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2019.06.21
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カテゴリ:自然科学
オはオタクのオ 第0041回 プラスチックごみ騒動の裏側

 プラスチックごみが環境に悪影響をあたえているので、スーパーマーケットやコンビニなどで買い物をしたときに無償で提供されている”レジ袋を有償にしたり廃止する”ことでプラスチックごみを削減ないし根絶しよう! ・・・ とかいった声が、なぜか、唐突に大きくなって日本でも規制強化の方向で話が進んでいることは御存知の通り。

 が、”それってどうなの?なんの意味があるの?時間と金の無駄じゃね?”というのが、現時点の私の立ち位置で、そもそも論として、”レジ袋やペットボトルは可燃ごみとして必ず焼却処分する”ことを徹底するだけでも、少なくくとも、プラ(スチック)ごみの中のレジ袋が自然界に流出する現象もまた激減するんじゃないの?ということ。

 つまり、大枠だと、可燃ごみ、不燃ごみ、資源ごみ、と3つに分別してのゴミ出しを強要する制度が恒常化し、自治体や地域によってはさらに細かく分別して”リサイクルすることでゴミを資源に変えて云々”と主張する方々の強い要望で公的な規制やら自主規制やらが増加してきたけど、それって合理的な考え方であり選択なの?ということ。

 例えば、昭和も末の頃の日本で”ガラス瓶か金属缶、(それこそプラスチック素材でコーティングした)紙パック”といった容器で流通していた飲料販売に、ペットボトルが参入して、500ミリリットル、2リットルといった容量のペットボトルが定番化したことで急激に消費が拡大したことは御存知かと思いますが、それによってメリットもデメリットも生じたけれど、規制を主張する人たちはメリットを口にせずデメリットだけを言い募る傾向が(ペットボトル問題に限らず)顕著で、一種の新興宗教の布教活動と言動が酷似していることが珍しくないなあと。

 ペットボトルも、普及が始まった当初は、”可燃ごみなのか不燃ごみなのか?”という分別が明確に ・・・ 少なくとも販売している飲料メーカーからは ・・・ 指示されることがなく、それこそ”ゴミはゴミ箱へ!”程度の注意書きがラベルに印刷してあればまだましな方という時代から話が始まったりします。

 というか、その前段である”清涼飲料水などの容器がガラス瓶だった時代”も、ガラス瓶の表面に塗料などで名称や(トレード)マークなどを印刷(というか塗布)したり紙のラベルを貼る程度の時代と、ガラス瓶にビニール系統やウレタン系統のプラスチックカバーなどをかぶせる仕様が普及した時代に大別することができまして、リサイクルの簡便さからすれば前者の方が圧倒的に手間がかからなかったのですが、同じ費用だと使える色の数が多く複雑な模様やイラストも再現しやすいといった特性で消費者の目を引き付けやすいデザインの多様性などが後者の(販売時の)強みになっていたと言えます。

 それほど難しい話ではなく、無色透明のガラス瓶に白色や黒色の塗料で名前を書いた程度の商品と、赤や黄色といった目立つ原色系の色を使ったカバーで瓶の表面の60~70%を覆ったカラフルな商品とを比較した場合、中身が同じか同じようなものだとしたらどちらを手に取る人が多くなるか?ということで、極論すれば、お酒を入れたガラス製の一升瓶にカラフルな或いはデザインなどに凝った紙製のラベルを貼って小売りするようになった頃から、品質や味などに大差が無い場合は特に、そういった工夫が売り上げの差別化に直結していたということ。

*各家庭から徳利や瓶などを持参して、酒や調味料などを大樽や桶から小売りしてもらって持ち帰っていた時代もある。

 しかしながら、清涼飲料水などがリサイクルを前提としたガラス瓶容器で売られていた時代は、”ガラス瓶”が貴重品の時代でもあり、ざっくりと書くと、”瓶代の方が中身の原価よりも高い”時代まで話が遡る必要もあり、昭和も1970年以前に生まれた世代あたりまではガラス瓶で売られていた飲料の場合、販売店などに飲み終わって空になったガラス瓶を(無傷で)持ち込むと10円程度の”瓶の保証金”がもらえたというか返却される制度があったことを覚えていたり経験したことのある人がおいでではないかと。

