「仁錫様、お見舞いの品が届きました。」
「そうか。後でご婦人方にお礼の手紙を書くとしよう。」
「余り無理なさいませんように。」
「あぁ、わかっている。」
仁錫の寝室から出たパーシバルが厨房で仁錫の食事を作っていると、外が急に騒がしくなった。
「パーシバルさん、大変だ!」
「何かあったのですか?」
「それが、イソク様に会わせろと・・」
「そうか。わたしが行こう。」
パーシバルが厨房の裏口から外へ出ると、そこには汚い髪を振り乱しながら一人の女が叫んでいた。
「あの小僧を出せ!」
「申し訳ありませんが、主はあなたとはお会いになれません、どうかお引き取り下さい。」
「何ですって~!」
女は怒りで顔を歪ませると、パーシバルに唾を吐きかけた。
「旦那、どうしたんですかい?」
女とパーシバルが揉めている所を見ていた野菜売りが、そう言って女の顔を見た。
「ありゃ、こいつは向こうの通りに住んでいるフィッツですよ、旦那様!」
「この女を知っているのか?」
「はい、知っているも何も、この女は頭がおかしい事でこの界隈は有名なんですよ!さぁフィッツ、家まで俺が送ってやるから。」
「あたしはまだ・・」
「ほらほら、これ以上旦那を困らせるんじゃねぇぞ。」
野菜売りは意味不明な言葉を喚き散らしている女を連れて、通りの向こうへと消えた。
「どうした?外が騒がしかったようだが、何かあったのか?」
「いいえ、何でもありません。少し猫が暴れていただけです。」
「そうか。」
二階の寝室の窓から外の様子を覗いていた仁錫は、パーシバルの言葉を聞いた後、安心したような表情を浮かべ、寝室の奥へと消えていった。
「イソク様、ご昼食をお持ち致しました。」
「美味そうだな。」
「ええ、ミートパイですよ。」
「朝鮮に居た頃は、よく姫様がお粥を作って下さいました。」
「お粥・・オートミールのようなものですか?」
「あぁ。昔住んでいた妓楼の近くに薬草が生えている山があって、そこに良く薬草を摘みに行った。すっかり山で遊ぶ事に夢中になって、ベクニョ様に叱られたなぁ・・」
「ベクニョ?」
「当時、世話になっていた妓楼の女将だ。妓楼で暮らしていた頃はいつも人が居て賑やかで、時折あの頃の事を懐かしく思ってしまうよ。」
「そうですか。」
「それにしても、先程外で騒いでいた女性だが、俺の事を知っているのか?」
「さぁ。顔見知りの野菜売りの話では、あの女は頭がおかしいとか。イソク様がお気になさるような事ではございません。」
「そうか。」
「イソク様は皆さんを安心させる為に、早く良くなって頂かなければ。」
「あぁ、わかったよ。」
パーシバルが寝室から出て行った後、仁錫はナイトテーブルの引き出しから一通の手紙を取り出した。
その手紙は、ベクニョの訃報を知らせる、尚俊からのものだった。
ベクニョは、血が繋がっていなかったが、早くに母を亡くした仁錫と椰娜にとっては、母同然の存在だった。
肺病に罹っていたベクニョの最期は、眠るように穏やかなものだったという。
仁錫は、首に提げていたロケットを開いた。
そこには椰娜の写真と、もう一枚、ベクニョと椰娜と仁錫の三人が撮った写真があった。
『写真だって!?』
三人で写真を撮った日は、丁度教坊に朝鮮を旅行していた英国人女性がやって来た時だった。
朝鮮の文化や生活、風俗を研究していると言ったその女性は、記念撮影でもしましょうと椰娜達を誘ってくれたのだった。
『魂を抜かれたりしないのかい?』
『そんなもの、ありませんよ。』
三人で撮った写真は、今も色褪せずに仁錫と椰娜の互いのロケットにそれぞれ納まっている。
(どうか、安らかに・・)
仁錫は、ベクニョが眠る東の空に向かって、冥福の祈りを捧げた。
一方、サンクトペテルブルクでも、椰娜はベクニョの訃報を受け、彼女の冥福を祈る為に、朝鮮から持って来た伽耶琴を奏でていた。
『ユナお嬢様、アレクセイです。』
『暫く一人にして。』
『かしこまりました。』
『アレクセイ、あの子はどうしたの?』
『今日は、ユナお嬢様をそっとさし上げて下さい。』
『わかったわ。』
数日間、椰娜は自室に引き籠もり、指先に血が滲むまで狂ったように伽耶琴を奏でた。
『一体、あの子はどうしてしまったの?』
オリガは居間で刺繍をしながら、そう言った後顔を顰(しか)めた。
『お母様、あの子にとって母親代わりの方が亡くなられたのだから、あの子が塞ぎ込んでしまうのは当然でしょう。』
『でもね・・』
『わたしが少し、あの子の様子を見て来るわ。』
アナスターシャはそう言うと居間から出て、椰娜の部屋の前に立った。
『ユナ、わたしよ。』
『お姉様・・』
ドアが開き、部屋の中から現れたのは、まるで死人のように蒼褪めた顔をしている椰娜の姿だった。
『大丈夫?』
『申し訳ありませんでした、うるさくしてしまって・・』
『いいのよ。少し、休みなさい。』
『はい・・』
椰娜がそう言ってアナスターシャに頭を下げようとすると、急に激しい眩暈に襲われ、意識を失った。
『誰か、お医者様を呼んで!』
椰娜は、貧血と栄養失調で数日間入院する事になった。
『辛いのはわかるけれど、無理をしては駄目よ、わかったわね?』
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