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JINさんの陽蜂農遠日記

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2022.12.10
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カテゴリ:国内旅行
しばらく、「沖縄本島一周の旅」の最終日のアップを中断し、平塚の散策、イルミネーション等を
アップして来ましたが、今日から「沖縄本島一周の旅」の最終日をアップいたします。

この日・9月29日(木)は今回の「沖縄本島一周の旅」の最終日。
この日も早朝6:30にホテルをチェックアウトして駐車場に向かう。



5日間お世話になった「Times」駐車場。



1日の最大料金は500円の「タイムズ沖縄西町」駐車場。



そしてこの日の最初の目的地「奥武島」にカーナビをセットして駐車場をスタートする。
時間は6:45。



「明治橋」を渡ると「ゆいレール」の2両連結の車両がやって来た。



「ゆいレール」の路線図。
沖縄県那覇市の那覇空港駅と浦添市のてだこ浦西駅を結ぶ沖縄都市モノレールのモノレール路線。
全線が軌道法による軌道として建設されている。愛称は「ゆいレール」で、「ゆい」は琉球方言の
「ゆいまーる」(「雇い回り」を語源とする村落共同労働を意味する言葉)の「ゆい」から
取られたものである。2022年3月現在「沖縄県内で現存している唯一の鉄道路線」である。



前日も通った「壺川駅」をこの朝も逆方向に。



「NHK・OTVデジタルテレビ・NHK-FM那覇 88.1MHz 豊見城高安送信所」。
豊見城市高安。



「県道329号線」の「仲井真」交差点を通過。



「国道507号」から「県道48号線」に左折して南城市方面に向かう。



「レストラン稲穂」が左手に。
いのぶたとあぐーの交配種・いのあぐー豚専門店
南城市大里稲嶺1981。



「いのあぐー豚」。



「そもそも、あぐー豚って何?
一説では、約6 0 0年前に中国から渡来し、その後沖繩で飼い続けられてきた小型の豚のことです。
その肉質は、新降り肉で脂にはみと味があり、一般的な豚肉と比較して、肉質が優れていると
いわれております。
流通しているアグープランドの豚肉は、アグーの雄と西洋豚の雌と交配させたもの、アグー同士を
掛けあわせたものなどがあり、掛け合わせる内容については農場によって異なります。
先述の通り、肉質は優れていますが小型で肉量が少ないことからアグーの肉質を維持しつつ、
肉量の多い豚と掛け合わせるなど
工夫を凝らした生産が求められているんですね。」と。



そして「沖縄本島」と「奥武島(おうじま)」の間に架かる「奥武橋(おうはし)」を渡る。



「奥武島」の航空写真をネットから。
沖縄には数々の奥武島がある。(名護市、久米島、慶良間座間味村など) かつての沖縄では、
人が死ぬと海岸のすぐ沖の小さな島に船で遺体を運んで、洞窟へと安置する葬送の習慣があった。
いずれも、かつて死者を弔った場所であったと云われており崇められている。
洞窟の中が黄色い光に満たされていたことから、この島を「青 (オウ) の島」(黄色のことを
「青」とよぶ場合があったそうだ)とよんでいたとされ、そこから「奥武 (オウ) の島」と
書かれるようになったとされる。



最初に訪ねたのが「奥武島観音堂」。
十七・十八世紀の頃、遭難した中国船が「奥武島」に漂着。これを島民たちが救助をし、
手厚く介抱した。そのお礼として唐から琉球王朝を介して、「奥武島」の人々に黄金の
観音像1体と仏具一式が贈られた。これを安置したのが奥武島の観音堂。
以降、代々島民の深い信仰を集めていたが、戦争で建物も観音像も失われてしまったため、
戦後再建され現在は陶製の観音像が大切に安置されている と。
南城市玉城奥武108。



