JEWEL
日記・グルメ・小説のこと711
読書・TV・映画記録2699
連載小説:Ti Amo115
連載小説:VALENTI151
連載小説:茨の家43
連載小説:翠の光34
連載小説:双つの鏡219
完結済小説:桜人70
完結済小説:白昼夢57
完結済小説:炎の月160
完結済小説:月光花401
完結済小説:金襴の蝶68
完結済小説:鬼と胡蝶26
完結済小説:暁の鳳凰84
完結済小説:金魚花火170
完結済小説:狼と少年46
完結済小説:翡翠の君56
完結済小説:胡蝶の唄40
完結済小説:琥珀の血脈137
完結済小説:螺旋の果て246
完結済小説:紅き月の標221
火宵の月 二次創作小説7
連載小説:蒼き炎(ほむら)60
連載小説:茨~Rose~姫87
完結済小説:黒衣の貴婦人103
完結済小説:lunatic tears290
完結済小説:わたしの彼は・・73
連載小説:蒼き天使の子守唄63
連載小説:麗しき狼たちの夜221
完結済小説:金の狼 紅の天使91
完結済小説:孤高の皇子と歌姫154
完結済小説:愛の欠片を探して140
完結済小説:最後のひとしずく46
連載小説:蒼の騎士 紫紺の姫君54
完結済小説:金の鐘を鳴らして35
連載小説:紅蓮の涙~鬼姫物語~152
連載小説:狼たちの歌 淡き蝶の夢15
薄桜鬼 腐向け二次創作小説:鬼嫁物語8
薔薇王転生パラレル小説 巡る星の果て20
完結済小説:玻璃(はり)の中で95
完結済小説:宿命の皇子 暁の紋章262
完結済小説:美しい二人~修羅の枷~64
完結済小説:碧き炎(ほむら)を抱いて125
連載小説:皇女、その名はアレクサンドラ63
完結済小説:蒼―lovers―玉(サファイア)300
完結済小説:白銀之華(しのがねのはな)202
完結済小説:薔薇と十字架~2人の天使~135
完結済小説:儚き世界の調べ~幼狐の末裔~172
天上の愛 地上の恋 二次創作小説:時の螺旋7
進撃の巨人 腐向け二次創作小説:一輪花70
天上の愛 地上の恋 二次創作小説:蒼き翼11
薄桜鬼 平安パラレル二次創作小説:鬼の寵妃10
薄桜鬼 花街パラレル 二次創作小説:竜胆と桜10
火宵の月 マフィアパラレル二次創作小説:愛の華1
薄桜鬼 現代パラレル二次創作小説:誠食堂ものがたり8
薄桜鬼 和風ファンタジー二次創作小説:淡雪の如く6
火宵の月腐向け転生パラレル二次創作小説:月と太陽8
火宵の月 人魚パラレル二次創作小説:蒼き血の契り0
黒執事 火宵の月パラレル二次創作小説:愛しの蒼玉1
天上の愛 地上の恋 昼ドラパラレル二次創作小説:秘密10
黒執事 現代転生パラレル二次創作小説:君って・・3
FLESH&BLOOD 二次創作小説:Rewrite The Stars6
PEACEMAKER鐵 二次創作小説:幸せのクローバー9
黒執事 韓流時代劇風パラレル二次創作小説:碧の花嫁4
火宵の月 BLOOD+パラレル二次創作小説:炎の月の子守唄1
火宵の月 芸能界転生パラレル二次創作小説:愛の華、咲く頃2
火宵の月 ハーレクインパラレル二次創作小説:運命の花嫁0
火宵の月 帝国オメガバースパラレル二次創作小説:炎の后0
黒執事 フィギュアスケートパラレル二次創作小説:満天5
薄桜鬼 昼ドラオメガバースパラレル二次創作小説:羅刹の檻10
黒執事 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:碧の騎士2
薄桜鬼ハリポタパラレル二次創作小説:その愛は、魔法にも似て5
薄桜鬼 現代妖パラレル二次創作小説:幸せを呼ぶクッキー8
黒執事 転生パラレル二次創作小説:あなたに出会わなければ5
薄桜鬼 現代ハーレクインパラレル二次創作小説:甘い恋の魔法7
薄桜鬼異民族ファンタジー風パラレル二次創作小説:贄の花嫁12
火宵の月 現代転生パラレル二次創作小説:幸せの魔法をあなたに3
火宵の月 転生オメガバースパラレル 二次創作小説:その花の名は10
黒執事 異民族ファンタジーパラレル二次創作小説:海の花嫁1
PEACEMAKER鐵 韓流時代劇風パラレル二次創作小説:蒼い華14
YOI火宵の月パロ二次創作小説:蒼き月は真紅の太陽の愛を乞う2
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:炎の巫女0
火宵の月 韓流時代劇ファンタジーパラレル 二次創作小説:華夜18
火宵の月 昼ドラ大奥風パラレル二次創作小説:茨の海に咲く華2
火宵の月 転生航空風パラレル二次創作小説:青い龍の背に乗って2
火宵の月×呪術廻戦 クロスオーバーパラレル二次創作小説:踊1
火宵の月×薔薇王の葬列 クロスオーバー二次創作小説:薔薇と月0
金カム×火宵の月 クロスオーバーパラレル二次創作小説:優しい炎0
火宵の月×魔道祖師 クロスオーバー二次創作小説:椿と白木蓮0
薔薇王韓流時代劇パラレル 二次創作小説:白い華、紅い月10
火宵の月 遊郭転生昼ドラパラレル二次創作小説:不死鳥の花嫁1
火宵の月 現代転生パラレル二次創作小説:それを愛と呼ぶなら1
FLESH&BLOOD 千と千尋の神隠しパラレル二次創作小説:天津風5
鬼滅の刃×火宵の月 クロスオーバーパラレル二次創作小説:麗しき華1
薄桜鬼腐向け西洋風ファンタジーパラレル二次創作小説:瓦礫の聖母13
薄桜鬼 ハーレクイン風昼ドラパラレル 二次小説:紫の瞳の人魚姫20
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:黄金の楽園0
火宵の月 昼ドラ転生パラレル二次創作小説:Ti Amo~愛の軌跡~0
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:鳳凰の系譜0
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:鳥籠の花嫁0
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:蒼き竜の花嫁0
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:月の国、炎の国1
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:碧き竜と炎の姫君0
コナン×薄桜鬼クロスオーバー二次創作小説:土方さんと安室さん6
薄桜鬼×火宵の月 平安パラレルクロスオーバー二次創作小説:火喰鳥6
ツイステ×火宵の月クロスオーバーパラレル二次創作小説:闇の鏡と陰陽師4
陰陽師×火宵の月クロスオーバーパラレル二次創作小説:君は僕に似ている2
黒執事×ツイステ 現代パラレルクロスオーバー二次創作小説:戀セヨ人魚2
黒執事×薔薇王中世パラレルクロスオーバー二次創作小説:薔薇と駒鳥27
火宵の月 転生昼ドラパラレル二次創作小説:それは、ワルツのように1
薄桜鬼×刀剣乱舞 腐向けクロスオーバー二次創作小説:輪廻の砂時計9
F&B×火宵の月 クロスオーバーパラレル二次創作小説:海賊と陰陽師1
火宵の月×薄桜鬼クロスオーバーパラレル二次創作小説:想いを繋ぐ紅玉54
バチ官腐向け時代物パラレル二次創作小説:運命の花嫁~Famme Fatale~6
火宵の月 昼ドラハーレクイン風ファンタジーパラレル二次創作小説:夢の華0
火宵の月 現代ファンタジーパラレル二次創作小説:朧月の祈り~progress~1
火宵の月 現代転生パラレル二次創作小説:ガラスの靴なんて、いらない2
黒執事×火宵の月 クロスオーバーパラレル二次創作小説:悪魔と陰陽師1
火宵の月 吸血鬼オメガバースパラレル二次創作小説:炎の中に咲く華1
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:黎明を告げる巫女0
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:光の皇子闇の娘0
火宵の月 異世界ファンタジーパラレル二次創作小説:闇の巫女炎の神子0
火宵の月 戦国風転生ファンタジーパラレル二次創作小説:泥中に咲く1
火宵の月 和風ファンタジーパラレル二次創作小説:紅の花嫁~妖狐異譚~2
火宵の月 地獄先生ぬ~べ~パラレル二次創作小説:誰かの心臓になれたなら2
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FLESH&BLOOD ハーレクイン風パラレル二次創作小説:翠の瞳に恋して20
天官賜福×火宵の月 旅館昼ドラクロスオーバーパラレル二次創作小説:炎の宿1
火宵の月 異世界ハーレクインファンタジーパラレル二次創作小説:花びらの轍0
火宵の月 異世界ファンタジーロマンスパラレル二次創作小説:月下の恋人達1
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FLESH&BLOOD ファンタジーパラレル二次創作小説:炎の花嫁と金髪の悪魔6
名探偵コナン腐向け火宵の月パラレル二次創作小説:蒼き焔~運命の恋~1
火宵の月 千と千尋の神隠し風パラレル二次創作小説:われてもすえに・・0
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FLESH&BLOOD ハーレクイロマンスパラレル二次創作小説:愛の炎に抱かれて10
PEACEMAKER鐵 オメガバースパラレル二次創作小説:愛しい人へ、ありがとう8
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火宵の月×天愛クロスオーバーパラレル二次創作小説:翼がなくてもーvestigeー0
黒執事 昼ドラ風転生ファンタジーパラレル二次創作小説:君の神様になりたい4
薄桜鬼腐向け転生愛憎劇パラレル二次創作小説:鬼哭琴抄(きこくきんしょう)10
火宵の月×ハリー・ポッタークロスオーバーパラレル二次創作小説:闇を照らす光0
