西暦1073年初夏。
7年前の「鬼姫の乱」により甚大な被害を受けた御所と後宮は、その後の復旧作業により乱の前の、豪華絢爛かつ雅な雰囲気漂う佇まいを取り戻していた。
だが建物が元の姿に戻っても、人の心はそう簡単に元には戻れなかった。
「鬼姫の乱」により後宮で虐殺を目の当たりにした桐壷女御・爵子(きりつぼのにょうごたかこ)は、乱の後精神に異常をきたすようになり、自分の喉を懐剣で突いて自害した。
「鬼姫の乱」の首謀者であった柚葉姫を深く愛していた帝・尊仁(たかひと)は、柚葉の死後一時的に精神に異常をきたしたが、その後次第に回復していった。
柚葉姫の実家・山野裏家は、娘の行為によって失墜し、一家離散した。
彼女の夫であった土御門有人の家族は、宮中で白い目で見られながらも陰陽寮に留まっていた。
「暑いなぁ・・」
その陰陽寮の中庭で、土御門頼人はそう呟きながら空を仰いだ。
かつて、“陰陽寮の華”とまで謳われた紅顔の美少年の面影は消え失せ、その顔は青年らしい精悍な顔立ちとなっていた。
「鬼姫の乱」の後、頼人は今は亡き兄夫婦の遺児を育てる為、陰陽寮に残り、若干22歳という若さで陰陽博士(おんみょうのはかせ)となった。
兄・有人と比べると見鬼の才はやや劣るが、実力は陰陽寮の誰よりも抜きん出ていた。
「おい見ろよ、土御門頼人様だぜ。」
「土御門って・・あの乱の・・」
「てっきり陰陽寮を辞めたのかと思ったのに・・」
「綺麗な顔に似合わず図太い神経の持ち主だな・・」
廊下を歩いていると、ヒソヒソと悪意を囁き交わす声が聞こえたが、頼人はそれらに気を留めることなく、自分の部屋へと入った。
「おじ様っ!」
部屋に入った途端、白い水干を着た金髪蒼眼の童が頼人に抱きついてきた。
「柚聖(ゆずまさ)、ここには来てはいけないと言っただろう?」
甥の頭を軽く撫でながら、頼人はそう言って溜息を吐いた。
「だって、家では誰も遊んでくれないだもの。ここにいれば、有爾(まさちか)様や親王様に会えるでしょう?だから来たの。」
同じ母親の腹から生まれながら、柚聖は頼人の元で、彼の兄・有爾は帝の元で別々に育てられた。
まだ幼い柚聖は、“有爾様”が実の兄弟であることを知らないが、彼と親王とはとても仲が良い。
「有爾様や親王様といつも会えるという訳ではないんだよ。ここはお前の遊び場じゃないんだからね。」
「はぁ~い。」
頬を膨らませながら、柚聖はそう言って部屋を飛び出して行った。
「やれやれ、世話が焼けるな・・」
頼人は苦笑しながら書物に視線を戻した。
走り去っていく柚聖の背中を見送った時、脳裏に7年前の出来事が浮かんだ。
あの時、自分は大切なものを失った。
だが、あの子が居るから今日まで生きてこられたのだ。
(兄上、義姉上、あの子はすくすくと成長しておりますよ・・どうかわたし達を見守っていてください・・)
頼人が陰陽寮で感慨に耽っている頃、柚聖は有爾が居る梅壷へとやって来た。
「有爾、遊ぼ~!」
大声で友の名を呼ぶと、御簾から1人の子どもが飛び出してきた。
「柚聖、来てくれたんだっ!」
真紅の瞳を嬉しそうに煌めかせ、左右にそれぞれ結いあげた艶やかな漆黒の髪をなびかせながら、柚聖の双子の兄・有爾は一直線に彼の元へと走って来た。
「有爾様、いけませんっ!」
「女御様に叱られますっ!」
「早くお戻りになって下さいませっ!」
御簾越しに聞こえる女房達の声を無視して、有爾は柚聖とともに後宮を後にした。
「あああ、何てこと・・こんなことが女御様に知れたら・・」
「妾に知れたらどうすると言うのじゃ?」
氷のような冷やかな声がして、女房達はゆっくりと振り向いた。
そこには彼女達が恐れている主人がこめかみに青筋を立てながら立っていた。
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