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JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.08.16
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カテゴリ:鎌倉市歴史散歩
『​鎌倉散策 目次​』👈リンク
【​鎌倉の寺社リスト​】👈リンク

そして次に訪ねたのが鎌倉七口の「朝比奈切通し」。
赤実線-----が今回往復したルートである。
​​



「朝比奈切通し」への旧道を進むと左手の一段高い場所にあった「切通庚申塚」。



別の場所から。



裏側から一段高い場所に上がって左から。
阿弥陀如来像、そして奉造立庚申供養、延宝四年(1676)丙辰十一月吉日の文字。
下部に三猿 施主 拾二所村 廾二人 敬白 と。



こちらは青面金剛碑(弘化5年(1848年)銘)。



日月雲台 青面金剛(文字塔)三猿 萬延元年(1860年)庚申十一月吉日
台石:五大明王院 十五人



​馬頭観世音(元治2年(1865年)銘)。



更に進み、道路脇に車を駐め散策開始。
三代執権北条泰時によって開かれたこの道は「塩の道」と呼ばれたと。



清流沿いの砂利道を徒歩で上って行った。



「梶原太刀洗水」は鎌倉五名水であると。
梶原景時が上総介広常を討った後、この湧き水で太刀の血のりを洗い流したという伝説が
残されていると。
朝夷奈切通の岩肌から湧き出る鎌倉五名水の一つ。
広常は、源頼朝の挙兵の際に2万騎の兵を率いてに従った武将。
1183年(寿永2年)、頼朝の命を受けた梶原景時に暗殺された。
景時が広常の屋敷に赴き、酒のもてなしを受け、二人で双六に興じているときに、景時が広常に
襲いかかって首をとったといわれているとのこと。



小さな池の如き場所も。



そして前方に岐路が現れた。



左 「朝夷奈切通」、右 「十二所果樹園」。



「国指定史跡 朝夷奈切通(あさいなきりどおし)」案内板。



「国指定史跡 朝夷奈切通
朝夷奈切通は、いわゆる鎌倉七ロの一つに数えられる切通で、横浜市金沢区六浦へと通じる
古道(現在の県道金沢・鎌倉線の前身)です。鎌倉時代の六浦は、鎌倉の外港として都市鎌倉を
支える重要拠点てした。
「吾妻鏡」には仁治2年(1241)に、幕府執権であた北条泰時の指揮のもと、六浦道の工事が
行われた記事があり、これが造られた時期と考えられています。
その後、朝夷奈切通は何度も改修を受けて現代にいたっています。丘陵部に残る大規模な
切岸(人工的な崖)は切通道の構造を良く示しており、周辺に残るやぐら(鎌倉時代頃の墓所)群・
切岸・平場や納骨堂跡などの遺構と共に、中世都市の周縁部の雰囲気を良好に伝えています。」



右手に「朝比奈の滝(三郎の滝)」と左手に鎌倉青年團の石碑。



「朝比奈の滝(三郎の滝)」
朝夷奈切通を一夜にして切り開いたという伝承が残る大力武勇の猛者「朝比奈三郎義秀」に
因んで名付けられた名であると。
朝比奈義秀は、源頼朝の下で侍所別当を務めた和田義盛の三男。
生母は木曽義仲の妾だった巴御前とも伝えられているが、詳しいことは不明。
二代将軍源頼家の小坪遊覧では、頼家に「泳いでみよ」と命じられ、断るわけにもいかず海に
入り鮫を3匹捕まえてきたのだとか。
父の和田義盛が起こした和田合戦においては、幾人かの敵をたおし微傷すら負わなかったと
いうが、和田義盛が敗れるとどこかに姿を隠したのだという。



角度を変えて。3m程の落差の滝であっただろうか。



「朝夷奈切通」
「鎌倉七口ノ一ニシテ 鎌倉ヨリ六浦ヘ通ズル要衝ニ当リ 大切通 小切通ノ二ツアリ
土俗(民話)ニ朝夷奈三郎義秀 一夜ノ内ニ切抜タルヲ以テ 其名アリト伝ヘラレルモ 
東(吾妻)鑑ニ仁治元年(1240)十一月 鎌倉六浦間道路開鑿(かいさく:切開)ノ議定アリ 
翌二年(1241)四月 経営ノ事始アリテ 執権北条泰時 其所ニ監臨(かんりん:監督)シ 
諸人群集シ 各土石ヲ運ビシコト見ユルニ徴シ  此切通ハ即チ当時ニ於テ開通セシモノト
思料(しりょう:推測)セラル」