火宵の月 現代転生フィギュアスケートパラレル二次創作小説:もう一度、始めよう1
火宵の月 異世界ハーレクインファンタジーパラレル二次創作小説:愛の螺旋の果て0
火宵の月 異世界ファンタジーハーレクイン風パラレル二次創作小説:愛の名の下に0
火宵の月 和風転生シンデレラファンタジーパラレル二次創作小説:炎の月に抱かれて1
火宵の月×刀剣乱舞転生クロスオーバーパラレル二次創作小説:たゆたえども沈まず1
相棒×名探偵コナン×火宵の月 クロスオーバーパラレル二次創作小説:名探偵と陰陽師0
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火宵の月 異世界ファンタジーハーレクイン風昼ドラパラレル二次創作小説:砂塵の彼方0
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「仁錫様、お見舞いの品が届きました。」「そうか。後でご婦人方にお礼の手紙を書くとしよう。」「余り無理なさいませんように。」「あぁ、わかっている。」 仁錫の寝室から出たパーシバルが厨房で仁錫の食事を作っていると、外が急に騒がしくなった。「パーシバルさん、大変だ!」「何かあったのですか?」「それが、イソク様に会わせろと・・」「そうか。わたしが行こう。」 パーシバルが厨房の裏口から外へ出ると、そこには汚い髪を振り乱しながら一人の女が叫んでいた。「あの小僧を出せ!」「申し訳ありませんが、主はあなたとはお会いになれません、どうかお引き取り下さい。」「何ですって~!」 女は怒りで顔を歪ませると、パーシバルに唾を吐きかけた。「旦那、どうしたんですかい?」 女とパーシバルが揉めている所を見ていた野菜売りが、そう言って女の顔を見た。「ありゃ、こいつは向こうの通りに住んでいるフィッツですよ、旦那様!」「この女を知っているのか?」「はい、知っているも何も、この女は頭がおかしい事でこの界隈は有名なんですよ!さぁフィッツ、家まで俺が送ってやるから。」「あたしはまだ・・」「ほらほら、これ以上旦那を困らせるんじゃねぇぞ。」 野菜売りは意味不明な言葉を喚き散らしている女を連れて、通りの向こうへと消えた。「どうした?外が騒がしかったようだが、何かあったのか?」「いいえ、何でもありません。少し猫が暴れていただけです。」「そうか。」 二階の寝室の窓から外の様子を覗いていた仁錫は、パーシバルの言葉を聞いた後、安心したような表情を浮かべ、寝室の奥へと消えていった。「イソク様、ご昼食をお持ち致しました。」「美味そうだな。」「ええ、ミートパイですよ。」「朝鮮に居た頃は、よく姫様がお粥を作って下さいました。」「お粥・・オートミールのようなものですか?」「あぁ。昔住んでいた妓楼の近くに薬草が生えている山があって、そこに良く薬草を摘みに行った。すっかり山で遊ぶ事に夢中になって、ベクニョ様に叱られたなぁ・・」「ベクニョ?」「当時、世話になっていた妓楼の女将だ。妓楼で暮らしていた頃はいつも人が居て賑やかで、時折あの頃の事を懐かしく思ってしまうよ。」「そうですか。」「それにしても、先程外で騒いでいた女性だが、俺の事を知っているのか?」「さぁ。顔見知りの野菜売りの話では、あの女は頭がおかしいとか。イソク様がお気になさるような事ではございません。」「そうか。」「イソク様は皆さんを安心させる為に、早く良くなって頂かなければ。」「あぁ、わかったよ。」 パーシバルが寝室から出て行った後、仁錫はナイトテーブルの引き出しから一通の手紙を取り出した。 その手紙は、ベクニョの訃報を知らせる、尚俊からのものだった。 ベクニョは、血が繋がっていなかったが、早くに母を亡くした仁錫と椰娜にとっては、母同然の存在だった。 肺病に罹っていたベクニョの最期は、眠るように穏やかなものだったという。 仁錫は、首に提げていたロケットを開いた。 そこには椰娜の写真と、もう一枚、ベクニョと椰娜と仁錫の三人が撮った写真があった。『写真だって!?』 三人で写真を撮った日は、丁度教坊に朝鮮を旅行していた英国人女性がやって来た時だった。 朝鮮の文化や生活、風俗を研究していると言ったその女性は、記念撮影でもしましょうと椰娜達を誘ってくれたのだった。『魂を抜かれたりしないのかい?』『そんなもの、ありませんよ。』 三人で撮った写真は、今も色褪せずに仁錫と椰娜の互いのロケットにそれぞれ納まっている。(どうか、安らかに・・) 仁錫は、ベクニョが眠る東の空に向かって、冥福の祈りを捧げた。 一方、サンクトペテルブルクでも、椰娜はベクニョの訃報を受け、彼女の冥福を祈る為に、朝鮮から持って来た伽耶琴を奏でていた。『ユナお嬢様、アレクセイです。』『暫く一人にして。』『かしこまりました。』『アレクセイ、あの子はどうしたの?』『今日は、ユナお嬢様をそっとさし上げて下さい。』『わかったわ。』 数日間、椰娜は自室に引き籠もり、指先に血が滲むまで狂ったように伽耶琴を奏でた。『一体、あの子はどうしてしまったの?』 オリガは居間で刺繍をしながら、そう言った後顔を顰(しか)めた。『お母様、あの子にとって母親代わりの方が亡くなられたのだから、あの子が塞ぎ込んでしまうのは当然でしょう。』『でもね・・』『わたしが少し、あの子の様子を見て来るわ。』 アナスターシャはそう言うと居間から出て、椰娜の部屋の前に立った。『ユナ、わたしよ。』『お姉様・・』 ドアが開き、部屋の中から現れたのは、まるで死人のように蒼褪めた顔をしている椰娜の姿だった。『大丈夫?』『申し訳ありませんでした、うるさくしてしまって・・』『いいのよ。少し、休みなさい。』『はい・・』 椰娜がそう言ってアナスターシャに頭を下げようとすると、急に激しい眩暈に襲われ、意識を失った。『誰か、お医者様を呼んで!』 椰娜は、貧血と栄養失調で数日間入院する事になった。『辛いのはわかるけれど、無理をしては駄目よ、わかったわね?』にほんブログ村
2021.12.02
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仁錫(イソク)を尾行していたパーシバルは、彼がいかがわしい通りへと入ってゆくのを見て、そっと彼の後を追った。「お兄さん、あたしらと遊ばない?」「安くしておくわよ。」「申し訳ないけれどレディ達、今夜は君達と遊んでいる暇はないんだ。」 パーシバルは、娼婦達を上手くあしらうと、仁錫が入っていった酒場へと向かった。 その中には、ロマの老若男女がそれぞれ酒を飲んでは歌ったり踊ったりと騒いでいた。「パーシバル、良くわたしを見つけたな?」「えぇ。あなたが最近、行き先を告げずに何処かへ出かけられるので、後を尾けさせて頂きました。それに、最近あちらのテーブルに座っていらっしゃる方とお会いになられているという噂をお聞きしました。」「・・流石、わたしの秘書だな。それで?わたしをあの家へ戻すつもりか?」「いいえ。わたしも、彼らの話を聞いてみたいと思いましてね・・」「ふふ、お前ならそう言うと思った。」「ジャックさん、こちらへ。」「どうも、あんたが、あの優秀な秘書さんかい?」「おや、わたしの事をご存知なのですね?それならば、今更自己紹介は不要ですね。」「はは、そうだな。」 ジャックはそう言って笑うと、持っていたワイングラスを高く掲げた。「あんたのご主人様と会っているのは、この理不尽な社会を変える為さ。」「・・成程、ロマの人権保護活動にあなたが力を注いでいらっしゃるというのは、確かなようですね。」「さてと、挨拶も済んだところだし、乾杯といこうか?」「ええ・・この出会いに、乾杯。」「乾杯!」 パーシバルは、ジャックと少し話をした後、仁錫と共に酒場から出た。「すっかり暗くなってしまいましたね。辻馬車を呼んで参りましょう。」「わかった。」 パーシバルが辻馬車を呼んでいる間、仁錫が夜の喧騒に少し耳を澄ませていると、そこへ一人の少女がやって来た。「旦那様、お花を・・」「全部貰おうか。」「ありがとうございます。旦那様に幸運がありますように!」「君にもね。」「イソク様、その花は?」「可愛い花売りから貰ったのさ。」「そうですか。酒場での事はわたくしが旦那様には黙っておきますね。」「あぁ、わかった。」「あのジャックという方、余り信用出来ませんね。」「そうか?」「ええ。」「お休み。」「お休みなさいませ。」 仁錫が寝室へと引き上げたのを見届けたパーシバルは、自室で何か考え事をした後、眠った。 翌朝、パーシバルが仁錫の部屋のドアをノックすると、中から反応がなかった。「イソク様、入りますよ?」「おはよう、パーシバル。」 そう言った仁錫の声は、少し枯れていた。「熱がありますね。今日の予定は全てキャンセルに致しましょう。」「あぁ、頼む・・」 すぐさまパーシバルは医者に仁錫を診て貰うと、彼は軽い肺炎だと診断された。「喘息がこの寒さの所為で悪化してしまったようですね。」「そうでしたか。」「パーシバル、心配を掛けてしまって済まないな。」「いいえ。イソク様、どうかお身体を治してくださいね。」「わかった・・」「イソク様はどうかなさったのかしら?」「お風邪を召されたそうよ。」「まぁ、大変!お見舞いに行きませんと!」「皆さん、そんな事をなさったらかえってイソク様のご迷惑となってしまうわ。」「まぁ、そうですわね。」「では、イソク様にお手紙を書きましょう。」「いいですわね。」 仁錫は、サンクトペテルブルクから届いた椰娜の手紙を読みながら、思わず頬が弛んでしまった。“あなたの風邪が早く治りますように。キスと愛をこめて、Yより。” 仁錫はすぐに、椰娜への手紙の返事を書き始めた。“親愛なる姫様へ・・”にほんブログ村
2021.10.21
