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JINさんの陽蜂農遠日記

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2022.10.15
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カテゴリ:国内旅行
グスク内にあった「フスミ屋」。



「氏神 フスミ屋」碑。
グスク内には、この他に祝女殿内(ヌルドウンチ)・根神屋・定神屋(ウチーガミヤー)・など、
城区の拝所があり、大切な信仰の場所となっていたのだと。



こちらは「名幸祠(なこうじ)」と呼ばれる拝所。



「名幸祠」碑。



「名幸祠」に向かって右側に説明が記された石碑があった。



「名幸記傳(きでん)
西紀二 三百年北山は血族同士が権力を争って乱をおこし、欺きて仲昔北山六代の世主
今帰仁城主の系統は亡んで、傍系の怕尼芝が北山に君臨した。
口碑の傳える名幸は滅亡した城主の嫡琉千代松やい、彼はこの騒乱から難を遁れ祭祀眷属を共に
一族なる名護按司に寄託亡命し竊に宗廟の恢復を謀つたが成らず雄志空しく病に斃れた。
宗家を奪つた怕尼芝は時に中山の衰頽に乗じて自ら北山王を僭稱し北方の覇者をもつて
國頭諸間切を威圧するに至つては後難を怖れる名護按司が先君の世子を庇護隠秘するために
◯勉苦肉の計を用いたことは推考に難しくない。
世子の名をいわれのない名幸大屋子の假名で糊塗し亥は彼の遺骸を此◯城川の懸崖幽谷に密葬する
など北山王統の虎の子を預る。
一説では名幸を名護按司の次子となし十五世紀末按司家が國王尚真の勧告に従つて后を首里府に
移した當初の管領◯按司◯とまいす。
古文書に名護は那古につくり名幸は那古の転訛と乃ち名護城の首長那古大屋子とする説もあるが
根拠はない。
二九百◯十三年庚子孟夏  北嘉宇太郎 しるす」



境内の中に入って行くと、奥側に立派な祠。



シーサー・狛犬(右)。



シーサー・狛犬(左)。



祠に近づいて。



「ハスノハギリ(蓮の葉桐)」であっただろうか。



「ノッポ椰子の広場」への「入口広場」。



「A ノッポ椰子の広場」案内板。
この広場は、旧植物園時代から残る背の高いナツメヤツがシンボルになっており、
主にピクニックやレクリエーション、散歩などに利用されています。広場北側には、
全長98mもある大きなつり橋(さくら橋)が架かり、そこからは真下に広がるグスクガー(城川)
周辺の樹幹や名護市大北一帯、本部半島の眺めも楽しめます。また、当広場の東側には
名護城があり、グスクにまつわる場所も数多く存在しています。



次に訪ねた「白い煙と黒い煙の碑」案内板。



車道の脇から見た「白い煙と黒い煙の碑」。



「白い煙と黒い煙の碑
合図の煙―親子の別れ―
汽船のデッキの上からは、彼の乙女が 涙で曇った眼で
ふるさとの山を慕い、父母を恋いてこの白い煙を見つめて
いることだろう。
―白い煙と黒い煙―
こうして若い乙女と老いたる親とが山と海とで
たがいに切ない思慕恩愛の情を交わしているのである
春の日は、静かに夕もやの中にうすれていく
やがて汽船は、本部半島にその影を隠した
つきせぬ名残りを一抹の黒い煙にとどめて
          (稲垣國三郎作「白い煙・黒い煙」から)
この文は、大正七年三月三十一日作、昭和六年ごろの小学校国語教科書に採用されたもの。
稲垣國三郎が名護城を遊歩中、老夫婦が松の青葉をもやして白い煙をあげているの見、
感動したもようが記されている。娘をヤマト旅(本土)に出すのに、那覇まて見送りに
いけない老夫婦の切ない気特がこの碑の前に立つとき、ひしひしと胸を打つ」