 ちなみに、回収されたガラス瓶はそれぞれの製造メーカーに返却され、製造メーカーが傷の有無をチェックしたり瓶を洗浄した後、再充填を行って再び市場へ戻っていくといったサイクルで循環することが多く、再利用する製造メーカーが不明な場合とか、再利用が難しいレベルで破損していたり汚れていた場合なども”ガラスの原料として溶かして”再生というか再利用する場合のコストが1からガラス瓶を作るコストより低くなる(というか低かった)メリットがあった時代だからこそ、そういったガラス瓶の循環システムが支持されていたと書いていいのかもなと。

 これが、新しくガラスの原料となる鉱物資源を採取するところからガラス瓶ができるまでに必要なコストどころか、ガラス瓶をごみとして処理するコストまで含めて考えてもなお、再利用するよりも新しい容器を1から造って使い捨てで利用する方が安いのなら、回収して再利用せずにゴミとして埋めるなり他の資材として再利用する選択の方が合理性があることになる ・・・ と、私なんぞは考えるということです。

 ガラス瓶の場合、使い終わった後の容器をみていて”これは何か別のことに使える(かもしれないから、もったいない)”と考えてしまう人が意外と多く、その場合の再利用を含めたトータルコストはたぶんあまり考えていないと思いますが、ガラス容器がそれなりに高価だった時代が長かったことで”もったいない”と脊髄反射のレベルで思ってしまう人が多数派を形成していたというか(まだ)いるかなと。

 ただ、ほぼ日本全国の津々浦々とまでは言いませんが、100円ショップがちょっとした規模の街に進出するようになって久しくなると、ガラス製品もまた”あれ、こんなものまで100円(税抜き価格)で買えちゃうんだ!”といった経験を積む人が増加し、1980年代の”1ドルが100円以下の為替レート”を経験した後ともなると完成したガラス容器などを海外から輸入する方が安価という事例も増加していったのでした。

 例えば、”500ミリリットルのコーラ”をすべて国産で賄うと仮定して、コーラの原価が100円、容器のガラス瓶のトータルコストが100円ならば200円以上の値段で売ってやっと商売が成立するわけですが、同じコーラをアメリカで製造した場合1ドル、日本までの送料が0.5ドルで、為替レートが1ドル=360円だとすれば、亜米利加から同等品を輸入した場合の日本円換算価格は1.5×360円となりますから、国産品は540円までは価格競争力で優位に立てるというか販売価格を吊り上げることが理論上は可能になります(黒い笑)。

*実際の市場だと、国内販売価格が200円程度で、消費した際の満足度などが同等ないし上といった他社の商品があると、輸入だろうが国産だろうが540円のコーラを選択するのではなく、そうした低価格でありながら満足度に大差の無いような商品との競合が生じるようになるため理論上の目いっぱい高値の価格設定は難しく、更にそこに消費者の購買能力も加味されるので何かと中長期的な荒稼ぎは難しいようです。

 が、他の条件は同じでも為替レートが1ドル=100円になると、亜米利加から輸入したコーラの日本円換算価格は1.5×100=150円になってしまいますから、同等品を国産しても150円以上の価格で売るだけの価格競争力が無いというか、パッと見た目で英語表記が多いかな?程度が違うだけの同等品が並んでいるところで従来の200円で売ろうとしても ・・・ まあ、普通の人は”同等品なら安い方”を選択するので150円の方から先に売れていくのではないかと。

 或いは、コーラの原価は100円のままで、容器をリサイクル前提のガラス瓶から使い捨てのペットボトルに変えるだけで、容器代に100円かかっていたところが5円でよくなると、中身も保存期間なども同じなのに容器が違うだけで従来は200円で売らないと採算割れしていた商品を105円で売っても同等の利益を上げることができる場合、売る側からすればどちらを選択するか?ということ(これまた黒い笑)。