「奥武島拝所案内図」。



「奥武島」には20ヶ所以上の拝所があると。



奥武観音堂(おうかんのんどう)」が正面に。



「奥武観音堂(おうかんのんどう)」。



「奥武観音堂の由来」案内板。



「奥武観音堂の由来
十七・十八世紀の頃、一艘の唐船が嵐に遭い奥武島に漂着した。乗組員達は、見知らぬこの島に
上陸をためらっていたところ、島の山の上に白衣の美女が現れて、「案ずることはない。」と
言わんばかりに手招きをしたので、「これは天の助け」と喜んで上陸した。 すると島民達が
集まってきて、着物を与え、焚き火で冷えた体を温めたり、お粥を炊いて手厚く介抱した。
乗組員達は島民の心からの支援に深く感謝し、島民の支援を得て船を小港(クンナト)の岩に
繋いだ。(この岩を『ミシラギ』といい、旧暦の五月四日に行われるハーリー(爬龍船競漕)の時は、
最初に観音堂に一年間の航海安全と豊漁、島民の健康と融和、島の繁栄を祈願し、次にミシラギ
拝所に同様な祈願を行い、御願バーリーを始める。)
船の修理を終えた乗組員達は故郷へ帰ることになり、以前白衣の美女が現れた山に入って
「我等一行これより帰国せんと思う。願わくば吾等に幸運を与えたまえ、無事帰国できるよう
神様は我々をお守り下さい。願望が叶ったならば、仏様をこの地に祀って浄土としよう。」と
祈願、無事帰郷することができた。
その後、乗組員から琉球王朝を通して、奥武島に黄金の観音様一体と仏具一式を贈ってきた。
しかし琉球王朝では、はじめ同名の他の奥武に安置したが穏やかならず、八方手を尽くした結果、
玉城間切の奥武島がその地であることがわかり、間切役場を通じて奥武島に観音像が届けられた
ので、一宇の堂を建立して観音像を安置することになった。旧藩時代は王府が供え物一式を司り、
その代行を奥武村出身の大城南掟(へぇーうっち)が行っていた。その後、間切持ちとなり、後に
奥武の村持ちとなったため、司は奥武の旧家大屋が行っている。
ここに鎮座される観音像は、代々島民の深い信仰を集めて現在に至っているが、この堂は昔三回
(観音堂三興之記)にわたり改築されている。観音堂に関する記録は残念ながら残っていない。
観音像は今次大戦まで無事安置されていたが、現在は陶製の観音像を安置している。又この堂も
昭和四十年九月の観音堂三百五十年祭にちなみ、那覇市の渡辺健次氏が改築寄贈され、
老朽化した鳥居も昭和六十年観音堂三百七十年祭の際、当区出身の安次富剛氏が改築寄贈された。
境内の石灯籠には嘉慶十七年秋分吉日嶺井親雲上、与那嶺筑登之親雲上、比嘉筑登之の名前があり、
同吉日に比嘉仁屋、当山仁屋、城間仁屋、同じく吉日に玉城親方盛林、嘉慶二十五年には
玉城按司から寄進されたのが現在も残っている。
観音堂に掲げられている表札の意味は、次のとおり。
○「普濟」(ふさい)・・広く仏のみちによって人民を救う。
○「南海蓮花満部洲」・・南海に蓮の花が満ちあふれている島。
○「徳本慈悲被皆化」・・孝徳の根本は仏の慈しみ、哀れみを皆に教え導き人を善に移らせる。
​        平成十九年十二月吉日作制
                                 南城市玉城字奥武区」

以前の写真を見ると、現在は青字​
の部分が白く塗られていたのであるがその経緯は・・・???。



「観音堂」に近づいて。



扁額「觀音堂」と。



内陣。



「奥武観音堂」の西側には「殿(とぅん)」と呼ばれる拝所が建立されていた。
「奥武観音堂と並ぶ重要な拝所で、東之御嶽、中之御嶽、西之御嶽、竜宮神への遥拝所である。
歴史は古く、元々は東川門(あがりかーじょう)(現・達也屋)の屋敷内にあったが、観世音泉や
共同売店の建設工事により現在地に移した。周辺には多くの拝所があり、厳粛で神秘的な雰囲気が
ある。」



「奥武島ヌ殿(おうぬとぅん)」。
「殿」は「奥武観音堂」と同じように赤瓦屋根で造られていた。



内陣には正面と右側の祭壇に丸い大きな香炉が2基置かれており、その後方の一段高くなった
ところには霊石1基と方形の香炉3基が置かれていた。



左から「龍宮神」、「東ヌ御嶽」、「中ヌ御嶽」、「西ヌ御嶽」と。



そして「奥武島観音堂」の左にある石段を上って行った。
先程の「奥武島拝所案内図」によると、この奥には『今帰仁の御嶽と崎城』と『奥武城』が
御嶽(うたき)への入口のようであった。
両側には像、石碑が安置されていた。



右側の像(オブジェ)。



右側の石碑。石碑には「・井藤正・・・」と。



森の中は、あちらこちらに石灰岩の岩が点在しており、その間を獣道が伸びていた。
その奥にも。
「御嶽」だけあって、怪しい空間なのであった。



ガジュマルの大木。



「中之御嶽」と。



横から。



岩の表面にガジュマルの根が絡みつき。



小さな祭壇のようなものが置かれていた。



そして最後に「大城幸之一先生銅像」を訪ねた。



銅像の台座部分には『顕彰の記』と題された碑文が記されており、
「偉大なる政治家、医者としての御功績を讃え、慈悲深く高潔な線瀬映の人柄を慕いかつ、
永遠に範となすべくここに顕彰する。 
昭和五十七年十月九日 大城幸之一先生銅像建立委員会」と。