【この坂は、鎌倉七口(ななくち)のひとつです。鎌倉より六浦を結ぶ重要な道で、大切通
(おおきりどうし)、小切通(こきりどうし)の二つがあます。土地の人の話では、朝夷奈義秀
(あさひなよしひで)が、一夜の内に切り抜いたので、 その名前が付いたと伝えられています。
吾妻鑑(あずまかがみ)によると、1240年11月に、鎌倉六浦間の道路を切開くことが決まり、
1241年4月に、工事が開始され、執権(将軍の代理職)北条泰時(やすとき)もそこに出かけて
監督しており、 多くの人が集まって、土や石を運ぶのを見たことが書かれています。
従ってこの切通は、その時に開通したものと思われます。】



「朝夷奈切通」前を十ニ所果樹園方面に少し進むと、左側にあったのが「上総介広常屋敷跡」。
1183年、関東の最有力御家人上総介広常は太刀洗水の近くにあったこの屋敷で梶原景時に
討たれたのだと。頼朝に対して下馬の礼をとらなかったからとか、関東独立の志があったなど
その理由は諸説あると。



そして、分岐まで戻ると、この先の「朝夷奈切通」への道は、湧水が流れて路面が
全面的に濡れていた。



大雨が降ると川に変身するのであろう。



濡れた路面に注意しながらゆっくりと上って行った。
この切通しは鎌倉七口の切通しの中でも一番の長さを誇り、切り通しの雰囲気がよく残る古道。
かつての姿をそのままとどめて、まさに800年の歴史を超えた世界の入り口の如し。



切通しの坂の途中にある「石地蔵像」。朝比奈切通には江戸期の石仏や庚申塔、
道路供養塔などが多く見られたのであった。
『新編相模国風土記稿』に「峠坂 村中より大切通に達する坂なり延宝の比浄誉向入と云ふ
道心者坂路を修造し往還の諸人歎苦を免ると云。此僧延宝三年十月十五日死、坂側に立る地蔵に、
此年月を刻せしと【鎌倉誌】にみゆれど、今文字剥落す、」とあるのだと。
この写真の石地蔵像がここで語られている地蔵ではないかと伝えられてていますが
真意は定かではないのだと。



岩に刻まれた仏様・磨崖仏のお姿が。
鎌倉の旧態を残す他の切通し路同様に石切り跡が随所でみられた。
峠坂のピークには地蔵と思われるレリーフが施されていた。
切通し沿いに安置されている石像・石塔などと同様に造道中に亡くなられた方を供養したもの
なのであろうか。



両側の石切場跡は岩壁がむき出しになり、今にも武士が出てきそうな雰囲気が。



近づいて。
最も切り通しらしい場所、岩盤に仏が掘られていて中世の雰囲気が。
これは磨崖仏(まがいぶつ)と言われる仏様。



その先右手に「熊野神社」への参道があった。
右手に「熊野神社」碑。
ここには帰路に訪ねることとした。



更に進むと、左手に土砂崩れ跡が。



更に進むと両側に断崖が現れた。



高さは15m以上あろうか、これぞ「切通し」。こちらが「大切通」と呼ばれる場所であろう。



崖には木々がへばり付き。



そして前方には横浜横須賀道路 の高架橋が姿を現した。



横浜横須賀道路下を通過。



そして横浜市側の入口に到着。
「朝夷奈切通 左熊野神社」碑。



横浜市側の「朝夷奈切通」案内板。
朝夷奈切通の名前は、この道を造ったとされる朝夷奈三郎義秀の名前から取られたものと。
完成した時期ははっきりしていないようだが、あまりに早く完成したので、朝夷奈三郎義秀が、
一夜でこの峠を切り開いたという伝説があるのだと分岐部にあった案内板と同じ内容が再び。



「国史跡 朝夷奈切通(昭和44年6月5日指定)
鎌倉幕府は、仁治元年(1240)六浦津との重要交通路として、路改修を議定、翌年4月から
工事にかかりました。執権北條泰時自らが監督し、自分の乗馬に土石を運ばせて工事を
急がせたといいます。
当時の六浦は、塩の産地であり、安房・上総・下総等の関東地方をはじめ、海外(唐)からの
物資集散の港でした。舟で運ばれた各地の物資は、この切通を越えて鎌倉に入り、六浦港の
政治的・経済的価値は倍増しました。
また、鎌倉防衛上必要な防禦施設として、路の左右に平場や切岸の跡とみられるものが
残されています。
鎌倉市境の南側には、熊野神社がありますが、これは鎌倉の艮(うしとら)(鬼門)の守りと
して祀られたと伝えられています。
鎌倉七口の中、最も高く嶮阻(けんそ)な道です。」