 実際の市場環境だとすれば、輸送コストも運ぶ量が多くなればなるほど無視できなくなるのすが、その場合、ガラス瓶とペットボトルを比較すると中身は同じ500ミリリットルのコーラだとすれば、容器の重さが重く、衝撃などに耐える強度が低い(=破損しやすいと輸送コストと流通時の損失コストなどは増加)ガラス瓶の方がどうしても送料が割高になるデメリットもあります。

 かくのごとく、売る側からすれば、リサイクル前提のガラス瓶を容器にするより、使いすてのペットボトルに容器を変えるだけでウハウハの利益増が見込めたわけですし、ガラス瓶だと自社で回収し洗浄しいて再利用するコストも負わなかればならなかったところも、消費者にゴミの細かな分別を義務付けることでカットできるわけですから、そりゃあもう業界団体が政府にどれくらい強力に”ペットボトル”の利用を世界規模でプッシュしたことかといった具体的な解説は不要でしょう。

 現実の日本経済の場合、仮に1950年代後半の新人サラリーマンの月給が1万5千~2万円程度あたりが平均どころの相場だったとすれば、それが21世紀も令和の御代だと15~20万円程度になっているのですが、家計消費の対象になるような物価に関しては、大半が数倍に値上がりしているものの、さほど変わっていない物品もあれば、値下がりした物品もあったり、そもそも1950年代には存在しなかった物品もあったりしますから、時代を越えてモノの値段を比較するのは難しいところがあります。

 或いは、1950~1960年頃にコーヒーをコーヒースタンド(まあ、スタバなんかの簡略版)で飲むと1杯10~50円くらいで月給は1万5千円くらいだったとすれば、2020年頃の月給が15万円の人がコンビニやスタバなどで100~500円のコーヒーを飲むのと消費に伴う心理的な負担は大差が無いとった比較は可能で実感を伴いやすいかもなあ~とか考えるわけです。

 少し視点を変えると、2020年頃に月給が150万円(年収2000万円クラス)の人は、21世紀の日本にいながら昭和30年代の物価水準で暮らしているかのような消費に伴う心理的負担を経験することができるというか日常的にしているということで、 ・・・ まあ、年収2000万円クラスの人の消費に伴う心理負担というのは、年収200~300万円クラスの人が”コーヒー1杯が500円”と聞いて感じるのと同程度の心理的負担を、”コーヒー1杯が5000円”と告げられたときに感じるということ。

 モノの値段を比較するって、数十年の時間差で生じる相対的な価格差もさることながら、同世代であっても所得の差で生じる感覚の差なんかでも何かと難しいでしょ?(笑)。

 そう考えていくと、年収が新人でも2000万円以上になる日本の国会議員にとって、”老後の自己資金が2000万円(以上)必要”と言われたときに生じる心理的な負担というのは、年収が実手取りで200~300万円程度の人が”老後の自己資金は200万円(以上)必要”と言われたときに生じる心理的な負担にほぼ等しいということで、それ故に”その程度(2000万円以上)の自己資金を貯めるくらいのこと頑張ればできるでしょ?”と本音のところではマジで思っているだろうなあ~と、私なんぞは勘ぐっております。

 それはさておき、ガラス瓶からペットボトルに容器を変えるだけで、”儲けるのは私だけ、負担が増えるのは私以外の皆さま全員”という時代に突入し、少なくとも、爆発的に業界全体の売り上げはビフォーアフターで伸びたのですが、話がややこしくなったのが、”ゴミの分別回収”に利権が絡むようになってからではないかと。

 まあ、ゴミの利権問題は本筋ではないので脇に置いておくとしても、私なんぞは”飲み終わったペットボトルは燃えるゴミで燃やして、ガラス廃材かなにかで固めて埋めてしまうか道路や建築素材を新たに考え出せばいいだけじゃん?と長らく考えているので、”素材が違うから、キャップは別のゴミ箱へ、ラベルは剥がしてプラゴミへ、本体は中をよく水で洗ってかさばらないように潰してから資源ゴミへ ・・・”と真顔で主張する人の思考が根本のところで理解できません。

