昼食を終えた早瀬隼はそっと教室を出て薔薇園へと向かった。
この学校に編入する前、母と共に見学に来た事があったから、場所は知っていた。
そこは19世紀末から人の手によって植えられ、赤・黄・白と色とりどりの薔薇が咲いており、隼のささくれた心が少し癒された。
日本に居た頃、両親は泣いてばかりいたし、2歳年上の姉の涼香はいつも両親の愛情を独り占めしている自分を恨めしそうに見ていた。
ウィーンでいつ終わるかわからない入院生活を始めた時、隼は漸く姉の視線から逃れる事ができ、また両親と祖父の言い争いを聞く事もなく安心した。
両親は自分をこの世に送り出してくれた存在だったが、彼らを一度たりとも隼は尊敬できなかった。
政略結婚で結ばれ、表面上は仲の良い夫婦を演じながらも、彼らの結婚生活がとうに壊れていることなど、隼や姉は知っていた。
母が早瀬の家から出る事が出来ないのは、後継者である自分が成人になるまで離婚は認めないという祖父が勝手に決めたルールがあるからだった。
隼は祖父が大嫌いだった。
病弱な自分に向かって、「もっと丈夫に産まれていれば金がかからずに済んだ」、「待望の跡継ぎが病弱だなんて冗談じゃない」と、平気で酷い言葉を口にし、早瀬という家を守ることに固執する祖父が。
家族の誰とも繋がっていない絆―毎日母と祖父との間に流れる冷たくも重苦しい空気で食べる料理は、ゴムの味しかしない。
だから、遼太郎が―両親と兄妹達との間で笑顔を振りまく彼が妬ましく憎かった。
あんな事をわざと聞いて彼の怒った顔が見たかった。
(誰かに好かれるなんて面倒なだけだ。どうせ僕は独りなんだ。)
この世に産まれ落ちた瞬間から、何故神は自分を天国へ連れて行ってくださらなかったのだろうと、隼は毎日思っていた。
こんな冷たい家庭の中で育つよりも、母の腹の中で死んでいれば良かったのに。
自分は生まれてはいけない子どもだったのだ。
(僕は死ぬまで、あの人達の言いなりにはならない。)
隼が薔薇園を出ようとした時、不意にドアが開いて遼太郎が中へと入ってきた。
「何だよ、何か用?」
「別に。これを探しに来ただけ。」
遼太郎はそう言うと、床に落ちていたロザリオを拾い上げ、それを首に提げた。
「ドイツ語、喋れるんだね?」
「まぁね。5年も居てたら嫌でも喋れるようになるさ。じゃぁ、僕はこれで。」
隼は冷たい口調で遼太郎にそう言うと、薔薇園から出て行った。
(なんか、嫌な奴・・仲良くしようと思ったけど、やめようかな。)
放課後になり、遼太郎はヤンネとともに校門を出ると、瑞姫とアンネがそこに立っていた。
「お母様、どうしたの?」
「今日は役員会があるでしょう? これからバザーの出し物についてお母様達は話し合いがあるから、あなた達は先に帰っていなさい。」
瑞姫はそう言って2人に微笑んだ。
「うん、わかった。アンネさん、さようなら。」
「さようなら。」
アンネと瑞姫は元気良く駆けてゆく遼太郎とヤンネに手を振り、校門をくぐった。
「ミズキ様、役員会に出てもよろしいんですか? 下のお子さんはまだ産まれたばかりなのに・・」
「乳母に搾乳したおっぱいが入った哺乳瓶を渡してますし、彼女に世話を任せてありますので大丈夫です。それよりも今日から新しい方が入ってきたのですって?」
「ええ。シュン君のお母様ですよ。でもあの人、さっきすれ違っても挨拶もしないんですよ。感じが悪いったら。」
アンネと瑞姫が取り留めのないことを話しながら会議室へと入ると、底には既に数人の役員達が集まっていた。
「皇太子妃様、この度はご出産おめでとうございます。」
「ありがとう。」
「家族に旅行でスペインに行きましたの。皆さんと仲良く召し上がってくださると嬉しいのですが。」
そう言って役員の1人がクッキーの箱を差し出すと、瑞姫は朗らかに笑ってそれを受け取った。
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