“仁錫(イソク)、今回の事はお父様とそのご友人の完全な誤解だったようです。人騒がせな人達だったわね。” 仁錫は椰娜(ユナ)の手紙を読みながら、思わず苦笑してしまった。『何やら楽しそうね?何かあったの?』『いいえ、こちらの話です。それよりも最近、義姉上のお姿を見ませんね?何かあったのですか?』『ええ、あの子は婚約者とデートしているのよ。』『そうですか・・それはおめでとうございます。カトリーヌ義姉上のことがありましたから、暫くそういったお話は来ないのかと思いましたよ。』棘を含んだ言葉を仁錫がエリザベスに投げつけると、彼女はムッとした表情を浮かべた。『まぁ、あなたもそろそろいい歳だし・・』『申し訳ありませんが、わたしはまだ結婚など考えておりませんよ?まだ男として半人前ですからね。』自分に縁談を持ちかけようとするエリザベスの言葉を途中で遮った仁錫は、さっと彼女の脇を通り過ぎた。『全く、可愛げのない子だこと・・』 一人廊下に取り残されたエリザベスは、そう言うと歯噛みした。『お帰りなさい、父上。ロシアでは色々とおありになりましたね。』『あ、ああ・・』 その夜、ロシアから帰国したマッケンジー大尉を笑顔で迎えた仁錫は、そう言って彼にあの話を振ると、彼は笑顔を浮かべた。『まぁ金を騙し取られなくてよかったですね。』『イソク、お前には迷惑を掛けてしまったな。』『そんなこと、お安いご用ですよ。それよりも、わたしの友人には会いましたか?』『ああ、ユナさんにお会いしたが、聡明な人だな。ああいう人がイソクの奥さんになってくれるといいんだが。』『それは無理でしょう。男同士で結婚など出来ませんから。』 仁錫の言葉を聞いたマッケンジー大尉がワイングラスを落としそうになったが、慌ててそれを掴んだ。『ユナさんは、男なのか?』『ええ。ですがとある事情により、貴族の令嬢として生きています。さてと、わたしはそろそろ出掛けなければなりませんから。』『そうか・・』『余り遅くには帰ってきませんので、ご心配なく。』玄関ホールでさっと外套を羽織った仁錫は、門まで歩いて向かった。『イソク様、どちらへ?』『パーシバル・・まだ居たのか?今夜は妹の家に泊まるんじゃなかったのか?』『そのつもりでしたが、あなたが最近不審な行動をなさっておられるので、それを探ろうとしているだけです。』パーシバルは、そう言うと仁錫の腕を掴んだ。『心配するな。ただ知人に会うだけだ。』『そうですか。ではお気をつけていってらっしゃいませ。』それ以上彼は仁錫を追及する事はなく、門の前で仁錫に頭を下げて彼を見送った。だが彼の胸には、仁錫への不信が生まれ始めていた。(最近イソク様は何をなさっておられるのだろう?)仁錫が行き先を告げずに何処かへと外出して行く姿をまた見たパーシバルは、彼を尾行する事にした。
2013.09.04
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『どうって・・わたしは、あなた方のお話を聞く為にご招待したのです。いけませんか?』『いえ、ですが彼を同席させることは聞いておりませんでしたな。』そう口火を切ったマッケンジー大尉は、そう言うとアルフレドを睨んだ。『それは申し訳ございません。騙し討ちのようなことをしてしまって・・』『全くです!失礼極まりない!』マッケンジー大尉はそう言うと、腰を浮かして椅子から立ち上がろうとしていた。『マッケンジー様、そうお怒りにならないでください。どうぞおかけになってください。』『そうは言われましてもね・・』『さぁ、どうぞ。今日はお二人の為に特別なワインを用意したのですよ。』アレクセイはそう言ってマッケンジー大尉とアルフレドに微笑むと、指を鳴らした。 すると、ダイニングに入って来た数人のメイド達が料理を運んできた。『お二人はお互いに騙されたとおっしゃっておられるようですが、いい機会なので双方の主張を聞きたいと思います。』椰娜(ユナ)はメインディッシュのステーキに舌鼓を打ちながら、そう言ってマッケンジー大尉とアルフレドを見ると、彼らは互いに目を合わせようとはしなかった。『では、わたしから説明いたしましょう。この男にいい投資話を持ち出され、わたしは全財産を彼に預けそうになりました。しかし後日調べてみると、その投資話は嘘だったんです!』『おい、口を慎め!大体、貴様がそんな話にホイホイと乗ったのが悪いんだ!』『何だと!』『お二人とも、落ち着いて下さい。マッケンジー様、あなたはアルフレド様に大金を渡したりはなさっていないんですよね?』『当たり前だ、こんなペテン師に渡す金などない!』いきり立ち、椅子から乱暴に立ち上がろうとするアルフレドを、アレクセイが何とか押さえつけていた。『それならば、何のトラブルも起きておりませんね。』『それは、そうですが・・』『実はわたくし、マッケンジー様のご子息から手紙を頂きましたの。父を助けて欲しいと。』『イソクが?』『ええ。大事なのかと思って、こうしてお二人を昼食にご招待してお話を伺いましたが、どうやら勘違いだったようですね?』椰娜はそう言って二人を見ると、彼らはバツの悪そうな顔をして俯いた。『ユナお嬢様、ワインは如何致しましょう?』『そろそろ出して頂戴。あとデザートもお願いね。』『かしこまりました。』アレクセイはさっと椅子から立ち上がると、ダイニングから出て行った。『どうやら今回の事は、互いに誤解していたようだ。あなたのお手を煩わせてしまって、申し訳ない。』『いいえ。これで安心して仁錫(イソク)に手紙で報告できますわ。さぁ、ワインを頂きましょう?』椰娜はそう言って二人に微笑んだ。『またいらしてくださいね。』『ええ。では、これで。』『お気をつけてお帰り下さいませ。』 入って来たのとは対照的に、上機嫌な表情を浮かべて外へと出る二人を、椰娜は妓生(キーセン)時代に“武器”と称していた最高の笑顔を浮かべて彼らを送り出した。
『それは、一体どういう意味でしょうか?』『言葉どおりです。あいつは助けが必要な時にわたしを裏切ったんです。』アルフレドは苦痛に満ちた表情を浮かべながら椰娜(ユナ)を見た。『おかしいですわね、マッケンジー様からはあなたにもう少しでお金を騙し取られそうになったとおっしゃっておられたのに。』仁錫(イソク)からの手紙の内容をそのままアルフレドに話すと、彼は目をカッと見開いて声高にこう叫んだ。『あいつは嘘吐きなんだ!俺はあいつに騙されただけだ!』椰娜が周囲を見渡すと、何事かと貴族達がバルコニーの方をチラチラと見ていた。ここで騒ぎを起こすのはまずいーそう思った椰娜は、彼を昼食に招待することにした。『あなたのこと、もっと知りたいわ。ここでは会う時間が限られているでしょう?もしあなたのご都合が良ければ、昼食にご招待したいのだけれど・・』『是非伺わせていただきます。』アルフレドはそう言って椰娜に背を向け、バルコニーから去っていった。“アルフレドという方と会いました。どうやら彼とあなたのお父様との意見が食い違っているようです。彼はあなたのお父様に騙されていると言っています。明日、彼を昼食に招待する事にしました。” 帰宅後、椰娜が仁錫(イソク)に向けた手紙をしたためていると、アレクセイがドアをノックして部屋に入って来た。『それは、お友達へのお手紙ですか?』『ええ。友達のお父様が、ある人にお金を騙し取られそうになったトラブルが起きたんですって。何でも、その方はお父様のご友人だったとかで・・』『親しいご友人同士でも、金銭の話はしないものです。一体何のトラブルがあったのかわからない限り問題の解決は無理ですね。』『ええ。明日昼食にその方をご招待したのだけれど、その友達のお父様もご招待したいのよ。でもどのホテルに泊まっていらっしゃれるのかわからないし・・』『ご心配には及びませんよ、お嬢様。マッケンジー大尉にはわたくしから招待状をお送り致しました。』『まぁ、いつの間に?』『実は昨日、マッケンジー大尉にお会いして、今回の問題についてお話を伺いました。彼はその元友人の方に騙されていると主張しております。問題を解決するには、両者を会わせるしかないでしょう。』『そうね。一方的にどちらかの言い分を聞いて誰が悪いかを決めつけるのはよくないことだもの。』椰娜はそう言ってアレクセイに微笑むと、明日に備えて眠ることにした。『お嬢様、おはようございます。』『おはよう。あら、お義母様とお姉様は?』『お二人は既にお出かけになられました。それよりも昼食の準備は全て整っておりますので、ご心配なく。』『そう。全てあなたにお任せするわ。』どうか上手くいきますように―椰娜はそう思いながらコーヒーを飲んだ。 そろそろ約束の時間だというのに、二人が一向に姿を現さないことに椰娜は不審を抱き始めた。『何かあったのかしら?』『事故か何かに遭われたのでしょうか?』玄関ホールを椰娜が右往左往していると、ドアが開き、玄関ホールにマッケンジー大尉とアルフレドが不機嫌そうな表情を浮かべながら入って来た。『ようこそいらっしゃいました。どうぞ、こちらですわ。』『ユナさん、これは一体どういうことかね?』 椰娜が顔を上げると、二人の男達は剣呑な視線を椰娜に揃って向けていた。