銅像の右側にあった「大城幸之一先生顕彰の碑」。
「一八七九年(明治十二年) 玉城間切奥武村で出生
一八九六年(明治二十九年) 沖縄県病院付属医生教習所に入所
一八九九年(明治三十二年) 医術開業前期試験(国家試験)に合格
一九○○年(明治三十三年) 沖縄県病院付属医生教習所を卒業
              医術開業後期試験(国家試験)に合格
              沖縄県病院の医員を拝命
一九〇〇年 (明治三十三年)   沖縄県病院の医員を拝命
一九〇一年 (明治三十四年)     沖縄県病院を辞し玉城間切富里村にて医院を開業
一九〇七年 (明治四十年)        無限責任玉城村信用組合理事、奥武漁業組合長
一九〇九年 (明治四十ニ年)     玉城村議会議員に当選
一九一七年 (大正六年)           沖縄実業・沖縄共立両銀行の合併に活躍
一九ニ一年 (大正十年)           県議会議員に当選  議長となる
一九ニ四年 (大正十三年)        県営軽便鉄道稲嶺経由の実現を図る 
一九二五年(大正十四年)    衆議院議員に当選
一九二七年(昭和  ニ年) 水に恵まれない奥武島の不自由さを解消するため
              観世音泉(くゎんぬんがー)と上原泉を掘削し完成
一九二八年(昭和  三年) 玉城村禁酒会を結成
一九三二年(昭和  七年) 玉城小学校給水タンク(丸タンク)を設計し完成
              病没 村葬 享年五十四歳
偉大なる政治家  医者としての御功績を讃え
慈悲深く高潔な  先生の人柄を慕い  かつ 永遠に範となすべく
一九八ニ年(昭和五十七年)十月九日 ここに先生の胸像が 建立された
ニ〇一四年(平成ニ十六年)十ニ月五日作成 南城市玉城字奥武区」と。

「大城幸之一は「沖縄県島尻郡玉城村(現在の南城市)出身。沖縄県病院附属医生教習所に入学し、
在学中に医術開業試験試験に合格した。1900年(明治33年)に教習所を卒業し、県病院に勤務。
翌年には郷里に医院を開業し、後に沖縄県医師会代議員、島尻郡医師会副会長を務めた。
1909年(明治42年)に玉城村会議員に選ばれ、さらに沖縄県会議員、同議長に選ばれた。
1925年(大正14年)、衆議院補欠選挙で当選を果たした。
その他、玉城村中部信用販売購買組合長、奥武漁業組合長を務めた。」とウィキペディアより。



銅像が建立されている場所の奥には
「奥武橋架橋記念碑」と「松島橋架橋記念碑」も建立されていた。
松島橋」は何処にあるのかを調べて見た。すると下記の如き文章がネットにあった。

「奥武集落では昔より、橋が架設されるまで農耕や所用にも、また生徒の通学にも渡し舟で
相当の不便を感じていた。1937年 (昭和12年) 木材橋が初代橋として竣工したものの、翌年の
台風で流失、1940年 (昭和15年) に至って日本政府の補助によってコンクリート造りの立派な
橋が架設されたが、今時大戦により米軍の上陸と共に爆破された。住民は第二次大戦中は本島の
各所に避難していた。終戦直後北東の屋敷は全部敷き均らされ、米軍の野球場となり、住民は島に
帰ることもできず、百名や知念村志喜屋、山里、具志堅知念方面に収容されていた。
玉城区創設 と共に富里、当山に移動、1946年 (昭和21年)、ようやく島への移動が許可になり、
米軍の協力により崩れた橋を雑石で埋め陸続きとしたが、暴風のため橋の土石は潮と共に流失、
またもや孤島となった。その後一時電柱をつなぎ合わせて浮橋を造り、後、ピーヤ (橋脚 Pier)
利用による仮橋で急場をしのいでいたが、1948年 (昭和23年)、政府補助によって着工、
1951年 (昭和26年) に松島橋が竣工したが、 これもまた台風によって流失された。
1952 (昭和27年)、政府補助と自己財源で奥武橋を着工、 翌28年堅固な現在の橋 (全長約93m、
幅10.5m) ができあがり、陸続き同様部落内にも車輌が出入するようになった。
現在の奥武橋は六代目だそうだ。」と。




                              ・・・​もどる​・・・


                  ・・・​つづく​・・・





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Last updated  2022.12.10 08:04:44
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