7425550 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

JINさんの陽蜂農遠日記

JINさんの陽蜂農遠日記

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Profile

jinsan0716

jinsan0716

Keyword Search

▼キーワード検索

Category

Freepage List

Comments

Favorite Blog

岡山駅構内と山陽本… New! 隠居人はせじぃさん

東海道まち歩き (2)… New! オジン0523さん

【100円ショップのピ… Gママさん

バイクのシートが裂… noahnoahnoahさん

エコハウスにようこそ ecologicianさん

Headline News

Archives

Calendar

2022.10.16
XML
カテゴリ:国内旅行
次に訪ねたのが「名護博物館」。しかし休館の文字が。
ネットによると名護市は35年間続く市東江の名護博物館を2020年4月に完全閉館し、
22年秋に新博物館を市大中に開館する とのこと。



前庭には像が。



像を正面から。



「名護親方 程順則聖人像」と。
村屈指の名門「程氏」の一族に生まれ、若い頃から中国語の通訳として類稀なる能力を発揮し、
出世を果たしながら4度に渡る清国(今の中国)留学の経験を経て、琉球のみならず日本全国へも
大きな影響を与えた人物だ。晩年は名護間切の総地頭に任命され、人々から慕われつつその地で
生涯を閉じたことから、「名護親方」や「名護聖人」としても知られている。



「聖論」碑。



現在では名護のゆるキャライメージにもなっており、今なお地元の人に親しまれている人物だ。
生前の偉業はいくつもあるのだが、特に顕著なものとして「六諭衍義(りくゆえんぎ)」の
啓蒙普及がある。六諭衍義とは、中国の皇帝が民衆を教育するために諭した
「人が人として生きるため守らなければならない6つの教え」である。

  • 孝順父母(ふぼにこうじゅんなれ)父母に孝行しなさい
  • 尊敬頂上(ちょうじょうをそんけいせよ)年上の人を敬いなさい
  • 和睦郷里(きょうりはわぼくせよ)村里にうちとけ仲良くしなさい
  • 教育子孫(しそんをきょうくんせよ)子孫によく教えを導きなさい
  • 各案整理(おのおのせいりにやすんぜよ)各々の生業やなすべきことを全うしなさい
  • 毋作非為(ひいをなすなかれ)悪いことはしてはいけない


「程順則聖人像によせて」案内板。



「名護親方程順則(1663年~ 1734年)は那覇久米村に生まれた。
沖縄の名前では「寵文(ちょうぶん)」という。近世の沖縄を代表する政治家であり
その人格と素養によって人々から「名護聖人」と称され深く尊敬された。
彼は、また文学者、教育者として名高く、自らすぐれた漢詩文を作り、1718年
には琉球初めての学校「明倫堂(めいりんどう)」を設立している。
20代のころから中国に渡ること五回、中国から持ち帰った「六諭衍義(りくゆえんぎ)」
には人が人として守らなければならない六の教え(六諭)が分かりやすくまとめられている。
この本は薩摩を経てへて八代将軍吉宗に献上後和訳され江戸時代中期から明治初めまで
庶民教育の教科書として全国に広く普及し用いられた。
程順則は亨保十三年(1728年) 66歳の晩年 名護間切の総地頭(そうじとう)に任じられ
名護親方(なぐうえかた)と呼ばれるようになった。
彼が亡くなったあと、名護番所(今の役所)では、毎年旧暦の元旦に「御字拝み(みじうがん)」
として、「六諭」の書を掲げ、その遣徳を偲んでいる。
この儀式は現代に引き継がれている。」
六諭 孝順父母  父母に孝順なれ    (父母に孝行しなさい)
   尊敬長上  長上を尊敬せよ    (目上の人を尊敬しなさい)
   和睦郷里  郷里は和睦せよ    (郷里にうちとけなさい)
   教訓子孫  子孫を教訓せよ    (子孫を教え導きなさい)
   各安生理  おのおの生理に安ぜよ (おのおの生業を安んじなさい)
   毋作非為  非為をなすなかれ   (悪いことをしてはならない)」


溝原貝塚
名護博物館(名護間切番所跡、旧名護町役場、旧名護市役所)から東江公民付近にかけて
貝塚時代後期の土器や貝などが探集されています。このあたりの土地は過去数百年にわたり
利用されてきたため、貝塚は破壊が進行しています。
時代:沖縄貝塚時代後期~近世(約2300年前~約140年前)」