“仁錫(イソク)、わたしは出来る限りの事をしてあなたのお父様をお助けしたいと思っております。だから、心配しないでね。” 便箋の上に羽根ペンで仁錫への手紙を書いた椰娜(ユナ)は、それを封筒に入れようとした。しかしその前に、誰かがドアをノックした。『どなた?』『ユナお嬢様、お客様です。』『お客様ですって?どなたかしら?』『アルフレド様とおっしゃる方です。』その名を聞いて、椰娜は無意識に身構えてしまった。『今行くとお伝えして。』『はい、わかりました。』メイドが部屋から出て行くのを確かめた椰娜は、手紙を封筒の中に入れ、蜜蝋を捺(お)した。『アレクセイ、何処?』『お呼びでしょうか、ユナお嬢様。』階下へと降りる途中、椰娜はアレクセイに仁錫への手紙を託した。『これは友人宛の手紙なの、至急郵便局に行って出してきてくれない?』『わかりました。それよりもお客様をお待たせしてはいけませんよ、お嬢様。』『わかっているわ。』 数分後、椰娜が客間に現れると、そこには長身の男がソファに座ってクッキーを頬張っていた。『お待たせしてしまって申し訳ありません。』『こちらこそ急に押しかけてきてしまい、申し訳ありません。わたくしはこういう者です。』男は椰娜の姿を見ると慌ててソファから立ち上がり、椰娜に名刺を渡した。『金融コンサルタント・・聞き慣れない職業ですね。』『まぁ、銀行家とは違いますがね。殆どの方はわたしのことを金貸しだと勘違いしていらっしゃるんですよ。』『そうでしたの。でも名刺を拝見しただけでは、あなたのお仕事がわかりませんわ。わたくしにも解るように説明して下さるかしら?』椰娜がそう言って自称金融コンサルタント・アルフレドを見ると、彼の顔がパァッと輝いた。『わたしは企業や個人に儲かりそうな株を勧めているんですよ。』アルフレドはそう言うとおもむろに鞄の中から一枚の書類を取り出した。『これは?』『実はもうすぐ、南米で鉄道事業が始まりましてね。絶対損はさせませんから、投資してはいかがです?』胡散臭い話だと椰娜は思い、彼に笑顔を浮かべながらこう言った。『申し訳ございません、わたくしそういったものに興味はありませんの。』『これは失礼致しました。では、わたしはこれで。』『お客様をお送りしなさい。』メイドに連れられて客間から出て行くアルフレドの背中を見ながら、この程度のことで彼が簡単に諦めるわけがないだろうと椰娜はそうにらんでいた。 その予想が的中したのは、数日後のことだった。父に連れられ、とある貴族の舞踏会に出席した椰娜は、そこでアルフレドと再会した。彼は貴族達にあの胡散臭い話をしていた。『あら、奇遇ですわね。』『これはユナお嬢様、今宵はいつにも増してお美しい。』『お世辞でも嬉しいわ。』自分の手の甲にキスをするアルフレドの目的を聞きだすにはいいチャンスだと思った椰娜は、彼をバルコニーへと誘いだした。『アルフレド様、マッケンジー大尉というお方をご存知?あなたの昔のご友人だと聞いたのだけれど・・』『あいつはもう友人でも何でもありません。』アルフレドはそう吐き捨てるような口調で言うと、月を眺めた。
社交界の集まりから、エリザベス達は除外されるようになった。原因は、バロワ伯爵のお気に入りである仁錫(イソク)を蔑ろにしたことだった。 元々エリザベス達は自己中心的な性格で、自分達に逆らう者に対して盗みの濡れ衣を着せたりして自分達のコミュニティから除外したりといった陰湿な嫌がらせを繰り返していた。その所為か、彼女達を嫌う者は多く、仁錫の件で彼女達を見限った者が多かったのである。『まったく、どうかしているわ、あの人達!』エリスはそう叫びながら、苛立ちを枕にぶつけた。『お嬢様、落ち着いてくださいませ。』『そんな事言われても落ち着いていられないわよ!』『あの方達はきっとお嬢様のことを誤解しているんですわ。だから、気に病まれることは・・』『うるさいわねぇ、あなたわたしに説教するなんて何様のつもりなの!?さっさと出て行ってよ!』エリスに怒鳴られたメイドは、そそくさと部屋から出て行った。『またあの人のヒステリーの発作が起きたんですね。あなたも苦労なさることだ。』 メイドが廊下を歩くと、仁錫はそう言って彼女を見た。突然この家にやって来た彼は、いつの間にかエリザベス達よりも上の立場に立っていた。『ええ、困ったものですわ。一体何が気に入らないのかわかりません。』思わず本音をこぼしてしまった彼女が慌てて口を両手で押さえると、仁錫はクスクスと笑った。『あんな人は放っておきなさい。』『わかりました。ではこれで失礼致します。』そう言って仁錫の前から立ち去ったメイドの顔は、少し赤くなっていた。『イソク様、ロシアにいらっしゃる旦那様からお手紙が届きました。』『父から?』 パーシバルから父の手紙を渡された仁錫が手紙の封を切ると、パーシバルは仁錫の前に腰を下ろした。『何と書いてあったのですか?』『父は帰りが遅くなるそうだ。何でも、向こうで厄介事に巻き込まれたとか。』『厄介事とは?』『何でも、昔縁を切った友人と再会したらしい。』『それは厄介ですね。旦那様のご友人だった方は、アルフレド様でしょうか?』『何者なんだ、そいつは?』『旦那様と同じ寄宿学校に通っていらした方で、卒業後は金融業で成功いたしました。かなり阿漕な方法で金を稼いでいたようで、ご友人の多くが縁を切られたとか。』『そうか。その男が何故今更父にすり寄って来たんだ?』『それは手紙ではわかりませんね。旦那様にお会いしたいのですが、何せロシアまで行くのは骨が折れますからね。』『そうだな・・』父の身に一体何があったのか仁錫は直接彼に会って確かめたかったが、多忙の身でそれは無理だった。父に会う代わりに、彼は椰娜(ユナ)にある手紙を書いた。“親愛なる姫様、急にお手紙を出す無礼をお許しください。実はわたしの父、マッケンジー大尉がロシアで厄介事に巻き込まれてしまいました。どうやら父はアルフレドという男と再会して何かがあったようです。そこで姫様にお願いがあります。アルフレドの正体を探って下さい。無理なお願いだということはわかっております。 仁錫より”仁錫からの手紙を読んだ椰娜は、すぐさま彼に返事を書き始めた。
翌日、仁錫(イソク)はその足で「ニューディール日報」の本社ビルを訪れた。『あなたが、イソクさんですね?初めまして、社長のリスターと申します。』そう言って仁錫を出迎えたニューディール日報社長・アレックス=リスターは笑顔を浮かべた。『お忙しい中、わざわたしの為にお時間を割いていただきありがとうございます。』『いえいえ、こちらこそ。あなたのことをいつかは取材したいと思っていたんですよ。さぁ、こちらへお掛け下さい。コーヒーで宜しいですか?』『コーヒー、ですか?』『ええ。最近アメリカで流行している飲み物なんですよ。』リスター氏はそう言って奥のオフィスへと引っ込むと、ティーカップに黒褐色の液体を淹れた後、それを仁錫の前に置いた。『どうぞ。』『いただきます。』仁錫はその液体を訝しげに見つめた後、一口飲んだ。その瞬間、口内に苦味が広がった。『これは・・』『わたしもはじめはこの苦さに慣れませんでしたが、角砂糖を入れれば大丈夫ですよ。』『そうですか。』仁錫はコーヒーに角砂糖を入れて飲むと、苦さが少し和らいだ。『それだけでは口寂しいでしょうから、これもどうぞ。』そう言ってリスター氏が紙袋から取り出したのは、焼き立てのパンだった。『不思議な形をしていますね。中央に穴が開いています。』『ベーグルといって、元々はユダヤ人が食べていたようですよ。それがアメリカに伝わって広まったとか。』『色々と珍しい物があるのですね、アメリカには。』『ええ。それよりも、わたしにお話とはなんでしょう?』『あなたは、ロマの問題を積極的に取り上げているとお聞き致しました。』仁錫の言葉を聞いたリスター氏の顔から、笑顔が消えた。『確かにわたしは、ロマの問題を取り上げて居ます。一言にいっても、ロマの雇用や教育、結婚などで様々な差別を彼らは受けている。数週間前、イーストエンドでロマの少年が殺されましたが、スコットランド=ヤードは動こうとはしなかった。』『それは、被害者がロマだからですか?』『ええ。スコットランド=ヤードはロマを一方的に犯罪者扱いし、治安の悪化は彼らの所為であると言う乱暴な意見を言うものまでいる。』『そうですか。それで、犯人は見つかったのですか?』『いいえ。捜査を打ち切られたので、事件は迷宮入りになりました。』リスター氏は溜息を吐きながら、今朝発売されたばかりの新聞を仁錫に渡した。その一面には、ブタペストでスラブ系住民達による暴動を取り上げた記事が載っていた。『ブタペストでは、ロマを排斥する運動が我が国よりも激しい。その上、オーストリア=ハンガリー帝国の支配下によるスラブ系の迫害も起きている。この世の中は不条理に溢れている・・そう思いませんか?』『ええ。』 数時間後、仁錫がニューディール日報のビルから出て行くのを、一人の男が木陰から見ていた。『ただいま戻りました。』『最近、帰りが遅いのね。』『ええ。奥様、今夜は婦人会の集まりではなかったのですか?』『急に都合が悪くなったと、バーンズ夫人から電報が届いたのよ。』『そうですか、それは残念でしたね。バーンズ夫人はあなたと懇意にしていらっしゃる方でしたのに。』仁錫は嫌味をエリザベスに言うと、彼女は不快そうに顔を顰(しか)めた。
『少し、酒を飲みながら俺の昔話に付き合って下さいよ。』『ええ・・』緊張が解けた仁錫(イソク)は、そう言うと椅子に腰を下ろした。『俺ぁ、ロマとの混血でねぇ。父親はハンガリーだかルーマニアだかの貴族の男で、母親はその愛人だったロマの女さ。それで、二人の間に出来ちまったのが俺だ。』『はぁ・・』仁錫は、一体彼が何を言いたいのかがわからずにいた。『母親は俺が産まれた後、親父の本妻に無一文同然で追い出された。まぁ、ロマの使用人に亭主を寝取られたって社交界に知られたら屈辱だもんな。それに、その本妻はハプスブルク家かなんかの遠縁に当たる娘だったらしいから、親父も彼女には頭が上がらなかったんじゃねぇかと思ってんだよ。』『ジャック様、少しお話宜しいでしょうか?』『何だい?』『あの・・わたしに一体何をおっしゃりたいのでしょうか?』『あんたが朝鮮人の母親を持つ混血児だってきいてね。あんたがどんな境遇で育ったのか興味があるから、その前に俺が自分の境遇を話したってことだ。』『そうですか・・先日父の秘書が、ロマの事を少し話してくれました。』『“犯罪者集団”だの何だのと言っていたのでしょう、その秘書は。言っておきますが、それは大きな誤解です。彼らは自ら喜んで犯罪に手を染めているわけではない、貧困ゆえにそうせざるおえなくなったのです。』ジャックはそこで言葉を切ると、窓のカーテンを開けて工場から立ち上る煙突を眺めた。『この国で産業革命が起きて、我が国は最強国となった。アフリカ・アジア諸国を植民地とし、その国の利益を我が国に還元させている。しかしその実、革命の利益で潤っているのは一部の資産家と貴族だけだ。大半の者は劣悪な環境下で長時間労働に耐え、低賃金で家族を養っている。その中でさえ、ロマは弾かれているのです。』ジャックは窓から視線を外すと、ゆっくりと仁錫の方に向き直った。『あなたは、この世界を変えてみたいと思いませんか?不平等かつ理不尽が罷り通る世の中を。』彼の言葉を聞き、仁錫の脳裏に過去の辛い出来事が浮かんできた。もう思い出したくもない過去を振り払うかのように、仁錫は頭を振った。『ええ。わたしも色々と辛い思いをしましたから。』『そうか。こっちだってロマに対する差別は激しいが、あんたの母国ではこっちよりも激しい差別に遭ったんだろう?』『朝鮮人以外は人間ではない、と面と向かって言われたことがありました。何も悪い事はしていないというのに、一方的に責められて何度悔しかった思いをしたことか・・』 悔しそうに唇を噛んだ仁錫の肩を、ジャックは優しく叩いた。『俺も色々と差別に遭ってきたから、あんたの気持ちは良くわかる。血筋だけで全てを手に出来る人間が甘い汁を啜る世の中なんざ壊してやろうと思わねぇのか?』『どうやって変えろというのです?』『いいか、フランス革命を思い出してみろ。革命を起こして国王達を処刑したのは、貴族の奴らに虐げられてきた民衆どもだ。一人じゃ何も出来ないが、仲間が集まればそれはやがて大きな力になるんだ。』『大きな力に・・』ジャックの言葉に、仁錫は大きく揺さ振られた。(わたしも、この世の中を変えられることができるのだろうか?) 差し出されたジャックの手を、仁錫は取った。その瞬間、何かが変わったような気がした。
