いた。 ![]() 国重文の「木造 阿弥陀如来及両脇侍座像」 ![]() 国重文の「木造 阿弥陀如来」。 ![]() 「矢拾地蔵」 「矢拾地蔵」は、上記の阿弥陀三尊が祀られているなかに、いちばん左のすみに置かれていた。 足利直義が戦いの時、矢が無くなって困っていたときに、一人の僧の子どもが矢を差し出して くれた。帰って、家の地蔵を観てみたら、片手に矢を持っていたと。 この木像の地蔵様は、宋風の特徴が見られ、中世の鎌倉のみで流行した「土紋」と呼ばれる装飾 技術が用いられた仏像としては最古のものと住職?が丁寧に説明してくださいました。 ![]() 【https://livedoor.blogimg.jp/shu10gyu/imgs/b/7/b7de6936.jpg】より 「浄光明寺敷地絵図」(重要文化財) 平成12年に鎌倉市内の旧家で発見されたもので、鎌倉幕府滅亡直後に寺領の確認を新政権に 求めるために作成されたと考えられる絵図で、全盛期の境内の様子がはっきりと描かれています。 敷地の境界部分に太線が引かれて三角形のマークが描かれていますが、これは足利尊氏の 従兄弟である足利重能の花押です。 山門に面した緩やかにカーブした道など、絵図に描かれた鎌倉時代の地形はほぼそのまま 現在まで残されています。 ![]() 【https://www.goshuinbukuro.com/entry/2017/05/26/235057】より 浄光明寺敷地絵図の説明 ![]() ![]() 【https://omairi.info/2019/03/05/jyoukoumyouji-tpl-umekamakura2019/】より ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.05.19 16:00:37
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