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JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.07.24
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カテゴリ:鎌倉市歴史散歩
『​鎌倉散策 目次​』👈リンク

「向福寺」を後にして「小町大路」に出ると直ぐに左側に「五所神社」の入口があった。
鎌倉市材木座2丁目9−1。



「村社 五所神社」碑。



石鳥居を潜り、アジサイの花の峠は越えた長い参道を進む。



比較的新しい狛犬(阿形像)。



比較的新しい狛犬(吽形像)。



その先に古い狛犬(阿形像)。



古い狛犬(吽形像)。



「五所神社 社務所」。



石段を登った右手の奥には、鳥居と社が。



手前には、二対の狛狐が、かなり古い感あり。
その奥に祠が。
右手には石碑があって、「正一位 三光尊石上稲荷大明神」と。
一番右奥には神狐像が鎮座する 三基の石祠が。



祠の左隣には、小さな祠があって、中には石板が安置されていた。



「国指定重要美術品 板碑 弘長二年(1262)銘あり」と。



「市指定有形文化財 建造物 板碑 弘長二年銘 不動種子刻」と書かれた木柱。



そして「社殿」。
合祀時には、諏訪神社本殿を移建。その後大正十二年九月一日の震災時に山崩れで埋没し
全潰したため、昭和六年( 193 1 )七月に新築したもの。



破風には龍の見事な彫刻が。



扁額には「祈願 国家興隆」と。



「五所神社. (材木座の鎮守)
祭神
 天照大御神(あまてらすおおみかみ) 素戔嗚命(すさのおのみこと) 
 大山祇命(おおやまずみのかみ)   建御名方命(たけみなかたみこと) 
 崇徳院命(すとくいんのみたま)
明治ニ十ニ年(一八八八)乱橋村と材木座村が台併して西鎌倉村大字乱橋材木座となった後
明治四一年(一九〇八)七月に、もとの乱橋村の鎖守、”三島神社”(現在の地)の地に材木座の鎮守、
諏訪神社(現材木座五ー十三ー八 上ノ山方)乱橋村能蔵寺部落の八雲神社(現材木座四ー四ーニ六
公会堂内)、金比羅宮(材木座四ー七ーニ 竹内宅裏山「普賢象山」中腹)、材木座村仲島部藩の
見目明神(材木座六ー七ー三五)の四社を台併して五所神社として改名したものである。
もとの五所はいずれも勧譜年月末詳このうち見目明神は補陀洛寺文書に見目天王文とニ貫三百文の
地を北条氏康が同時に寄進しているから古くから同寺の鎖守であったと思われる。
「新編鎌倉誌」には、見目明神とよんだ宝満宮菩薩像があったとみえ「風土記稿」には牛頭天王、
見目明神社合社とある。
三島神社は、乱橋村持「風土記稿」で八雲社を相殿とし、この相殿天王みこし棟札によれば、寛永
十九年(一六四一ニ)修造以後、延宝九年(一六八一)元禄十一年(一六九ハ)元文ニ年(一七三七)
宝暦十三年(一七六三)に修理を加え、万延元年(一八六〇)に再建している。
諏訪社は補陀洛寺であった「風土記稿」明治八年(一八七五)公達に基づいての皇国地誌調査さんに
よると次の通り記載されている。
三島社
 式外村社々地東西四間南北六間三尺面積ニ六坪の東方にアリ大山祇命ヲマツル。
 勧譜年暦詳ナラス
 例祭 四月 十一月ノ酉ノ日ヲ用ウ
見目社
 同社東西九間南北八間四尺八寸面積七九坪村ノ東西間ニアリ祭神及ビ創造勧譜年暦詳ナラス
 例祭 ニ月ニ七日 六月七日両回トス
諏訪社
 同社東西八間一尺ニ寸南北一間六寸面九坪村ノ南方ニアリ祭神建御名方命勧譜年磨詳ナラス
 例祭六月七日 七月ニ七日ノニ回トス
金比羅社
 同社東西十間南北面ち十評村ノ辰ノ方一一アリ祭神金山彦命勧語年暦詳ナラス
 例祭 十月十日
 現在の社殿は昭和六年(一九三一)七月に新築されたものである。
 もとの本殿は明治一六年(一ハ八三)七月諏訪神社の本殿を台併後、移建したものであったが
 大正十ニ年(一九ニ三)九月一日震災のとき山崩れのため社殿埋没全潰した。
 お神輿三◯一号 諏訪神社 ニ号 三合 見目明神の持ち物であった。
 祭礼、潮祭、一月十一日 春季小祭 四月一五日 秋季小祭 十一月ニ四日
 ◯大祭 七月七日から十四日
 現在の祭礼
 汐祭り  一月十一日 材木座海岸にて
 春季小祭 四月一五日 境内
 例大祭  六月第二日曜日 境内 町内お神輿渡御 前日 宵宮祭
 三ツ目神楽 例大祭三日目(火曜日)
 秋季小祭 十一月ニ四日 境内」。



「五所神社例大祭回想」。



「神輿庫」。
昭和四十七年建造。材木座ではお神輿のことをお天王様と呼ばれていたため、別名天王堂と
呼ばれています。神輿庫には合祀時に各神社から集められた三基の神輿が鎮座しています。
向かって右手より一番様(旧諏訪神社江戸末期建造・鎌倉市指定有形民俗文化)、
二番様(旧牛頭天王社弘化四年( 1 8 4 7 )建造)、三番様(旧見目明神社弘化四年( 1 8 4 7 )建造)
となります。