扉を開けて仁錫(イソク)が中に入ると、そこには喧騒と音楽に満ちた空間が広がっていた。 ロマの男女が音楽に合わせて激しいダンスをし、その周りを彼らの仲間が囲んで酒を飲み交わしていた。今まで貴族の社交場にしか顔を出さなかった仁錫は、この異国情緒あふれる酒場に一種のカルチャーショックを覚えたのだった。『来てくれたのかい?』『ええ。あなたからのお誘いをお断りしては失礼だと思いましたので。』ルーマニア産のワインを堪能しつつも、ジャックは椅子から立ち上がって仁錫を迎えた。『それは?』『ああ、ルーマニアのワインだ。少し飲むか?』『ではお言葉に甘えて頂きます。』ジャックからワインを受け取った仁錫は、それを一口飲んだ。何だか鉄錆のような味がした。『どうです?』『このワインが作られた樽(たる)は熟成されたものでしょうか?何だか鉄錆のような味がいたしますね。』ジャックは仁錫の言葉を聞くなり、大声で笑った。『どうされましたか?』『いえ・・思ったことをそのままはっきりと言うお方だなと思いまして。社交界の連中は、嫌な相手を前にしても笑顔を浮かべて世辞を言うのが当たり前ですから。』『わたしは嫌いな相手に媚を売るほど、人間が出来ておりませんもので。』仁錫の蒼い瞳を覗きこみながら、ジャックは彼に興味を持ち始めた。彼の姉・エリスから仁錫を社交界から追放するようにと命じられたが、どうやら彼とは気が合いそうだ。『さてと、あなたともっと話がしたい。奥の方に部屋がありますので、そちらでお話を。ここは騒がしい上に人目があって落ち着かないでしょう?』『そうですね。』酒を飲ませジャックが自分を油断させようとしていることを見抜いた仁錫は、その手には乗るまいと敢えて彼の誘いに乗った。 奥の部屋に入った仁錫は、暫くドアの前に立っていた。『どうなさったのですか?』『あなたは一体、何を企んでおいでですか?このような人気のない場所にわたしを誘い出したりする理由はただひとつ・・わたしを社交界から追い出そうと画策している義姉が絡んでいるのでしょう?』『ほう、ご彗眼なことで。俺は嘘を吐けない性質(たち)でねぇ、あの女の顔を見るのもうんざりしていたので、ここで全てお話いたしますよ。』ジャックは大仰な溜息を吐くと、椅子の上に腰を下ろした。『あんたの姉さんは、あんたがバロワの爺さんに気に入られたことに相当腹を立てているんだ。その上、妹の不祥事があっただろう?』『あの人の事は自業自得なのです。賭博に溺れ、身を滅ぼしただけのこと。』『この世の誰もがあなたみたいに真っ直ぐな人間だったら、ちょっとは良い世の中になったもんかなぁ?』ジャックはそう呟くと、仁錫にゆっくりと近づいた。仁錫は咄嗟に身構えると、護身用の銃を外套の中で握った。『大丈夫、あんたに手出しはしませんよ。あんたとは気が合いそうですしね。』ジャックはサイドテーブルに置いてあったワインのボトルを手に取ると、それを一口飲んだ。
翌日、園遊会で仁錫(イソク)は、パーシバルが話す“吸血鬼”と会った。彼は癖のある黒髪をなびかせながら、悠然とした足取りで仁錫の前に現れた。『ふぅん、君が“氷の貴公子”様か?なるほど、冷たそうな顔をしているな。』『お褒めの言葉、ありがたく頂戴いたします。あなたは確か、“吸血鬼”と呼ばれているお方ですね?初めてお会いした時、トランシルヴァニアの方からいらしたのかと思いました。』『こりゃどうも。結構言うのですねぇ。』ジャックはじろりと紫の瞳で仁錫を見た後笑った。『これから宜しくお願い致しますね。』『こちらこそ。』ジャックに差しだされた手を、仁錫は力強く握った。『ジャック様、こちらにいらっしゃられたのですか。』仁錫がシャンパンを飲んでいると、ジャックの元に一人の男が現れた。『アリョーシャじゃねぇか。ま、楽しんでけよ。』ジャックはそう言うと、仁錫の方を見た。『ちょっと失礼。』彼は仁錫の方へと歩き出し、彼に向かって微笑みかけた。『何でしょうか?』『そんなにツンケンしていたら、誰も近寄って来ないぜ?』『余計なお世話です。何のご用でしょうか?』『あなたに、俺の友人を紹介するのを忘れてしまいましてね。アリョーシャ、来い!』慌てて先程の男が仁錫の方へと駆けて来た。『初めまして、わたしはアリョーシャと申します。』『初めまして。』アリョーシャはそう言うと、仁錫の前に手を差し出した。『アリョーシャはロマの音楽家なんだぜ。』『ロマ?』『ああ、イソクさんはまだこちらに来て日が浅いんでしたよね?彼らは素晴らしい民族ですよ。一度お会いになられるといい。』『そうですか。』『それでは、俺達はこれで。』アリョーシャとジャックの姿が見えなくなった途端、一人の貴婦人が仁錫の方へと駆け寄ってきた。『あなた、あのロマとは親しいの?』『いいえ、さきほど知り合ったばかりですが、それが何か?』『ロマと親しくしてはなりませんよ。あいつらはならず者で、人の物を平気で盗む輩なんですからね。』彼女は吐き捨てるかのような口調でそう言うと、仁錫の前から足早に立ち去っていった。『パーシバル、ロマとは何だ?先程のご婦人の話を聞く限り、何だか疎まれているようだが・・』『ロマは、余り歓迎されていない存在なのですよ。』パーシバルはそう言うと、仁錫を見た。『ある貴族の方は、ロマを犯罪者集団と憚(はばか)らずにおっしゃっております。それほど、ロマ絡みの犯罪が多いのですよ。』『そうか・・』 ロマが本当に、“犯罪者集団”なのかどうか仁錫は知りたくなり、ジャックの友人・アリョーシャの元を訪ねることにした。『来てくださったんですか。さぁ、どうぞ。』
仁錫(イソク)は社交界で、“氷の貴公子”と呼ばれていることに気づいたのは、パーシバルとともにある貴族の舞踏会に出席した時だった。『君が、噂の氷の貴公子だね?』『氷の貴公子とは?』『おや、君は自分がどう呼ばれているのか知らないのかね?』『申し訳ありません、自分の事に疎いもので。』『これからは、自分がどう見られているのか気をつけなければね。』『はい・・』舞踏会の後、パーシバルに人気のない場所へと連れて行かれた仁錫は、彼に溜息を吐かれた。『どうしたんですか?』『イソク様、あなたは無意識に周囲に敵を作っているのではないですか?』『それは一体・・』『さきほどの方もおっしゃられた通り、あなたはご自分がどう見られているのかおわかりになられていないようだ。』パーシバルは仁錫の肩を叩くと、中庭から去っていった。(一体どういう意味なんだ?) 小首を傾げながら、仁錫は一晩中、パーシバルの言葉の意味を考えていた。『おはようございます、イソク様。』『おはよう。』『これが本日のご予定です。』パーシバルがそう言って仁錫に渡したのは、予定表が書かれた紙だった。そこには、分刻みのスケジュールがびっしりと書き込まれていた。『こんなに?』『社交嫌いで気難しいバロワ伯爵の御心を射止めたあなたのお姿をご覧になりたい方が沢山いらっしゃるのですよ。これから休む暇はありませんね。』パーシバルはそう言って、仁錫にニッコリと笑った。 彼の言う通り、この一週間仁錫は休む暇がなかった。朝から分刻みのスケジュールに追われ、夜は夜で舞踏会や音楽会などで忙しい。碌に睡眠も取れぬ日々の中、仁錫はついに倒れてしまった。『過労ですね。』『これ位でお倒れになるとは情けない。』『うるさい、黙れ。』ベッドから起き上がって仁錫はパーシバルを睨み付けた。『社交界は、大変恐ろしい所ですよ。善人そうに振る舞っているお方がいつ牙を剥かれるか、覚悟した方がよろしいでしょう。』『牙を剥くとは大袈裟な。吸血鬼でもあるまいし。』『吸血鬼、ねぇ・・そう言えば、そう呼ばれて居らっしゃる方がおりますよ。』パーシバルは眼鏡を拭きながら、仁錫を見た。『ねぇ、次はいつ来てくれるの?』『そうだなぁ、お前がもっと愛想よくしてくれたらまた来てやるよ。』『ああ~ん、意地悪ぅ。』 イーストエンドの売春宿で、一人の娼婦にしなだれかかられながらある男がワインを飲んでいた。『あんた、このワインばっかり飲むのね。』『好きなんだよ、ルーマニア産のワインが。』男の名はジャック―通称“社交界の吸血鬼”と呼ばれている。『ねぇ、最近社交界では“氷の貴公子”が幅を利かせているようよ。』『“氷の貴公子”、ねぇ・・一度会ってみたいもんだ。その前に、お前ともう一度楽しむことにしよう。』ジャックは娼婦をベッドに押し倒すと、その豊満な肉体を貪(むさぼ)り始めた。