石碑が2基並ぶ。
手前の小さい石が黒い煙をイメージした碑、その向こうの大きな石が白い煙の碑であると。



「白い煙と黒い煙」碑。



「白い煙と黒い煙」の碑の下の部分には、稲垣國三郎作「白い煙と黒い煙」の最後の一節が
刻まれていた。
「白い煙と黒い煙の一節
合図の煙!親子の別れ!
汽船のデッキの上からは、その乙女が涙に曇った眼でふる里の山を慕い父母を恋い
この白煙を見つめていることであろう。
白い煙と黒い煙!こうして若い乙女と老いたる親とが、山と海とで、互に切ない思慕、
恩愛の情を交わしているのである。
春の日は静かに夕靄の中にうすれてゆく。
やがて汽船は本部半島にその影を隠した。つきせぬ名残りを一抹の黒煙にとどめて」と。



碑の背面には「白煙発生の地」の文字が大きく刻まれていた。



そして坂を下り終えると正面に見えたのが「ひんぷんガジュマル」。
「ひんぷんガジュマル」は、沖縄県名護市にあるガジュマルの巨木である。
幸地川に架かる「あなだ橋」のたもとにあり、名護大通りに挟まれている。
名称は、樹下に置かれている石碑三府龍脈碑の別名「ヒンプンシー」に由来する。
「ひんぷん」とは、沖縄の伝統的家屋で正門と母屋の間に立つ、目隠しの塀のことである。



「あなだばし」と書かれた橋柱越しに「ひんぷんガジュマル」を見る。



「ひんぷんガジュマル」に向かって歩く。
名護市大東1丁目1。



樹下に置かれている石碑「三府龍脈碑」(さんぷりゅうみゃくひ)の別名
「ヒンプンシー(屏風石)」が「ひんぷんガジュマル」の名前の由来。
「三府龍脈碑」は、首里から名護への遷都、名護における運河建設の要求を背景に、1750年、
琉球王国の宰相・蔡温(さいおん)が名護に建立した石碑(復元)。
琉球王国は国頭府、中頭府、島尻府の三府全体で一体をなす龍のようなもの(三府龍脈)と、
遷都を戒め運河を掘ると龍脈が分断するという内容の碑文になっているのだと。
全て漢字で書かれていたため解読不能であった。
当初の「三府龍脈碑」は沖縄戦で不明となり(幸地川の河床から破片の一部を発見)、
現在の石碑は昭和37年の復元。
碑の立つ場所ももともとはガジュマルの根元ではなかったとのこと。



国の天然記念物に指定される樹齢300年、樹高約19m、幹周りは約10mの巨樹。
樹冠の広がりは最大30mにも及ぶ立派なもの。



上部の方まで鉄骨で養生されていた。
「ヒンプン」には、外から敷地内が見えないようにする役目があると同時に、悪霊や災難が
入り込まないようにするという意味もあり、名護の町に災難が入り込まないよう祈る地元住民の
信仰の対象となっている と。



「この中はガジュマルの根が広がっています!
これより中への立ち入りはご遠慮ください」と。



「ひんぷんガジュマル」の葉。



「あけみおのまち 名護市観光案内図」。



「三府龍脈碑」と「ぴんぷんガジマル」
名護市街地の入口にあたる道のど真ん中に立つ大きなガジマルは、「ぴんぷんガジマル」と
呼ばれる。「びんぶん」とは、屋敷の正門と母屋の間に設けられた屏風状の塀のことで、
中国語(北京語)の「屏風(ぴんぷん)」に由来する。そのガジマルの下に建つ「三府龍脉碑」の
扁平で直立する形状から「ピンプンシー(屏風石)」と呼ばれ、そのすぐ側に生育したガジマル
を「ぴんぷんガジマル」と呼ぶようになった。
「ピンプンシー」こと「三府龍脉碑」は、1750年に琉球王府によて建立されたもの。
1945年の沖縄戦の際に壊されたため、1962年に再建し、現在に至る。1991年、あなだ橋の
改修の際に幸地川の中から元碑の上の部分が見つかり、沖縄県の文化財に指定されて、現在、
名護博物館に展示されている。
琉球王府は、なぜ「三府龍脈碑」を建てたのか?その当時、名護では「琉球の国都を首里から
名護に移そう!」「屋部港と古我知港を運河で結ぼう!」という話で盛リ上がっていた。
そのうわさ話を鎮めるため、当時の国師・蔡温に撰文を依
頼して碑を建てた。蔡温は、「琉球の国土は、一つの山脈の連なりである。天然の風格を現し、
誠に福に満ち溢れた国である。最初に王城を首里に建てたのは神の眼によるものだ。そして、
たとえ小さな丘と言えども切り裂いてしまうと、国土の体系は失なわれる」と説き、国家の
隆盛に深く関わることであると知らしめて、巷の遷都論と運河開削論を鎮めた。
一方で、その遷都論や運河開削論のきっかけを作ったのは、実は蔡温本人であり、その責任を
とり、自ら碑の建立を提案したという話も伝わっている。
ちなみに、あなだ橋の下を流れる幸地川は人工河川である。1592年、三司官となった名護良豊が、
年中、水害を起こし農民を悩ませていた幸地川の流れを一つにまとめ、最短で海に流す
大土木工事で造られた川なのだ。  参考:「名護六百年史』」



