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2014.06.10
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カテゴリ:食品
一夢庵 怪しい話 第4シリーズ 第905話 「七草粥の謎2」

 得々と現状をさも大昔からそうだったかのように語る人が常識人に多く、江戸時代以前の門松(かどまつ)は庭の真ん中に一本だけ立てるのが普通だったといった話をしたがるのが”怪しい話”に多く見られる傾向ですが、実際、江戸時代以前の庭園や庭が”かど”で、少し拡大解釈しても庭の周辺くらいまでしか意味していなかったりします。

 それが江戸時代に入ったあたりから従来は”門(もん)”と称していた、城の大手門などがわかりやすいですが、出入り口を”かど”と呼ぶようになり、庭が無い家が都市部を中心に増えていったこともあったのでしょうが、門の脇に門松を立てて歳神様のおいでをお待ちするようになった ・・・ ようです。

 整理すると、正月というのは(各家庭で)歳神様をお迎えする神事であり、歳神様が降りておいでになる際の目印として庭に立てられたのが本来の門松の役割ということから分かるように、野外でお供え物をして行っていた儀式が次第に変化していき、その過程で伝承の断絶や異説の主流化なども生じてきたわけです。

 その辺り、文字で残す機会が少なく、文字が読める人も少ない時代ともなると、口伝で儀式の類を伝承するしか無いだけに、次第に複雑怪奇な儀式と化したり、逆に簡略化されすぎて何のことやら意味不明になってしまうことが珍しくなく、縁起が良いとか魔よけになるとかいったプレミアや、或いは語呂が良いとかいったこじつけなどで、”なんとなく”とか”意味不明”であっても儀式をなんとか伝承してきたのが日本の特徴になっていたりもします。

 一本だった門松がなぜ江戸時代に入って一対が主流になっていったのか?に関して正確なところは謎ですが、門松に降りてくる神に関しては、冬至のときに山に帰った農耕神という説もあり、この場合、山から再び帰ってくるときの目印として門松が必要で、その際に山を象徴する常緑の松の木を目印として用いたとされるのですが、農耕神が再臨されるが故に五穀豊穣を願って前年に収穫した米で作った餅を(太陽の形に整形して)供え神饌(しんせん)としたと話が続くわけです。

 お供えする餅が丸い理由としては、農作物の成長を左右する太陽をかたちどったという説が有力ですが、お年”玉”がお年”魂”であり、魂を元気付ける効能が餅にあるとした発想は、どことなく南米のインカやアステカなどの王国で、太陽の運行を助けるために生贄の心臓を生きたまま取り出して祭壇に捧げる発想と共通している気がしないでもありませんし、相似の原理の利用という視点に立てば魔術とも共通しているところがあります。

 それが重ね餅になっているのは、その昔、餅と餅の間に何か別の食べ物を挟んでサンドイッチ状にして食べる習慣があったことに由来しているという説もあるのですが、興味深いのは、宮中や伊勢の北部の一部の地域で食べられている正月の雑煮の餅などに、丸餅の上に菱形の餅(菱花びら)を乗せているものがあることで、この場合の菱餅は薬草を刻んで混ぜ込んだ薬餅が定番ですが、雛の節句(3月3日の雛祭り)のときの菱餅の小型版が乗っていると考えるとわかりやすいか ・・・ かえってわかりにくいか ・・・ もしれません。

 食べる米に不自由していなかったであろう皇族や貴族階級にそういった風習が一般化していたということは、菱餅に薬草を練りこんだ主目的が餅の増量剤だったとは考えにくいということでもあり、実用面から考えれば餅を大量に食べると胃がもたれ体調が悪くなる人が当時から多かったために工夫されたのかもしれませんし、七草粥の風習の起源をその辺りに求めることに一定の合理性があるかもしれません。

 別の説では、供える餅を丸く作るのは当時の人たちが魂の形を丸と考えていたためという説があり、自分の魂を米というか餅で作って降臨された神様に奉納して託し、神様に新しい魂というか(1年を過ごせるだけの)エネルギーを奉納した餅に吹き込んでもらい、それを食することで体内に入れるといった解釈もあり、大晦日から元旦にかけての神事以外でも玉串を奉納する神事にも同様の目的があり、本来の”玉串”というのは(榊の枝の)串に刺した餅のことで、元来は自分の魂を餅に託して神様に捧げ、神様はその餅にエネルギーをチャージして下げ渡し、受けとった人はそれを食して体内に入れていたわけです。

 この説の場合、なぜ本来のお年玉が餅だったのか?という話の根本的な理由が理解できるのでき、それぞれの節句におせち料理が作られたり、必要に応じて玉串が奉納されている理由も理解できるのですが、山神が農耕神だった時代から、太陽神が農耕神を兼ねる時代になってくると話が混乱しはじめたとも解釈できます。

 仏教が伝来する以前の神道が形成されていく過程で稲作が神事と密接に関係していたからこそ、田植えを女性が主体で行う早乙女(さおとめ)の風習が遅くまで残っていたわけで、効率や合理性を考えれば男性が主体になるか、性別や年齢を問わず総動員でさっさと作業を終わらせてしまえばいいわけですが、”田植え”という作業が豊作を願いながら行う神事であったが故に、子供(子孫)を生むことが出来る若い女性が行う必要があったと解釈することができます。