夏の社交シーズンが終わりを告げようとしている8月下旬のある日、足のけがが完治した仁錫(イソク)は、クレモンティーヌとの約束を守りバロワ伯爵邸を訪れた。『イソク、もう足の怪我は大丈夫なの?』『ええ、お蔭様で。』『よかったわ。あちらへいらして、あなたの為に美味しいお菓子を用意したのよ。』『ありがとうございます。』 クレモンティーヌとともにダイニングルームへと入った仁錫だったが、そこにはバロワ伯爵の姿はなかった。『お父君は?』『お父様は仕事でロシアに行っているのよ。あなたと会えることを楽しみにしていたのだけれど、お仕事じゃ仕方がないって言ってたわ。』『そうですか。』『ねぇイソク、日本の女性達はいつもキモノを着ているの?』『わたしが世話になった家では、男女ともに着物を着ていました。わたしはそこでゲイシャとして働いていました。』『ゲイシャ?それって、娼婦と同じような仕事をしている方達のことなの?』『とんでもない。彼女達は芸を売っても身体は売りません。お客様をおもてなしする為に、日々努力しているのです。』教坊に居た時の事や、舞妓として椰娜(ユナ)とともに働いた置屋でのことをクレモンティーヌに話した。『そのユナさんという方、是非ともお会いしてみたいわ。』仁錫の話を聞き終わったクレモンティーヌはそう言って目を輝かせながら紅茶を一口飲んだ。『姫様は素敵なお方ですから、きっと気に入ると思いますよ。』『ユナさんの事を、“姫様”と呼ぶのはどうして?高貴なお方なの?』『小さい頃色々な遊びをしていて、その時の呼び方がまだ抜けないんです。』『まぁ、そうなの。』 クレモンティーヌと楽しく過ごした後、仁錫は彼女に見送られながらバロワ伯爵邸を後にした。『お嬢様、今夜は何やらご機嫌ですね。』『ふふ、そう思う?』 その夜、クレモンティーヌが鼻歌を歌いながら髪をブラシで梳いていると、乳母が彼女の顔を怪訝そうに見ながらそう言って苦笑した。『何がおかしいの?』『いえ・・最近のお嬢様は怒っていらっしゃるお顔よりも、笑顔の方が多いなと思いまして。』『あら、そうだったの。あなたはもう下がって。』『では、お休みなさいませ。』乳母が部屋から出て行くと、クレモンティーヌは溜息を吐いてベッドに横たわった。 目を閉じていても、何故か仁錫の顔ばかりが浮かんできて眠れなかった。(どうしてしまったのかしら、わたし・・)仁錫に恋をしてしまったと、クレモンティーヌはこの時初めて気づいてしまったのだった。『御機嫌よう、クレモンティーヌ様。』『皆さん、御機嫌よう。あら、あの方はどなた?』『ああ、あの方はエリス様といって、イソク様の異母姉君様ですわ。』 慈善活動の集まりで会場の隅に居るエリスを見たクレモンティーヌが彼女に話しかけようとした時、一人の男がエリスの方へと近づいてくるのを見てやめた。『エリス様、お久しぶりです。』 男はそう言うと、エリスに微笑んだ。
バロワ伯爵と会食してから数日後、仁錫(イソク)の元に伯爵の使者が訪ねて来た。『旦那様がイソク様をお呼びです。』『わかりました、すぐに伺います。』仁錫が自室で身支度を終えて玄関ホールへと向かおうとした時、誰かに背を押されて彼は階段から真っ逆様に落ちていった。『イソク様!』『誰か、お医者様を!』慌てふためいた表情を浮かべながら、パーシバルが慌てて階段から駆け降りて来る音が聞こえた。『足の骨が折れただけで良かった。打ちどころが悪かったら首の骨が折れてしまうか、半身不随となったことでしょう。』医師から説明を受けた仁錫とマッケンジー大尉は、安堵の表情を浮かべた。『父上、バロワ伯爵様には怪我をしてしまって行けなくなってしまったとお手紙を書いてください。こんな状態では当分先方へは伺えませんから。』『ああ、わかったよ。今はゆっくりと身体を休めなさい。』『わかりました・・』ベッドに横たわりながら、仁錫はドアから少し顔を覗かせながらこちらの様子を窺っているエリスの姿を見た。『もうお父様は行かれましたから、お入りになられても結構ですよ?』『あら、そうなの。じゃぁ失礼するわ。』やけに勿体ぶった口調でエリスはそう言うと、部屋に入って来た。『わたしを階段から突き落としたのは、あなたですか?』『いいえ、わたくしではないわ。それよりもイソク、あなたの所為でわたくし達が不利益を被っているのはご存知かしら?』『何のことでしょう?』仁錫がエリスをわざと挑発すると、彼女は少し苛立ったかのように爪を噛んだ。『あなたがバロワ伯爵様に気に入られて、彼の前であなたに恥をかかせたわたくし達の株は下がっていくばかりよ。』『それは奥様がお悪いのではありませんか?あのような場で、わたしへの誹謗中傷は控えるべきでしたね。』『ふん、相変わらず可愛げがない子だこと!』『可愛げがなくて結構です。嫌な相手に尻尾を振るほど、わたしは落ちぶれていませんから。もうわたしの方からは話はありませんから、出て行ってください。』『言われなくとも、そうするわよ!』エリスが憤然とした様子で部屋から出て行く姿を、胸のすく思いで仁錫は見送った。『お母様、あの子随分とわたくし達を蔑ろにしているわ!さっきだって、馬鹿にされて悔しいったらありゃしない!』『落ち着きなさい、エリス。』怒り狂うエリスをエリザベスは静かに宥(なだ)めていたが、自分達を侮り始めている仁錫を少し懲らしめなければならないと思い始めていた。 そんな中、バロワ伯爵と彼女の娘、クレモンティーヌがマッケンジー家へ見舞いにやって来た。『足の怪我の具合はどう?』『あと二週間でギブスが取れるそうです。わざわざ来ていただきありがとうございます。』『ゆっくり養生して、またわたしに日本の事を教えてくれ。』『わかりました。お見送り出来ない事をお許しください。』『イソク、怪我が治ったらうちにいらして。わたくしもあなたの事をもっと知りたいわ。』クレモンティーヌはそう言うと、仁錫の頬に軽くキスした。
数日後、バロワ伯爵がマッケンジー家を訪れた。『伯爵、ようこそ我が家へ。さぁ、こちらです!』いつも威厳に満ちたマッケンジー大尉は、この日ばかりは緊張した面持ちでバロワ伯爵を出迎えた。『今晩のメインディッシュは子羊のローストですわ。』『ほう、これは美味そうだ。』バロワ伯爵はステーキで子羊のローストを一口大で切り、それを味わった。『如何です?』『美味い。』『伯爵の為に、最上級の肉を用意したのですよ。』エリザベスは愛想笑いを浮かべながら伯爵に話しかけたが、彼はエリザベスを無視して仁錫(イソク)に話しかけた。『君の噂は聞いているよ。何でも士官学校で目覚ましい活躍をしているとか。』『いいえ、そのようなことは。ただ日々の鍛錬を積んでいるだけです。』『そう謙遜(けんそん)するでない。』『この子が来た時は、厳しい軍事教練に耐えられるのか不安でしたのよ。だって握ったのは扇子だけですもの。』『というと?』『伯爵はご存知ないようですが、この子は英国に入る前娼婦として働いていたんですよ。』エリザベスが嘲るような口調でそう言って満足気な表情を浮かべて仁錫を見た。『ほう、それでは日本に?』『ええ。日本ではレディとしての修行を積みました。』『そうか。では、後で君の修行の成果を見せて貰おう。』『わかりました。』 夕食後、仁錫は日本から持って来た振袖を纏い、バロワ伯爵の前に現れた。『美しい・・これが東洋のキモノという物か。このような繊細で艶やかな布を日本人は纏っているのか?』『ええ。今わたしが来ているのは主に未婚女性の正装でして・・』仁錫はバロワ伯爵に、着物の歴史や種類などを話した。『今夜は楽しかったよ、イソク。』『わたしもです。』バロワ伯爵は仁錫に微笑みながら彼の手を握った。『良い夢を、伯爵。』『君もだ、イソク。』バロワ伯爵を玄関ホールまで見送ると、仁錫は邸の中へと戻った。『お母様、あの子に恥をかかせるどころかバロワ伯爵様に気に入られているじゃないの。』長女・エリスは、そう言って歯噛みしながらエリザベスを見た。『何とかするわよ、わたしが。だからあなたは、大人しく待っていなさい。』『でもお母様・・もしかしたら、あの子にわたし達が負ける日が来るのかもしれないわ!』『馬鹿な事を言うのではありません、早く寝なさい!』だがエリスの言葉通り、バロワ伯爵に気に入られた仁錫は、徐々に社交界から一目置かれる存在となった。 それとは対照的に、エリス達は徐々に社交界から煙たがられる存在となった。『あの方達、恥というものを知らないのかしら?』『全く、厚かましいわね。』刺繍の集いでも、エリザベスに向けられるのは侮蔑の視線だけだった。(こんな筈ではなかったのに・・こんな筈では!) エリザベスの中で、仁錫への憎しみが徐々に膨れ上がっていった。
耳を聾(ろう)するほどの歓声と喧騒。そして笑いさざめく貴族達の間を掻きわけながら、仁錫(イソク)は額から流れてくる汗をハンカチで拭った。一刻も早くここから出て行きたい―そんな一心で彼が競馬場の出口へと彼が目指していると、誰かに腕を掴まれた。『あなたが、イソクさん?』 彼が振り向くと、そこにはブルネットの巻き毛を揺らした女が立っていた。『あなたは?』『わたくし、クレモンティーヌ=バロワと申します。』『どうも・・』社交界に疎い仁錫は、彼女が大物貴族の娘だとは全く知らなかった。『すいません、急いでいるもので。』『あら、そう。お引き留めしてしまって悪かったわね。』不機嫌そうな表情を微塵に出さずに、クレモンティーヌはそう言って仁錫を見送った。 翌日、仁錫の元にバロワ伯爵家から一通の手紙が届いた。『明晩8時に、舞踏会でお待ちしております。クレモンティーヌより』クレモンティーヌからの手紙を仁錫が読んでいると、エリザベスがそれを横から取り上げた。『あなた、クレモンティーヌ様に気に入られたのね。何処で知り合ったの?』『昨日アスコット競馬場でお会いしました。』『そう。わたくし達の顔を潰さないよう、頑張って来るのね。』『もう聞きあきましたよ、その言葉は。』 翌晩、仁錫はバロワ伯爵邸の舞踏会に出席した。『イソクさん、ようこそ。挨拶代わりに一曲お相手してくださらない?』『ええ、喜んで。』クレモンティーヌの手を優雅に取った仁錫は、滑るように踊りの輪へと加わった。『あの方は・・』『マッケンジー様の・・』『お美しい方ね・・』貴族達はそう言うと、ジロジロと仁錫を見ていた。『わたし達を見ておりますね。』『それはわたくし達が美しいからよ。それよりも、もっとあなたの事が知りたいわ。』クレモンティーヌは低い声でそう囁くと、仁錫に微笑んだ。『まぁ、バロワ伯爵が明後日ここに来るですって?それは本当なの?』『ええ。どうやら伯爵は、俺の事を気に入ってくださったようで。奥様はお忙しい方なので、伯爵の招待をお断り致した方が・・』『とんでもない!すぐに返事の手紙を出しなさい!』エリザベスはそう言うと、仁錫を睨みつけて二階へと上がっていった。『これから、色々と忙しくなるわね。』『えぇ、お母様!』エリザベス達が妙に張り切っているのを見て、仁錫はバロワ伯爵が大物であることに漸く気づいた。『イソク、どうする?』『どうするとは、どういう事でしょうか、父上?』マッケンジー大尉に呼ばれ、仁錫がそう言って大尉を見ると彼は気まずそうな顔をしていた。『お前は社交界に疎いからわからんだろうが、バロワ伯爵は社交界の重鎮でありながら、社交嫌いで有名なお方なんだ。お前がその方に気に入られたということは、いい事なんだよ。』『はぁ・・』父の言葉が、仁錫にはいまいちわからなかった。