「三府(北山、中山、南山)」案内図。
沖縄本島では14世紀に入ると、各地で城(グスク)を構えていた按司を束ねる強力な王が現れ、
14世紀には三つの国にまとまった。
南部の南山(山南)、中部の中山、北部の北山(山北)である。
三山統が鼎立する時代が約100年続いた。いずれも朝鮮と中国に朝貢し交流を深めたが、
中山の佐敷按司が勢力を増し、1405年に中山を、1416年に北山を、1429年に南山を滅ぼして、
初めて琉球を統一したのであった。



名護のひんぷんガジュマル(通称:ひんぷんがじまる) 
国指定天然記念物 平成9年9月2日指定)
「ひんぶん」とは屋敷の正門と母屋との間に設けられた屏風状の塀のことで、外からの目隠しや
悪霊を防ぐものといわれます。乾隆15年(1750年)具志頭親方蔡温は、当時の運河開通論と
王府の名護移遷論議を鎖圧するため三府龍脈碑を建てました.この石碑がひんぶんのように見える
ことから「ヒンプンシー」と名付けられ、その隣に生育するガジュマルもいつしか
「ひんぶんがじまる」と呼ばれるようになりました.
ガジュマル(Ficus microcarpa L. f. )はクワ科の常緑高木で、屋久島以南の亜熱帯から熱帯に
かけて分布し、沖縄では屋敷林、緑陰樹として広く植栽されています。漢名は榕樹で、幹はよく
分岐して枝葉は四方に繁茂し、垂下する気根は地上に降りて幹となり広く美しい樹冠をつくって
いきます。
ひんぷんがじまるは、錐定樹齢280年~ 300年、樹高19m、胸の高さでの幹周囲は10m、樹冠の
広がりは長いところで直径30m、堂々とした容姿は市のシンボル、そして街のひんぷんの役割を
担っています。ひんぷんがじまるの特異な景観は古くから衆目の的になり、写真におさまる周辺の
様子で街の移り変わりを知ることもできます。名護の街の移り変わりを見てきたひんぶん
がじまるは、まさに「市民の木」です。」