「沖縄県指定天然記念物 名護番所跡のフクギ群」案内板
「名護番所跡は王府時代から役所として利用されてきた所で、現在は名護博物館となっています。
その敷地を囲むように生育するフクキ群は推定樹約300年、当時の地頭代屋部菊陰が植栽したと
いわれています。樹高は17 ~ 18m、胸高直径は最大で83cmが2株、以下76、67、54、42cmが
各1株です。
県内において、このように巨大なフクギ群は極めて希なことから沖縄県指定天然記念物に指定
されました。
フクギ(Garacinia subelliptica Merrill)はオトギリソウ科の常緑高木で、花は5 ~ 6月に咲き、
果実は球形で8 ~ 9月に黄熟します。フィリピンとハ重山群島に自生し、沖縄島は御嶽や屋敷などに
植栽されています。木の成長は遅いが、防潮樹として優れており、暴風雨から家や集落を守って
きました。樹皮からは黄色の染料がとれ、染物に使われています。
フクギの高く空を突くような樹冠と厚い光沢のある葉は、沖縄の伝統的な景観を特徴づけ、建物と
集落をひきたたせています。
市民ならびに県民の財産として大切に保護していきましょう。」


「昭和33年頃の名護町役場(大正9年建築)」



現在のフクギ。



沖縄県道18号の起点と。
沖縄県名護市東江と字大浦とを結ぶ一般県道。



次に「護佐喜御宮」を訪ねた。
名護市大中2丁目1−17。



石段を上って行った。



「護佐喜御宮」もしくは「護佐喜宮」と書いて「ごさきおみや」、「ごさきのおみや」と読む
この神社。沖縄県北部では有名な初詣スポットだとのこと。
普段は無人の祈願所(拝所)だそうですが、年末年始の初詣シーズンには社務所が
オープンすると。



シーサー・狛犬(右)。



シーサー・狛犬(左)。



ご祭神は「後手神(くさてのかみ)」という神様。
ご利益は
合格祈願
商売繁盛
交通安全
家内安全
安産祈願 などなど。



「護佐喜御宮」碑。



参道の石段の左手にあったのが「アコウ」の樹。



推定樹齢60年で、老樹には至らないが、聖域にふさわしい姿を保っている(名護市の名木)。
形態・特徴:
常緑高木。分岐が多く、樹皮は灰褐色で赤褐色の皮目が著しい。馬尻状の気根を発生するが、
通常支柱根は形成しない。気根は時として他樹に巻き付き成長を阻害する。無花果は幹又は枝に
生じ無柄で球形。沖縄北部以北では落葉樹。南部以南では初秋の頃に落葉する。
が、すぐに萌芽する。



さらに300mほど北西に進み「名護市立名護小学校」前で車を停める。



校門前の小路を上って行った先には大きな石碑が立っていた。



少年護郷隊之碑」。



右隣に碑が2基。



正面から。



「少年護郷隊之碑建立縁起
昭和十九年十月 当時一七、八才だった少年が防衛召集令により召集され護郷隊を編成し
此所名護小学校に誕生した。
猛訓練の末山原各地を転戦し郷土防衛の大任を果たし散華された英霊を慰霊顯彰せんと
搖籃の地に碑を建立するのが最も適地であると元隊員の総意に基いて、発祥の地名護小学校に
建立した。」と。



碑の裏には、村上治夫隊長による護郷隊の隊歌の3番が刻まれていた。
これは、陸軍中野学校の校歌の一番と同じ歌詞とのこと。

「赤き心で断じてなせば 骨も砕けよ肉また散れよ 君に捧げて微笑む男児」
村上治夫隊長は陸軍中野学校出身の陸軍中尉。護郷隊を組織し、3年分の食糧を用意して山に
こもったという。大本営は玉砕しても時間を稼ぐために、「護郷隊」の編成を村上に任せたと
言われている と。 



「少年護郷隊沿革史
太平洋戦争の末期戦況の緊迫に伴い沖縄島が皇土防衛の第一線となるや昭和十九年十月十五日
勅令に基き第三遊撃隊通称護郷隊を編成す。隊員は国頭郡に在住せる十七、十八才の第ニ国民兵を
防衛召集に依り充当し名護国民学校にて遊撃戦遂行に必要なる戦技を附与する如く訓練す。