 興味深いのは早乙女のスタイルで、昭和の頃の早乙女の場合は頭に和手拭などを捲いて(いわゆる”手拭をかぶって”)作業をしていたのですが、これは印度人のターバンにあたる神聖な布で、一種の神に仕える巫女になるための鬘(かつら)という説があり、更に菅笠(すげかさ)などをかぶって顔を見せないようにするのも普通の女性から神事を行う巫女になるための衣装という説もあります。

 と、この辺りまで解説してやっと七草粥の話に差し掛かるのですが、本来の1月7日というのは重陽でもなく五節句にも入っていないのですが”若菜の節句”と呼ばれることがある日で、本来は女性が1日仕事を休み、男性は”七草たたき”をして七草粥を作って食べ、柳の枝に飾り餅をつけて神様に供え(これが”餅花”)ていた風習が七草粥に繋がっていくわけです。

 なぜ7日にそんなことをしたのか?というと、本来の日本の正月は7日までだったためで、正月を三箇日とするのは中国から伝来して定着した風習ですから、七草粥というのは正月休みが終わって日常に戻るために体調を整える節目の儀式だったわけです(意外と、かなり真面目な話です)。

 このあたりの話はかなり入り組んだことになるのですが、”お粥”という文化は中国から伝来して定着した食べ方で、これは現在でも中国で”朝粥”を食べている人が珍しく無いことからもわかりやすい話ですが、薬膳の一種として七種類の野草や若菜を使った粥が七草粥と呼ばれるようになっていったものの、平安時代の正式な”ななくさ”は”七種”と書いて1月の15日に宮中で”米、粟(あわ)、稗(ひえ)、黍(きび)、小豆、ゴマ”の7品目だけで作った粥を食べる儀式というか行事を意味しています。

 この七種粥の儀式は時代が下がると単品の小豆粥を食べる儀式として残り、七種類の材料で作った粥を食べる行事としては1月7日の七草粥として残ることになるのですが、そもそもは正月明けに向けて6日に若菜摘みを行い、7日にその若菜を入れた熱い汁物(いわゆる”あつもの”)を食する習慣に、前述した比較的歴史が(当時はですが)新しい七種粥などの行事が習合しながら変化していったようです。

 意外かもしれませんが、熱い汁物から粥への移行したのは概ね室町時代の頃の話になるようで、七草汁だった頃の若菜としては鎌倉時代に既に”せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ”が定番になっていたようです ・・ もっとも、その頃に芽吹いて成長している山野草を食材とするわけですから、時代や場所によっては必ずしもこの七種では無い組み合わせもありますし、一つの目安に過ぎない組み合わせではありますが。

 まあ、日本の文化や風習は外来文化を美しく言えば巧みに取り込み、素直に言えば特に問題が無いと思えば適当に妥協してなんとなく取り入れ、代を重ねるうちに屋上屋を重ねすぎて何が何やら意味不明な状態になっていることもままあるわけですが、最近というか明治に入ってからでも太陰暦から太陽暦に一気に切り替えて、太陰暦で行っていた儀式を無理やり太陽暦で行うようになっていったことは比較的知られた話になります。

 ちなみに、なぜに明治政府が強引に太陽暦に切り替えたのか?といえば、外国との貿易を行う場合に契約書などの日付に整合性を持たせる必要に迫られていたことが最大の理由という説がありますが、実際に施行された日から考えると、どうも年単位で納税する必要のある税金を実質的に1年程の期間で二度徴収でき、逆に給料などは1か月分程度を未払いにできる時期を狙って行ったというのが正解のような気がしないでもありません。

 話を戻すと、七草の汁だった頃の呼び方としては”七草羹(ななくさかん)”という呼称が一般的だったようですが、”羹”が熱い汁のことを意味していて、そもそもの羊羹(ようかん)が羊の肉や内蔵を煮た料理だったものが肉や内蔵の部分を小豆に置き換えることで仏教の僧侶でも食せるように工夫し、後に和菓子の定番となったといったことは比較的知られた話になります。

 料理における”羹”に関しては、江戸時代の正月に将軍様が食していた正月料理のメニュー表を見ていると”兎羹”という料理があり、これなどは文字通り兎肉を煮込んだ熱い汁料理で、なぜにそういった料理を食することになったのか?というと、これは家康が ・・・ と書いていると例によって脱線が長くなりますので今回は略しておきます(笑)。

  室町時代の七草は、熱汁と粥仕立てが半々くらいから次第に粥が優勢になっていった時期でもあり、社会が安定した江戸時代になって元旦に次ぐ重要な祝日として”七日正月”が位置づけられるようになり、全国的に”七草粥”が定番化していくのですが、この頃になると、七日の朝に歳神様の前で”七草なずな、唐土の鳥が渡らぬ先に、七草はやす”といった囃子言葉を唱えながら主が七草を包丁で叩いて(微塵に刻んで)から粥に炊き込んだものを家族で頂戴する行為が定番化していたようです。

 しかしながら、明治に入って太陽暦への強制変更が行われて太陰暦の日付で行われていた各種の行事を無理やり太陽暦の日付で行うようになってしまうと、正月も従来の時期からずれるわけですから、本来の七草を摘んでいた時期とはずれが生じてしまい、なぜにこんな寒い最中に七草粥?ということになってしまったわけで、その辺りの違和感は俳句の季語と季語の意味する月との関係にも生じていることがままあります。

初出:一夢庵 怪しい話 第4シリーズ 第905話 (2014/01/03)





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Last updated  2014.06.10 09:41:03
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