「ひんぷんガジュマル」の横の「ガジュマル緑地」にあった「徳田球一記念碑」。
名護市城2丁目321−3。



近づいて。
石碑には徳田の顔のレリーフと「為人民無期待献身」(人民の為に期待すること無く献身する)と
いう碑文が刻まれていた。



「徳田球一記念碑」案内。



「徳田球一記念碑
徳田球一(1894.9.12~1953.10.14)は、名護・沖縄が生んだ偉大な思想家・政治家です。
戦前・戦後の苦難の時代を、高い志をもって社会運動に奔走しました。大衆を心から愛した
情熱の人、日本を変革することに情熱を注いだ人物です。 徳田球一は、1894年この名護の
十字路近くに生まれました。沖縄で中学校を卒業後、鹿児島の第七高等学校に進みましたが、
すぐ沖縄にもどりました。23歳の時上京し、日本大学で学んで弁護士になり、社会運動に参加し、
1922年の日本共産党結成に働きました。1928年、3.15事件で検挙され、終戦までの18年間獄中に
ありました。戦後、日本共産党書記長、衆議院議員となり、『徳球・とっきゅう』の愛称で
国民的支持と人気を得ましたが、1950年マッカーサー指令により追放され、中国に亡命しました。
その60年の生涯は、名護・沖縄・日本の近代史の一面を身をもって表現しています。 
このような徳田球一の比類のない人物と業績を私たち郷里の者が評価し、永く讃えるため、
この碑を建立しました。 
                   1998年10月14日 徳田球一顕彰記念事業期成会」



その隣にあったのが「宮城與徳の碑」。
碑の背後には芭蕉が植えられていた。



「宮城與徳(みやぎ よとく 1903.2.10~1943.8.2)
画家・宮城與徳は1903年2月、名護間切(現名護市)東江に生まれた。16才のとき、
父の呼び寄せで渡米。サンディエゴ官立美術学校などで絵を学ぶ。
移民社会の中で画家としての道を歩みながら、戦争と革命の激動する世界のなかで波乱の人生を
送った。
アメリカで人種差別、移民労働者の悲惨な境遇を目の当たりにし、「働く者の食える社会」への
道を社会運動に求めた。日中問題や東アジアの課題に強い関心を持っていた與徳は日本に帰り、
同志・尾崎秀美らとゾルゲ機関の活動に参加。
故郷沖縄の状況とアメリカ、東アジアのそれが相似の構図にみえ、沖縄の解放につながるとの
思いから軍国主義一色の日本で、持病を抱えての情報・反戦活動を殉教者のごとく実践した。
絵の才能を期待され、愛する甥に「いつかは君たちの時代がくる」と話していた宮城與徳は
逮捕され、1943年8月 40才で獄死。
ここ名護の地に生まれ、心から名護を愛し、日本と世界の歴史に深く関わった人物・宮城與徳を
記憶するため、この碑を建立する。
☆肖像は1927年、與徳24才のときの写真より
☆月光像 1934~41年頃の作品
                     2006年1月25日 
               宮城與徳生誕百年を記念する会」



宮城與徳は1903(明治36)年2月10日、名護間切(現名護市)東江に生まれている。
碑には與徳が24歳の時の肖像と、與徳の代表作「月光像」の複写がはめ込まれていた。
こちらが與徳が24歳の時の肖像。



與徳の代表作「月光像」の写真。



2000年九州・沖縄サミット記念写真



「2000年3月25日小渕首相名護市へ
サミット開催決定をされた小渕首相が、プレスセンター(現市民会館前)の視察に訪れ、
名護市民、子供達の歓迎に手を振って答えた」。



こちらが「ガジュマル緑地」の入口であるようだ。



「ガジュマル緑地」の「ガジュマル」には多くの根がぶら下がる。



「アラマンダ」の花。



近づいて。
「アラマンダ」は丈夫な性質で、温度さえあれば一年中開花するので、熱帯地域では
広く栽培され親しまれている花とのこと。



幸地川の堤防上のフエンスには桜(カンヒザクラ)が。
名護市街地を流れる幸地川は約 3km の小さな都市河川。
川沿いには、オリオンビール工場や名護の シンボルとも言える国指定天然記念物の
「ひんぷんガジュマル」があり、シーズンには、桜を見にくる 人々でにぎわう と。



「あなだ橋」を見る。
幸地川は別称アナダ川とも呼ばれている と。



幸地川の遊歩道にあった人形。



名護市の汚水マンホール蓋。
名護市市制50周年を記念して、下水道マンホール蓋のデザイン公募を行った。
県内外から応募された19作品の中から人気投票を行い、得票数が最も多かったデザインを採用。
採用されたデザインには、「名護市のシンボルとして、桜(カンヒザクラ)とひんぷんガジュマル、
そして名護湾をイメージしているとのこと。



そして「ハイビスカス」。




                              ・・・​もどる​・・・


                  ・・・​つづく​・・・







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Last updated  2022.10.15 07:57:01
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