昭和二十年一月、軍命令に基づき戦闘配備を整えると共に第二、第三次に召集せる隊員の教育を
謝花校羽地校にて実施し戦力を強化せり昭和二十年三月二十三日甲号戦備下令され本部
(屋我地島及各村出身者)を多野岳に第一中隊(名護町恩納村今帰仁村出身者)を名護岳に
第二中隊(羽地今帰仁村出身者)を多野岳に第三中隊(久志村本部町出身者)を国頭支隊に
配属し三〇ニ高地に第四中隊(金武村本部町出身者)を久志岳に配備し至巌なる警戒裏に戦備を
完成す。四
月一日敵は本島に上陸四月七日名護湾に上陸するや第三中隊は乙羽岳及真部山にて
国頭支隊と共に第一戦の戦闘に各隊は夫々戦闘地域に侵入せる敵に対し果敢なる挺身遊撃戦を
展開し軍主力の作戦に呼応せり。四月下旬多野岳等の基地を欠陥せるも屈せず神出鬼没或は
夜間爆薬を抱いて敵陣深く侵入し或は白昼堂々と特殊秘密兵器を以て攻撃し敵の心胆を寒からしめ
以て遊撃戦の本領を遺憾なく発揮せり六月下旬以降南部地区の軍主力玉砕後に於ても真に護郷隊の
特色を発揮し変幻自在なる秘密遊撃戦を遂行中八月十五日終戦の諮勅を受け部隊を解散す。

以下 戦没者氏名が刻まれていた。」



次の目的地の「弘泉寺」に向かって進む。
右手の家の屋根瓦の上には土嚢袋が載せられていた。
台風等の対策なのであろうが、雨漏り対策のブルーシートを敷いた時の押さえ用の土嚢袋が
そのまま、次の台風の為に残されているのではないだろうかと。
強風対策としての瓦の飛散対策であれば、最上部に並べるべきと考えるので。



そして「弘泉寺」に到着。
名護市大西3丁目20−1。



「本堂」の内陣。



「真言宗 醍醐派 北斗山弘泉寺」と刻まれた石碑。



大日如来像であろうか。




左側の建物は?



内陣。



北側には墓地への門が。



大きな墓地が並んでいた。
沖縄の気候、特に雨期に合わせた設計のため、お墓が大きくなったと。
雨期や台風の季節などは激しい雨と風にみまわれるのが沖縄。
頑丈な土台と屋根を作ることで、お墓が倒れたり、痛んだりしないよう考慮して作られて
いったのが沖縄特有の大きなお墓といえる。
そのため、広い敷地に大きな屋根が広がるお墓を設けたといわれているのだ と。



「弘泉寺」への入口路地の前には「名護市葬斎場」があった。



近くにあった「道福寺」も訪ねた。
名護市大西2丁目3−2。



「道福寺」。



普通の民家の如き建物、宗派等は判らなかった。



駐車場脇にあったバナナの木。



バナナが撓(たわわ)に。



そして次に訪ねたのが「名護市役所」。
県道91号線「大南」交差点から「名護市役所」を見る。
名護市港1丁目1−1。



国道58号の山側の道に向かう。



そして「名護市役所」の敷地内に立っていた「平和の塔」を訪ねた。



螺旋構造の塔の上部に「平和の塔」と。



「名護市役所」は1978年、名護市の顔となる市庁舎の建設にあたって大規模なデザインコンペが
行われた。308組ものデザイン案の中からTeam Zoo(象設計集団+アトリエ・モビル)によって
手がけられたのが現在の名護市庁舎。沖縄の建物で多く使われる2色のコンクリートブロックが
印象的なストライプをつくりだし、周りには植物が生い茂っていた。



手入れは行き届いているのであろうが、自然に覆われた古代遺跡を思わせるような雰囲気が
不思議と感じられたのであった。



近くの中庭には「名護市役所ステーション e-シェアモビ カーシェア駐車場」があった。



名護市は2019年3月末から公用車の一部を環境に優しい「カーシェアリング」に転換し、
市役所職員と一般利用者との共用をスタート。

電気自動車(Electric Vehicle EV)の利用による環境負荷の軽減と公用車の管理経費
削減との両立を図るとともに、一人1台という、個人専用車に頼らなくてよい、
カーシェアリングの利用を積極的にPRしているとのこと。
名護市はカーシェアリング事業者へ駐車場4台分を提供し、平日は市の公用車との併用利用。
土日・祝は4台全て一般利用者が24時間利用出来るカーシェアを事業として実施中と。
一般の方がカーシェアリング車両を利用するには、日産自動車・日産レンタカーが提供して
いる「Nissan e-シェアモビ」の会員登録が必要 とネットから。



充電中の乗用車。



名護市民憲章碑
私たち名護市民は
人間を尊び、すべての人にひろい心と豊かな愛情で接します。
自然を愛し、文化財を大切にします。
いたわりあって健康な生活を築きます。
きまりを守り、社会を明かるくします。
伸びゆく力を育て、未来へ前進します。」




                              ・・・​もどる​・・・


                  ・・・​つづく​・・・





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2022.10.28 18:35:21
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.