そしてここまでとして、鎌倉側に向かって再び「朝夷奈切通」の路を引き返したのであった。
入口の表示案内。



その先にあった「庚申塔群」。



庚申塔(延宝6年(1678年)銘)。



地蔵立像庚申塔で建立年は不明。



左手に二基の石仏、右のものは腐食が激しく。



そして再び横浜横須賀道路下を通過。



「朝夷奈切通し」を再び通過。こちらが「小切通」と呼ばれる場所であろう。



崖に挟まれた古道を再び。



土砂崩れ現場を再び通過。



再び「熊野神社」分岐まで戻り、ここを左折して「熊野神社」に向かう。
ほとんど、最近人が歩いた跡が感じられなかったのあったが・・・・。



左手に「案内板」が。
「朝比奈鎮守 熊野神社
御祭神 速玉男命、伊邪那岐命、伊邪那美命
御由緒
古傳(古伝)に曰、源頼朝が鎌倉に幕府を開くや朝比奈切通の開墾に際し守護神として
熊野三社大明神を勧請されしと。元禄年中地頭加藤太郎左衛門尉之を再建す。里人の崇敬亦篤く
安永又嘉永年間にも修築を加え明治六年村社に列格、古来安産守護に霊験著しと云う弥」



右手に「熊野神社」碑。



暫く進み、案内碑に従いここを右折。
「カラーコーン」が至る場所にあったが・・・。
そして、季節が進むと「オオスズメバチ」等が飛び交う場所となるのであろうが。



足元の崖崩れ箇所を慎重に進む。



杉の木に覆われた参道を進む。
前方に石鳥居が見えて来た。



ヤブミョウガ(薮茗荷)が一面に白い花を。



前方に石鳥居が見えて来た。



石鳥居・一の鳥居の先に石段。



掲示板には境内での注意事項が書かれていた。



そして石鳥居を潜り、拝殿への石段を上る。



「手水舎」。



二の鳥居とその先に「拝殿」。



「拝殿」。
現在の拝殿は、平成元年御大典を記念して造られたと。
横浜市金沢区朝比奈町578。



「拝殿」横の境内社。



境内社の社殿。



「拝殿」裏の「本殿」への石段。



「石段」上から「拝殿」を振り返る。



「本殿」。
安永年間(1772年〜1780年)と嘉永年間(1848年〜1854年)に修築が行われた。
昭和53年(1978年)には、「本殿」が新築され、現在に至っている。
祭事は、祈年祭が春祭りとして3月第1日曜日に、例祭が9月17日に湯立神楽が奉納され、
新嘗祭が秋祭りとして12月第1日曜日に開催される と。



扁額「熊野神社」。
鎌倉市内の5個所目の「熊野神社」であろうか。



「本殿」脇の「境内社」。



「境内社」の社殿。



歌碑。
「朝日さす 熊野の杜のみやばしら うじこまもりて 鎮座まし満寸」か。
裏面には「拝殿新築記念 責任役員小池幸平 平成三年九月十七日」
拝殿を新築した記念に、作られた歌碑であろう。



石段を下りると、「拝殿」の裏横にあった「石祠」。



そして単独行動、静けさからやや不安になる気分の下、「山奥」の「熊野神社」を独り占めし
楽しんだ後は、濡れた路面に注意しながら車に向かってひたすら引き返したのであった。



長年の水の流れで岩も穿たれて。これぞ「点滴石を穿つ」。



近寄って。
雨垂れのような小さな水滴でも、長い間同じところに落ち続ければ、
ついには堅い石をも溶かす!!



そして、ここもすれ違う人もなく鎌倉七口「朝夷奈切通」、「熊野神社」を完全に
「独り占め」して約1時間の散策を終え車に戻ったのであった。

今日、ブログアップしたこの記事・写真を再読して、自己責任とは言いながら、警告文を
無視して危険な個所を歩いていた事を反省しています。

                              ・・・​もどる​・・・


                  ・・・​つづく​・・・​





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Last updated  2022.05.19 16:13:12
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