“英国でエドワード殿にお会い致しました。彼は現在結婚し、三児の父となっております。姫様の事をお話したかったのですが、話す機会を失ってしまいました。”(エドワード様が結婚!?しかも子どもまで・・)怒りでブルブルと震えながら、椰娜(ユナ)はエドワードと過ごした日の事を思い出していた。あの頃、エドワードは自分を愛してくれていた。だが彼の愛は幻、仮初(かりそめ)のものに過ぎなかったのだ。その愛に、椰娜は騙されていたのだ。「酷い、信じていたのに!」仁錫(イソク)の文を読み終わった椰娜は、そう叫ぶなりベッドに顔を伏せて泣き出した。『ユナ、どうしたの?一体何があったの?』『お姉様、わたし失恋したの。彼、わたしのことを愛してくれていたの。けれど、今は結婚して三人の子どもの父親ですって!』『まぁ、あなたの気持ちを弄んだその男のことなど忘れなさい。男なんてそんなものなのよ。』アナスターシャはそう言うと、傷ついた妹の頭を撫でた。『お姉様、わたし結婚したくない。誰かに傷つけられるくらいなら、一生一人でいいわ。』『ユナ・・』愛する男の結婚で深く傷ついた妹の姿を見て、アナスターシャは一度も顔を会わせたことがないその男に対して怒りが湧いた。 一方、英国では仁錫が初めて社交界に顔を出すことになった。『わたくしたちの顔を潰さないようにして頂戴ね。』『わかりました。まぁ、あの方と同じ轍は踏みませんので、ご安心ください。』カトリーヌが巻き起こした騒動を揶揄(やゆ)するかのような言葉をエリザベスに放った仁錫は、何かを言い返そうとする彼女に背を向けて馬車から降りていった。『あの子、ますます生意気になったわね。』『ふん、どうせあの方達があの子を懲らしめてくれるわよ。』 初めての社交場となるアスコット競馬場では、華やかなドレスで着飾った令嬢達が仁錫に対して無遠慮な視線を送っていた。『あなたが、イソクさん?』『そうですが、わたしに何か?』自分の前に一人の令嬢が現れて話しかけて来たので、仁錫はそう言って彼女を見た。『あなたのお噂は聞いておりますわ。』『ほう?よからぬことなのでしょうね。噂というものは、悪意あるものが多いですからね。』鋭い仁錫の切りかえしに、令嬢はぐうの音も出なかった。『はっきりとおっしゃる方ね、イソク様って。』『そうね。大抵の殿方は、お世辞でもドレスの事を褒めて下さるのに。』『変わったお方だこと。』先程の遣り取りを聞いていた令嬢達は口々にそう言いながら、自分達の前から立ち去る仁錫の背中を睨みつけた。『そうかしら?わたくしあのような方、嫌いじゃないわ。』『クレモンティーヌ様、居らしていたんですの?』『さっきから居ましたわ。』 ブルネットの巻き毛を揺らしながら令嬢達の前に現れたのは、バロワ伯爵令嬢・クレモンティーヌだった。彼女はコバルトブルーの瞳で周囲を睥睨した後、令嬢の一人にこう尋ねた。『そのイソクって方は今どちらにいらっしゃるのかしら?』
アナスターシャの友人・マリヤの園遊会から数日が経ち、椰娜(ユナ)は社交界の集まりに積極的に顔を出すようになった。 社交嫌いで有名な皇后の“お気に入り”である椰娜は、余所者を嫌う貴族達から無下に扱われることはなかったものの、何処か距離を置かれるようになっていた。“いい、社交界で生き抜くためには余り出しゃばらない事。” 異母姉・アナスターシャの助言通り、椰娜は余り目立たぬようにしていた。それが功を奏したのかどうかはわからないが、椰娜は徐々に社交界で一目置かれる存在となった。『ねぇオリガ様、あなたのところのユナ様は、皇后様のお気に入りだそうね?』『まぁ、ユナが皇后様のお気に入りですって?』『あら、ご存知なかったんですの?わたくし達の間では有名ですのに、ねぇ?』一方オリガは、刺繍の集いで親しくしている奥様達から椰娜の話を聞いて怒りに震えた。(あの子が、わたくしをさし置いて皇后様のお気に入りに!?)オリガは宮廷で女官として仕える身として、何としても皇后とお近づきになりたかったのだが、非社交的で精神的に不安定な彼女はオリガのことを嫌っていた。しかし、その皇后が自分ではなく、あの忌まわしい娼婦の娘を気に入ったというのだ。 今まで貴族の娘として誇り高く生きて来たオリガの矜持(きょうじ)が、崩れ落ちようとしていた。『ユナ、皇后様のお気に入りになられたそうだが、本当か?』『ええ。お父様、皇后様という方は、どのようなお方なのですか?』 夕食の時間、ニコライからそう言われた椰娜は、彼に皇后の事を尋ねた。『皇后様は、ヴィクトリア女王陛下に育てられたんだ。皇后様のお母君は35歳の若さでジフテリアでお亡くなりになられてね、ヴィクトリア女王陛下に育てられた皇后様は、今の陛下とご結婚なさったんだよ。』『そんな・・さぞや幼かった皇后様は心細かったことでしょう。6歳といえば、まだ母親を恋しがる年頃ですし。そういえば、皇后様は舞踏会の夜、わたしにこうおっしゃっておりました。“祖母は偉大な方だったけれど、母の代わりにはなれなかった”と。何だかわたし、皇后様のことを我が事のように思えてしまうんです。』『そうだろう。お前が辛い思いをしたのは、やはりわたしの所為だろうな。』『いいえ、そういうつもりで言ったのでは・・』椰娜が慌てて取り繕ったが、それはニコライに罪の意識を感じさせるだけだった。『全く、あなたは少し調子に乗っているようね。皇后様のお気に入りに成ったからといって、この家でのあなたの立場は何ひとつ変わっていないのですよ!』 夕食後、ニコライがダイニングから辞した後、オリガはそう言って椰娜を睨み付け夫の後を慌てて追った。『わたし、お父様を傷つけようとしたわけでは・・』『いいの、わかっているわ。暫くお父様に時間をあげて。お母様にも。』アナスターシャはそう言うと、そっと椰娜の肩を叩いた。だが椰娜の気持ちは晴れないでいた。そんな中、久しく途絶えていた仁錫(イソク)からの文が届いた。“姫様、お元気にされておられますか?わたしは・・色々とありますが、何とか元気でやっています・・”仁錫からの文を読み進めるうち、はじめは穏やかだった椰娜の表情が徐々に険しくなっていった。
『ねぇアナスターシャ、今度うちで園遊会があるのよ。妹さんも誘ってみたら?』 観劇の帰り、アナスターシャは友人からそう言われて、すぐに引き受けた。『週末に園遊会ですか?』『ええ。あなたに来てほしいって。』『でも、何を着て行けばいいんでしょう?』『大丈夫、そんなに気張らなくてもいいわ。何だったら仕立て屋を呼びましょうか?』『そうしてくださると助かるのですけれど・・ひとつ問題が?』 仕立て屋を呼ぶとなると、自分が男であることが仕立屋にばれてしまう。それを周囲には知られたくなかった椰娜の気持ちを察したのか、アナスターシャはこう言って笑った。『大丈夫よ、わたしが贔屓にしている仕立て屋は口が堅い方だから。』 数分後、アナスターシャが贔屓にしている仕立屋がやって来た。『あなたには寒色系のドレスが似合うでしょう。ピンクも似合うと思います。』『そうですか。』『この生地などは如何です?ヴェネツィアンレースを襟元に付けるとエレガンスな仕上がりになりますよ。』仕立て屋の口車に乗せられた椰娜は、仕立て屋に数着のドレスを頼んでしまった。『どうしましょうお姉様、代金が・・』『それはわたしが全部払うわ。ねぇあなた、今週末に新しいドレスを着たいから、全て一週間以内に仕上げてくださらない?お礼は弾むから。』 アナスターシャはそう言うと、金貨の袋を仕立て屋に握らせた。『はい、お客様のお望み通りに。』『では、ドレスの仕上がりを楽しみにしているわ。』仕立て屋が去った後、椰娜は不安そうにアナスターシャを見た。『本当に、仕上げてくださるんでしょうか?』『大丈夫よ、あの人は約束を守る方だから。』 一週間後、椰娜とアナスターシャの元にあの仕立て屋がやって来た。『お約束の品をお持ちいたしました。』『そう。じゃぁ見せて頂戴。』『かしこまりました。』彼の弟子達が完成したドレスを二人に見せると、ドレスはどれも最高の出来であった。『ありがとう。あなたの弟子達は優秀ね。』『またの機会がありましたら、是非わたしに。』『わかったわ。』 仕立て屋が仕上げたドレスを、早速椰娜は試着してみた。『やっぱりあなたに似合うわねぇ。このドレスで園遊会に行ってみたら?』『いいんでしょうか?少し派手すぎやしません?』『少しくらい派手な方がいいのよ。』 その日の週末、椰娜はアナスターシャの友人宅で開かれる園遊会に出席した。『アナスターシャ、待っていたわ。そちらが、あなたの妹さんね?』アナスターシャの友人・マリヤがそう言って椰娜を見た。『初めまして、ユナです。』『ようこそ、ユナ。楽しんでいってね。』椰娜はシャンパングラスをボーイから受け取りながら、園遊会で他の貴族達と知り合い、彼らと雑談を交わした。『楽しかった?』『ええ。皆さん素敵な方達ばかりでした。それにわたしに親切にして下さったし・・』『いい、何事もはじめが肝心よ。』アナスターシャはそう言うと、椰娜に社交界の心得を教えた。
