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カテゴリ:鎌倉市歴史散歩
『鎌倉散策 目次』👈リンク
【鎌倉の寺社リスト】👈リンク 「宝戒寺」を後にして、寺の横の道を歩き「宝戒寺」の裏に進む。 ![]() 「本堂」の裏にある寺務所・庫裡等の入口ゲートには北条の家紋「三つ鱗」が。 伝説によると北条時政が江の島(現在の神奈川県藤沢市)にある弁財天の祠で、子孫繁栄の祈願を 行った夜のこと、時政の前に、高貴な身なりをした女性が現れます。 すると「あなたの子孫は日本を支配する」などと言い残し、大蛇なって海に消えたそうです。 そして大蛇は3枚の鱗を残していき、これを北条時政が家紋にしたのだと。 江島神社の御神紋も「三つ鱗」・「ミツウロコ」。 ![]() 道なりに進むと前方に橋が。 ![]() 「宝戒寺橋(ほうかいじはし)」。 ![]() 下を流れる川は「滑川(なめりかわ)」。 ![]() この後渡った「東勝寺橋」をズームで。 ![]() 「宝戒寺橋」を渡り更に進むと右手の草むらの中の電柱に「紅葉山(もみじやま)やぐら」の 案内表示があった。 ![]() 草むらの先にあったのが「紅葉山やぐら」。 「紅葉山やぐら」は昭和10年に発見され、五輪塔や納骨、十六井が発掘されていると。 このあたりは北条得宗家の屋敷敷地内あったことなどから、北条一族ゆかりの納骨場であったと。 現在は施錠された柵がつけられていて、中をみることはできない。 鎌倉は平地が少ないため、多くの谷戸にある岩肌をくりぬいた史跡がたくさんありある。 地層が柔らかく彫りやすいのだと。 平成11年(1999年)に崩落したが、その後の県教育委員会の調査でも十六井が確認されている。 この後の復旧で現在のような、山肌を鉄筋コンクリートで覆った、史跡とはとても思われない ような姿に変わっている。最も、この奥にある穴は防空壕になっているが、この「紅葉山やぐら」 の姿は60数年前ならば喜ばれたかも知れない。 ![]() 「史跡 紅葉山やぐら」 史跡「紅葉山やぐら」は、昭和10年(1935)に発見され、五輪塔や納骨、それに "海蔵寺十六井"と 全く同じものが出土しておりますが、その時代考証からも、 北條執権ゆかりの納骨といわれております。 平成11年(1999)の大崩落後の神奈川県 教育委員会の調査でも"十六井"が再確認されています。 鎌倉付近では、山腹の岩(第三紀層の凝灰岩質)をくりぬいて作った穴を「やぐら」と 呼んでおり、 鎌倉時代から室町時代における上層階級の墳墓とされております。 この奥にある穴は、第2次世界大戦時の防空壕の跡ですが、 鎌倉西口駅前公園にある ラングドン・ウォーナー博士(1881-1958、米国)の顕彰碑にもあるとおり、 若かりしころ、 東京美術学校(現在の東京芸術大学)に留学、 岡倉天心に私淑した同博士 (テオドル・ルーズベルト大統領の女婿)は「文化は戦争に優先する」と、 京都・奈良・鎌倉の 三古都を中心に「日本の重要文化財リスト」を作成。 そのおかげで、多くの重要文化財が 戦禍から救われました。 この地域は、鎌倉幕府の実力者・旧跡「北條執権邸」 (歴史的風土特別保存地区)内にあり、 平成13年(2001)のNHK大河ドラマ「北條時宗」 (第8代執権・1251-1284)生誕の地ともいわれ、 文永・弘安の役の二度にわたる蒙古襲来を 撃退。 "神風"とともに、日本の歴史に名跡を残しました。 