 特に、本体を洗って(中を水でそそいで)キレイにしてから潰して云々というのは、”回収後に洗浄や検査をして再充填して利用していたガラス瓶の時代でさえやってなかったし、水道代も手間(=人件費)も別途かかるのになんでそんな無駄なことを個人でする必要があるの?”という素朴な疑問があり、ましてや、そこまで手間暇と金をかけて資源ゴミとして出したペットボトル様の”その後”を知ってしまうと、ますます”阿保かいな?”としか思えないのですが?

 実際、過去にその辺りを指摘されて、アリバイ工作のごとく、”資源ゴミとして出されたペットボトルはこのような製品に再利用されています云々”と某官庁などがPRに努めたのが、(当時)電車の吊り輪の持ち手などの黒いプラスチック部品などの”どう考えても資源ゴミとして出されているペットボトルの量を考えると、その程度のことで消費しつくされていないよね?”と少し賢い小学生なら気が付く代物たちだったりします ・・・ 少なくとも、資源ゴミで回収されたペットボトルの大半が新たなペットボトルの原材料として再利用されていないってこってす。

 ちなみに、資源ゴミとして集められたペットボトルは、ある程度まで国内で細かく破砕した後、お金を出して中国などに大半を引き取ってもらっていた時代があったのですが、中国に限らずそういった輸出先になっていた国から”技術が発達している先進国でもゴミならば発展途上の我が国ではもっと始末に困るゴミ”ということで引き取り拒否の声が出るようになり、ゴミの母国に返送されてニュースになった事例もちらほらあります。

 中国の場合、”世界で第二位の経済大国”になったあたりで、世界のゴミ捨て場になることを急速に拒絶するようになり、その余波もあってか日本もペットボトルゴミを、工業製品の生産時に再利用するための資源として輸出していると言い張ることが年々難しくなっていったのでした。

 まあ、石油製品として考えた場合、レジ袋にしてもペットボトルにしても、従来は原油を精製したときに生じる使い道のかなり限られた成分が原材料だから安価という側面がありまして、原油を精製して重油やガソリン、灯油などなどを分離して取り出して利用する限り生産される物質と言い換えることもできたりしますから、他の主要な製品を製造すると次々と生産され続ける割に使い道が限られている物質であるが故に、一度、手間暇かけて加工し変質させたものを再度加工して利用するとなると、かえってコスト高になってしまうわけです ・・・ 少なくとも現時点の地球人類の科学力では。

 故に、使用済みレジ袋やペットボトルなどはもともとが石油というか原油に含まれる成分だけに”燃料として”使うのがベストの利用法で、特に生ごみなど水気の多いゴミを燃やすときには一緒に燃やすと、別途振りかけて加えているゴミを燃やすための油性燃料の節約にもなるわけで、そうした焼却処理が駄目な技術的な理由というのが今となっては無いんじゃないかと。

 一時期、ゴミを焼却する際の温度が低いと、石油素材のプラスチック系ごみからは特にダイオキシンが発生するから駄目だ!とか、燃やすと炉内が高温になりすぎて焼却炉の寿命が縮むから駄目だ!とかいった話がまことしやかに流布していたのですが、それこそ”ゴミを高温で燃やすことで有害物質も燃やし尽くすか無害な物質にしてしまえばいい”という(その時点の)現行の技術で十分に対応可能で、新たらしい産業にさえなりうる話でもあったわけです。

*そもそも、ダイオキシンが某・環境保護団体などが観念論で主張している毒性や催奇性の強い分解が困難な物質かどうかから疑うべきですが、その辺りまで深入りすると長くなりますので今回は略。