右「諏訪社神輿」。



中央「牛頭天王神輿」。



左「見目明神神輿」。



「五所神社の神輿」。



「山岳信仰」碑の案内。



「諏訪神社」の鞘堂と内陣の「本殿」。



「祭神々此在 仰徳々維馨」碑。



「御岳信仰碑」 への参道の石段を上って行った。



「????」



山肌には様々な御岳信仰碑群が。



「八海山大神 御嶽大神、三笠山大神」碑。



中央に「駒ケ岳大神」碑、右に「馬頭観世音」碑。



そして境内の周囲には多くの庚申塔碑が並んでいた。



右手の庚申塔群を正面から。



石祠。



舟形庚申塔。
上辺に、日月を浅く彫り、中央に合掌の阿弥陀如来像。
下部には三猿が浮彫りにされているが、かなり欠損。
貞享四年(1687)の建立。



板状駒型庚申塔。
上部に月月、中央に六手の青面金剛像。
下辺に三猿が並んでいる。 年代は不明だが、江戸中期前半と思われると。



唐破風付笠頭婆。
宝珠をのせ、四方に唐破風付きの立派な笠がつき、塔身は花頭型に彫り込んでいる。
中央に阿弥陀如来像が、死者を迎える来迎相(らいごうそう)で蓮の台に乗っている。
下部には三猿が厚肉彫でなされているが、「きかざる」が正面に、向かって左には「いわざる」、
そして右には「みざる」がある。
天和四年甲子(1684)仲春廿四日の建立。



板状駒型 奉彫庚申供養塔。
辺に、日月、中央に合掌の青面金剛像。
像のすぐ下に三猿が浮彫りにされている。
享保十五年戌天(1730)十一月吉日の建立。さらに文化二乙丑年(1805)三月吉日
再供養四名の銘もある。



板状文字 庚申供養塔。
文化九年(1812)十一月の建立。



駒形庚申供養塔。
上辺に、日日、中央に「庚申供養塔」。
下部には桃を手にした一猿・言わ猿が浮彫りにされている。
文政二巳卯年(1819)正月吉日の建立。



駒型庚申供養塔。
上辺に、日日、中央に「庚申供養塔」。
下部は一猿(いわざる)が正面を向いて浮彫りにされている。
前(左)のものと同じ文政二年(1819)正月吉日の建立。



駒型庚申供養塔。
上辺に、日月、中央に「庚申供養塔」。
下部には三猿が浮彫りにされている。
文化二年乙丑年(1805)ニ月吉日の建立。



石段を上って右側の庚申塔群。



板状駒型庚申供養塔。
上辺に、日月、中央に合掌六手青面金剛像をつけ下部に比較的おおきな三猿の浮彫りがある。
寛政四子年(1792)の銘がある。



駒形文字庚申供養塔。
享和三亥(1803)の建立。



駒形庚申供養塔。
寛政十ニ庚申年(1801)の建立。



舟型庚申塔。
上辺に日月、中央に「奉造立帝釈天王(玉)」と刻み、中ほどの両端に鶏を配している。
下部には三猿が厚肉彫で。
寛文十二年(1672)の建立。これより以前の年のものは8基しかないので、古いものに属す。
安山岩製、高さ96.5センチメートル。
鶏をつけたものではもっとも古いものだと。
鶏は寛文のころからつけられるようになったとのこと。



摩利支天像。
摩利支天は、サンスクリット語の「マリーチ」からきていて、光線や陽炎、蜃気楼を意味する。
一面だけでなく、二面、三面のものもあり、手に弓矢、刀などを持ち、いのししに乗っている。
ここの像は、三面で、矢をつがえ、いのししにのっている。
「見ることも、とらえることもでず、さらには焼くことも、濡らすこともできない」とされ、
唱えて念ずれば、一切の厄難をまぬがれるといわれた。
このような、ご利益から武士の信仰を集めたと。



石段を上って左側の庚申塔群。



唐破風付笠頭姿庚申塔。
上辺にニ鶏、日日、中央に合掌六手青面金剛像が邪鬼にのった姿で刻まれている。
さらにその両脇には僧形の童子が配されている。
下部には三猿が彫られている。文政三年(1820)の建立。



駒形庚申塔。
上辺に日月、中央に「庚申塔」と刻まれている。
下部には三猿が彫られている。
天保十四卯年(1843)正月吉日の建立。



駒形庚申塔。
上辺に日月、中央に「庚申塔」と刻まれている。
下部には三猿が彫られている。
嘉永四亥年(1851)正月吉日の建立。



駒形庚申塔。
上辺に日月、中央に「猿田彦大神」と刻まれている。
下部には三猿が彫られている。
嘉永五年(1852)の建立。



「馬頭観世音」。



十字架とともに「お春像」。



「お春像
天和四」と彫られていることから、一六八四年の一月から二月(徳川幕府五代将軍綱吉の
初期の時代)に作られた石像と思われるが、彼女が誰で、誰が何のために作り、誰のもので
あったのかその由来はわからない。
両手を後ろ手にきつく縛られ、髪の毛は下ろされて後ろに引かれ、顔をあげさせられている。
正座して、単衣の着物は細い帯で左前に着せられている。ということは処刑前の死装束。
「お春像」は隠れキリシタン殉教の姿と伝えられる。」




                              ・・・​もどる​・・・

                  ・・・​つづく​・・・





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Last updated  2022.05.19 16:02:41
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