もののふの 諸行無常の 鐘の声 永久に眠らぬ 紅葉山やぐら 萩村」 ![]() 案内板の前には「ヤブミョウガ」が生い茂っていた。 ![]() 花は可憐であったが、雑草の除去が必要と感じたのであった。 ![]() 引き返し突き当りまで進むと「東勝寺跡」、「北条高時腹切やぐら」の案内表示があった。 ![]() 左に折れると前方に橋が見えて来た。橋の名は「東勝寺橋」。 ![]() その手前左に鎌倉青年團の「石碑」が。 ![]() 「青砥藤綱舊蹟」碑。 「太平記ニ拠(ヨ)レバ 藤綱ハ北条時宗 貞時ノ二代ニ仕ヘテ 引付衆(裁判官)ニ列リシ 人ナルガ 嘗(カッテ)テ夜ニ入リ出仕ノ際 誤ッテ銭十文ヲ滑川ニ堕(落)シ 五十文ノ 続松(松明)ヲ購(買)ヒ 水中ヲ照ラシテ銭ヲ捜シ 竟(遂)ニ之ヲ得タリ 時ニ人々 小利大損哉ト之ヲ嘲(笑)ル 藤綱ハ 十文ハ小ナリト雖(イエドモ) 之ヲ失ヘバ天下ノ 貨ヲ損ゼン 五十文ハ我ニ損ナリト雖(イエドモ) 亦(マタ)人ニ益ス 旨ヲ訓セシトイフ 即チ其ノ物語ハ 此辺ニ於テ 演ゼラレシモノナラント伝ヘラル」 【太平記には、次のような話が書いてあります。「青砥藤綱は、北条時宗(ときむね)、 貞時(さだとき)の時代に、裁判官をしておりました。ある夜のこと、失敗してお金十文 (じゅうもん)を滑川(なめりがわ)に落したので、たいまつを五十文で買って、水の中を 照らさしてお金をさがし、とうとうそのお金をさがしだしました。そのことを人々は、 得たものよりも失ったものの方が大きい、大損だ、と笑いました。しかし藤綱は、 十文は小さいが、これを無くすことは、天下のお金を無くすことである。私は、五十文を 無くしたが、これは人々の為になったのである、と諭(さと)しました。」 この物語は、この辺りであったことと伝えております。】 ![]() 「鎌倉市景観重要建築物等第23号 平成14年4月1日指定 東勝寺橋 Toshojibashi Bridge 東勝寺橋は、鉄筋コンクリートが積極的に導入された震災復興期の大正13年(1924)に建造され たアーチ構造の橋です。太く安定感のあるアーチリング、V字型の谷間との微妙なバランスなど その美しい姿は多くの人に愛され、平成11年(1999)には「かまくら景観百選」に選定されました」 ![]() この石碑には「東勝寺橋」と刻まれていたのであろうか。 ![]() そして「東勝寺橋」を渡る。 ![]() 「滑川」の下流側。 この辺りの「滑川」の河床は岩が剥き出しになっていた。 ![]() 「滑川」の上流側。 ![]() 橋を渡ると右側にあったのが「東勝寺橋ひぐらし公園」。 ![]() 「東勝寺跡」、「北条高時腹切やぐら」まで200mと。 ![]() 更に坂道を上って行った。 ![]() そして左手にあったのが「東勝寺跡」。 ![]() 「東勝寺跡」案内板。 ![]() 「国指定史跡 東勝寺跡(とうしょうじあと) 東勝寺は、13世紀前半に鎌倉幕府第3代執権の北条泰時により、得宗(北条氏嫡流)家の氏寺とし て創建されました。様々な宗派を学ぶ諸宗兼学の寺院であるとともに、周辺の地形と一体となっ た防御のための城郭的な機能を持っていたと考えられています。 元弘3年(1333)、新田義貞らの鎌倉攻めにより、幕府の最高権力者であった北条高時は、東勝寺 で一族郎党とともに自害し、鎌倉幕府は滅亡しました。平成8・9年(1996・1997)に行われた発 掘調査では、幕府滅亡時に焼失したと考えられる建物の跡と、それを覆う10数cmの炭の層が発 見されました。