 というか、これを書いている時点で、既にゴミ焼却炉のダイオキシン対策は以前とは段違いに進んでますし、ペットボトルの再利用のパーセンテージが異様に高くなっている事例が”(ゴミとして)燃やした熱で温水を作る”といったサーマル系の(実質的に)燃料としての利用だったりするのは一部では知られた話だったりします。

 今後、海外へのペットボトルごみの輸出が不可能となり、かといって他の製品の原材料にするには用途が限られる上に割高という前提が覆る見込みが乏しい現実を前にすると、国土の狭い日本で地中に埋めてしまうよりは燃料として燃やしてお湯でもわかしたり、火力発電を行って利用する方が現実的な対応ではないかと。

 レジ袋を目の敵にする環境保護意識の高いと自称する人たちにとっての”不都合な真実”を知ってしまうと、”(見た目が良くて)知的生物で、私たちは歴史的に食べてこなかったのだから鯨を何人も食べるな!科学的な根拠なんぞ関係ない!”といった主張と同根な気がしてもくるのですが、その行き着く先が世界恐慌だとしても気にならないあたりで、新しい宗教の類かもな~と。

 最近の環境保護業界の言動を整理すると、”地球温暖化対策として、世界規模で工業生産を縮小して工業生産に伴って排出されている二酸化炭素を削減しよう~。レジ袋やペットボトルなどプラ製品の廃止はその第一歩だ~(今、この辺)”といったことになるのですが、まあ、富裕層とは総人口の10%でありながら冨の90%を手にしている人たちのことですから、地球環境が人間の経済活動でガタガタになったのだとすれば、その責任の90%と問題解決に必要な費用の90%は経済活動によって生じた富の90%を手にしている富裕層だけが負うべき話になるのではないかと(黒い笑)。

 産業革命から後の、工業生産の増加やら金融活動の広域化やらで巨万の富を手にしてきたセレブな方々の主張する環境保護問題が胡散臭いのは、”儲けるのは富裕層の私たちだけ、ゴミの処理や住みよい地球を作るための費用は貧乏人が主体になって負担しろ、富裕層も貧乏人と同じように頭割分程度の負担になら応じてやる”ってことかなと。

 まあ、富裕層に属する人たちの思考回路を私ごとき死にかけの貧乏人が推察することは不可能ですから邪推の類ですが、”世界中の魚類がプラスチックごみを食べて体内に蓄積している。海洋汚染は深刻だ!”と言った発言に遭遇したら、”だから、みんなで自然界に住む魚ではなく、遺伝子組み換えした大豆や飼育された牛を主要なタンパク源にしよう!もちろん、人工肉でもよくってよ”・・・”と話が続いていないか勘ぐってチェックする程度の疑り深さは必要ではないかと。

 日本では地球温暖化の学説が(二酸化炭素の放出さえ減らせば今からでも回避でき)”異論は認めません!というか、そもそも、異論なんぞ存在しません!”とった調子で定説化してしまい、温暖化対策の名目で税金まで徴収されるようになって久しいのですが、海外では”地球寒冷化が進行中”といった異なる学説も一定の支持を集めていて、”2030年までに地球規模で氷河期に突入する”という説は比較的知られた(かなり真面目な)説だったりもします。

 まあ、温暖化にしても、寒冷化にしても、人類が現在の文明水準(もちろん生活水準も)を維持できなくなるまでに残された時間が10年程度だとすれば、レジ袋やペットボトルを廃止することに時間と労力を使うよりも優先すべきことってあるんじゃね?というのが私の見解ですが、世界の富裕層が”火星移住”や”月面基地建設”に金を本格的に使い始めたというか、地球のあちこちに特殊なシェルターを建設し終わって(現在進行形で)機能や規模などを拡張していることなどなどを隠さなくなったあたりで、気が付きなさいよとも思うのですが、今の日本では少数派の見解とか妄想の類に分類されるんだろうなあと。

 そんな具合に、薄らバカぼんやりと暇なときは思考を巡らせるのでした ・・・ 故人曰く、”下手な考え休むに似たり”と。





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Last updated  2019.06.21 13:45:33
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