焼失後まもなく、東勝寺は禅宗寺院として再興され、室町時代には関東十刹に列 せられましたが、16世紀後半ごろには途絶えたと考えられています。 注 意 この史跡に対して、みだりに現状変更(掘削、工作物の設置等)や保存に影響を及ぼす行為を行 うことは、文化財保護法により禁止されています。」![]() 「祇園山ハイキングコース」案内板。 スタート地点はここ「高時腹切やぐら入り口」と「八雲神社入り口」の2箇所。 ![]() 「現在地」。 ![]() 「祇園山ハイキングコース」案内表示板。 ![]() しかし、この祇園山ハイキングコースは、令和元年の台風15号・19号の影響により倒木や 地滑りなどで大きな被害を受け、現在も大変危険な状況となっているため、現在も 全面通行禁止となっていた。 ![]() 「腹切やぐら」碑と奥に「東勝寺舊蹟」碑。 ![]() 「東勝寺舊蹟」碑。 「元弘三年(1333)五月 新田義貞 鎌倉ニ乱入スルヤ 高時 小町ノ邸ヲ後ニ 父祖累世ノ 墓所東勝寺ニ篭(コモ)リ 百五十年来殷賑(隆盛)ヲ極メシ府下邸第(宅)肆廛(シテン:商店)ノ 今ヤ一面ニ焔煙ノ漲(ミナギ)ル所トナルヲ望見シツツ 一族門葉八百七十余人ト共ニ自刃ス 其ノ北条執権史終局ノ惨澹(サンタン)タル一駒ハ 実ニ此ノ地ニ於テ演ゼラレタルナリ」 【1333年5月に、新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉に攻め入ると、北条高時(たかとき)は、 小町の屋敷を出て、先祖代々北条家の墓がある東勝寺にこもりました。そして150年間 賑やかに栄えた鎌倉の町の屋敷や商店が、一面に炎と煙に包まれている様子を遠く眺めながら、 一族の者870人以上が共に自殺し果てました。北条の政治権力の歴史が終わりとなる、 この悲惨な場面は実にこの場所で行われたのです。】 ![]() そして帰路に訪ねたのが「鎌倉レデンプトリスチン修道院」。 ![]() 「聖母マリア像」。 ![]() 近くにあった「大神宮」。 ![]() この後、来た道をひたすら下り、「小町大路」まで戻り右折して「金沢街道」に向かって 進む。 道路脇の店頭にあった鬼灯(ホウズキ)。 ![]() そして「金沢街道」の「岐れ道」交差点の手前の路地を右折して進むと再び橋が。 ![]() 同じく「滑川」に架かる「大蔵稲荷橋」。 ![]() 下流側を見る。 ![]() 橋を渡ると正面に「大蔵稲荷」の朱の一の鳥居が現れた。 ![]() 大蔵稲荷の第1鳥居をくぐると、すぐ左に8基の石仏が並んでいた。 庚申塔は6基。多くは駒形文字庚申塔であった。 ![]() 手前の石仏は「了因」、「文政ニ年(1819年)」と刻まれていた。 ![]() 右端の「猿田彦太神」 弘化2年(1845)9月 自然石(平板) 裏 面「弘化二乙巳年九月吉日」 台 石「大蔵町 講中」・10人の名 ![]() 草むらの中を進むと二の鳥居が。 ![]() 更に草むらの中の石段を上って行った。 ![]() そしてようやく前方に三の鳥居そして「大蔵稲荷」社が姿を現した。 ![]() 「大蔵稲荷」の覆屋。 ![]() 「大蔵稲荷」の覆屋内の「本殿」。 ![]() そして来た道を戻り「金沢街道」迄戻り右折して進む。 左手の「金沢街道」の岐れ道にあった「庚申供養塔(右大師道)」。 ![]() そして更に進むとあったのが「関所橋」。 ![]() その先に「關取場跡」碑。 「黨所ヲ里俗せきばト称ス 往時ハ関取場ト称セル由 天文十七年(1548)北条氏 関ヲ此処ニ 設ケ 関銭ヲ取ッテ荏柄天神社頭造営ノ料ニ充テシメタル所トス 其ノ掟書ノ文書 今ニ蔵セラレテ荏柄天神社ニ在リ」 【この場所を土地の人は「セキバ」と呼んでいます。昔は「関取場」と呼んでいたとのことです。 1548年北条氏が関所をここに設け、通行税を取って荏柄天神(えがらてんじん)の修復費に 当てさせた所です。その掟(おきて)書の文書が現在も荏柄天神社に所蔵されています。】 ![]() 横にあった「庚申塔」。 角柱型で、正面に大きく「青面金剛」と刻み、慶応二年(1866)の銘が。 覚園寺の信徒が道標として立てたものだと。 ![]() すぐ横に小学生が書いたと思われる解説が掲示されていた。 「関取場跡石碑について このあたりに戦国時代小田原城にいた北条氏康関所をおき、ここを通る商人やお参りの人から 関銭(交通税)をとり、荏柄天神社の社殿を造る費用などにあてたそうです。 荏柄天神社に伝わる古文書には、そのころの掟書が残っており、「商人の麻・紙・布などの 荷物は十文、あい物(乾物)馬五文背負い荷三文、お参りの人で馬を利用している場合は十文、 単に行き来をしている僧侶や庶民、里民からは関銭をとってはいけないなどと記されています。」 ![]() 更に「金沢街道」を進み「大御堂橋」交差点を右折した。 ![]() 「滑川」に架かる「大御堂橋(おゝみどうばし、おおみどうばし)」。 ![]() 「滑川」には大きな鯉が悠々と泳いでいた。 ![]() 「大御堂橋」を渡ると正面には鎌倉青年會の石碑が立っていた。 「文覺上人屋敷迹」👈リンク 碑。 「文覚俗称ヲ遠藤盛遠ト云ヒ モト院ノ武者所(むしゃどころ:警備所)タリシガ 年十八 想ヲ左衛門尉源渡(みなもとのわたる)ノ妻袈裟御前(けさごぜん)ニ懸ケ 卻(反っ)テ誤ッテ 之ヲ殺シ 愴恨(そうこん:後悔)ノ余リ 僧ト為ル 其ノ練行甚ダ勇猛ニ 邪寒盛暑林叢ニ 露臥シ 飛瀑ニ凝立シ屡々死ニ瀕ス 養和二年(1182)四月 頼朝ノ本願トシテ弁財天ヲ 江ノ島ニ勧請(かんじょう:創設)シ 之ニ参籠スル事三十七箇日 食ヲ断ッテ祈願ヲ凝ラセリト 此ノ地即チ其ノ当時文覚ガ居住ノ旧迹ナリ」 【文覚上人の出家前の名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)といい、以前は院の警備をしていましたが、 18歳の時に、源渡(みなもとのわたる)の妻袈裟御前(けさのごぜん)に想いをよせ、源渡を殺そう として、間違って袈裟御前を殺してしまいました。 これを深く後悔して僧となりました。 その修行の仕方は大変なもので、凍える日も、真夏の暑い日も草原で寝、日々滝に打たれて 何度も死にそうになったといいます。1182年4月、源頼朝の本願として江ノ島に弁財天 (べんざいてん)を建て、 ここで三十七日の間、飲まず食わずで祈りつづけたといわれています。 この場所がその文覚が住んでいた屋敷の跡です。】 ![]() そして碑の向かい、「大御堂橋」近くには「田楽辻子のみち」道標が。 金沢街道の裏道。鎌倉時代から親しまれる小道。 バス道(六浦道)と平行に走るこの路地は、「田楽辻子のみち」と呼ばれているのだ。 ![]() ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.05.19 16:08:51
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