「あなた、英語は話せる?」「はい・・」 人気のないバルコニーへとアレクサンドラ皇后に連れて行かれた椰娜(ユナ)は、突然英語でそう聞かれたのでそう答えた。すると、彼女は満面の笑みを浮かべて椰娜を見た。「わたしね、イギリスで育ったのよ。だからロシア語をマスターするのには苦労したわ。」「そうでしたか。わたしは日本でアレクセイさんから英会話と外国語を徹底的に叩き込まれました。」「そうなの。まだこの社交界には慣れない?」「はい。初めて宮殿に入った時、皆さんとても洗練されているように見えて・・」「みんなはじめはそうよ。わたしだって宮廷入りした時は緊張してしまったもの。」皇后はふと昔を懐かしむかのように空に浮かんだ月を眺めた。「わたしはね、母を幼い頃に亡くして、祖母に育てられたのよ。でも祖母は厳しい人でね・・あなたはどうなの?」「わたしの母は、わたしが生まれた後すぐに亡くなりました。孤児になったわたしは養母に育てられ、そこで人として大切な事を教えられました。」「そう、わたしにもそういう方がいればよかったわ。祖母は偉大な方だったけれど、母の代わりにはなれなかったわ。」椰娜は、皇后の澄んだ瞳の奥に、母を早くに亡くした幼子の姿が見えたような気がした。『皇后様、もうそろそろお時間です。』『わかったわ。』 女官に声を掛けられ、皇后は椰娜の手を握った。『また会いましょうね。』『はい、皇后様。』椰娜がバルコニーからニコライ達の方へと戻ると、アナスターシャが椰娜に駆け寄ってきた。『皇后様に意地悪言われなかった?』『いいえ。ただ皇后様は、わたしが宮廷の貴族の方達が洗練されているとお話したら、はじめはそう見えるのだとおっしゃって、わたしを励ましてくれました。』『まぁ、そうなの。それにしてもあの方は気難しくて、社交嫌いで有名なのよ。皇后様があなたに直接お声をかけて下さったなんて珍しい事よ。』『そうだったのですか・・』『これからあなたは注目の的になるわね。少し覚悟しておいた方がいいわよ。』アナスターシャはそう言うと、そっと椰娜の肩を叩いた。その時椰娜は、異母姉の言葉の意味がわからなかったが、次第にわかるようになってきた。『今夜は疲れたでしょう、早くお休みなさい。』『わかりました。お休みなさい、お姉様。』『お休みなさい、わたしの可愛い妹。いい夢を。』 寝室へと向かう椰娜に、アナスターシャは投げキスをした。『アナスターシャ、あなたすっかりあの子と仲良しね?』『ええ。お母様、何か問題でも?』『わかっているの、あの子は娼婦の娘なのですよ?』 翌日、友人と観劇に行こうとしようとする娘を呼び留めたオリガは、これ以上椰娜と親しくしてはならないと忠告したが―『あら、ユナはわたし達の家族でしょう?どうしてあの子と仲良くなってはいけないの?』『あなたはそう言うけれど、わたくしの立場も考えて頂戴。』『お母様の立場など、存じ上げないわ。』これ以上母と口論しても無駄だと思ったのか、アナスターシャはさっさと出掛けて行ってしまった。
貴族の令嬢として、椰娜(ユナ)は初めて社交界に顔を出すことになった。『どう、緊張していて?』『ええ。それよりもこのドレス、おかしくはないでしょうか?』そう言って鏡の前に立った椰娜は、黄緑色のドレスを着ていた。裾にはレースが付いており、シンプルで上品なデザインだった。『ちっともおかしくなどないわ。さぁ、行きましょう。』『はい、お姉様。』 アナスターシャとともに玄関ホールへと降りると、アレクセイが何やらニコライと深刻そうな顔をして何かを話していた。『お父様。』『ユナ、良く似合っているぞ。』『ありがとう、お父様。お母様はどちらに?』『オリガなら体調を崩して部屋に籠っているよ。いつもの頭痛だから、心配は要らないよ。それよりも早く行こう。』『はい。』椰娜はそう言ってニコライの手を取ると、馬車に乗り込んだ。『あの子達はもう行ったかしら?』『はい、奥様。』 頭痛が治まったので、オリガはゆっくりとベッドから半身を起こした。『あの子のことを、あなたどう思っているの?』『ユナお嬢様は天真爛漫な方で、わたくし達使用人に対しても親切にしてくださいます。』メイドが正直にそうオリガに言うと、彼女の眦が上がった。『お前は随分と、あの子を気に入っているようね?』『そんな・・滅相もございませんわ!』『言っておくけれど、わたくしはあの子が嫌いなの。あなたがこの家でクビにならない為にも、わたくしの機嫌を損ねないようにすること、いいわね?』 女主人の言葉に、メイドは静かに頷いた。 初めて宮廷へと足を踏み入れた椰娜は、正装した貴族達の誰もが自分よりも洗練されているように見え、自分は場違いな場所に来てしまったのではないのかと思い始めていた。『大丈夫よ、ちゃんと胸を張って。』『ですが・・』『ユナ様、皇后様にご挨拶を。』椰娜は貴族達の視線を一身に受けながら、玉座に座る皇后の元へとゆっくり歩いていった。『皇后様、お初にお目にかかれて光栄です。』『あなたがユナ?』頭上で聞こえる皇后の声は、小鳥のさえずりのように澄んだ声だった。『顔を上げなさい。』『はい・・』俯いていた顔をゆっくりと椰娜が上げると、ロシア帝国皇后・アレクサンドラは澄んだ瞳でじっと椰娜を見た後、にっこりと椰娜に微笑んだ。『あなた、綺麗な目ね。初めての宮廷で緊張しているんでしょうけれど、そんなにかたくならなくても結構よ。』『申し訳ございません・・』『あなたのことをもっと知りたいわ。あちらでお話致しましょう?』皇后はそう言うと、すっと玉座から降りて椰娜の手を取った。『信じられないわ、皇后様が直接お声をお掛けになられるだなんて・・』『ええ、本当に。社交嫌いのあのお方が・・』椰娜と皇后が連れたって中庭へと歩いて行く姿を見た貴婦人達は、そんな囁きを扇子の陰で交わしていた。『ユナは大丈夫かしら?』『アナスターシャお嬢様が心配なさらずとも、ユナお嬢様は大丈夫でしょう。』
一方ロシアでは、椰娜(ユナ)がアレクセイのスパルタ授業に必死に耐えていた。『またここの綴りが間違っていますよ!』『申し訳ありませんでした、先生・・』『いいですかユナさん、あなたは貴族の令嬢として何処へ出しても恥ずかしくないような立ち居振る舞いと教養を身につけねばなりません。』アレクセイはそう言って言葉を切ると、椰娜を睨みつけ分厚い書類の束を椰娜の前に置いた。『これを明日の夜までに提出なさい。正直言って、あなたのレベルでは合格点をやることはできません。』『そんな・・』『言い訳など聞きませんよ、それよりも課題に取りかかりなさい。』アレクセイのやり方に抗議しようとした椰娜だったが、彼はピシャリと椰娜の言葉を封じ、部屋から出て行ってしまった。『何よこれ、まだ習っていないところもあるじゃない!』アレクセイから渡された課題プリントを見た椰娜は、難しい問題ばかりが並んでいて頭が混乱してきた。『あらユナ、アレクセイにいじめられているのね、可哀想に。』すっと部屋のドアが開き、滑るようにしてアナスターシャが部屋に入って来た。『あの人の授業にはついていけないでしょう?』『ええ、まるでいじめられているようで・・』『それは違うと思うのよ。アレクセイは厳しいけれど、ちゃんとあなたの頑張りを見ているわ。さてと、ちょっとそれを見せて。』アナスターシャは椰娜の前に置いてあった椅子に腰を下ろすと、椰娜が手に持っているプリントを取った。『これは簡単ね。焦らなくていいから、ゆっくり考えてこの問題を解けばいいわ。』『はい・・』アナスターシャの助けを借り、椰娜はその日の夜に課題を終わらせた。『素晴らしい出来です。国語はもう教えることはありませんね。』 翌朝、アレクセイはそう言うと、椰娜に初めて授業中に微笑んだ。『ありがとうございます、先生。』『さてと、国語の授業が終わりましたから、明日から歴史の授業に入ります。明日までにこの本を読んでレポートを出すように。』アレクセイは鞄の中から一冊の本を取り出し、椰娜に手渡した。『これは何ですか?』『ロシアの歴史が書かれている本です。これを隅々まで読んだ上でレポートを提出するのですよ、いいですね?』少しは優しくなったのかと思いきや、アレクセイの厳しさは変わらなかった。だが最初彼に抱いていた悪感情は既に椰娜の中では消えていた。『ユナお嬢様、剣術の時間ですよ。』メイドが部屋に入って来てそそくさと椰娜の方を見ずに部屋から出て行ってしまった。 この家の中で椰娜を認めているのは父・ニコライと異母姉・アナスターシャ、そして父の秘書兼家庭教師であるアレクセイだけで、他の教師達や使用人達はみな“娼婦の娘”である椰娜に対して冷淡な態度を取っていた。(仁錫(イソク)、あなたには味方がいるの?わたしには心強い味方が三人も居るけれど、誰かに嫌われているって凄く悲しくて嫌な気分だわ。)最近仁錫からの文が途絶え、彼の身を案じる椰娜だったが、自分には彼を助けることが出来ない。唯一出来るのは、時々仁錫の幸せを願うことだけだった。『ユナお嬢様、かなり筋が良いですね。』剣術の教師からそう褒められ、椰娜は嬉しそうに彼に微笑んだ。『ありがとうございます、先生。それよりもどうして、わたしに剣術の授業をつけてくださるんですか?』『女性は自分の身を守らねばならないので、あなた様に剣術を教えろと旦那様から命じられましてね。』『まぁ、そうでしたか。』 こうして椰娜は、貴婦人としての嗜みや教養を身につけていった。
『お前が、ルークか?』『あん、何だてめぇ?』軍服姿の青年―ルークはそう言うと、ジロリと仁錫(イソク)を睨みつけた。『お前、この女を知っているだろう?』仁錫がルークにカトリーヌの写真を見せると、彼は仁錫の言葉に頷いた。『ああ、この女ね。随分と借金が溜まってたからなぁ、あの女。この間なんか、マリオと揉めてたなぁ。』『マリオ?誰だそいつは?』『あんたには言えないなぁ。』仁錫はルークの舐めた言葉を吐く口に、銃口を押しこんだ。『こちらが知りたいことをさっさと吐け。さもなければ、この場で貴様を殺してもいいんだぞ?』ルークの近くに居た娼婦が悲鳴を上げた。彼は怯えた目で仁錫を見た。『マリオってのは、ここの界隈で金貸しをやってる奴だよ。賭博で負けた奴に無利子で金を貸す奴だ。けどなぁ、あいつは筋金入りの悪党よ。』ルークはスコッチを飲みながら、娼婦にしなだれかかった。『お前ぇの方が知ってるだろ?この坊やに話してやれよ。』『マリオはさぁ、賭博で借金抱えた奴は男は炭鉱、女は売春宿で死ぬまで働かせてるんだよ。それで給料をピンハネしてるって噂さ。あの女はもう少しでわなに掛けられそうだった。』『わなだと?』『そ、あの子はもう少しで売春宿に売られる筈だったのさ。でもそれを止めたのが、こいつさ。』娼婦はそう言うと、仁錫の前に一枚の写真を見せた。『あらイソク、遅かったじゃないの?』夕食前に帰宅すると、カトリーヌとエリザベスが冷ややかな視線を仁錫に送った。『あなたにはいっぱい食わされましたよ、カトリーヌ様。妊娠は狂言だったんでしょう?貧民街を根城にしている金貸しから身を守る為に。』『な、何を言っているの?』カトリーヌは激しく狼狽した様子でそう言うと、仁錫を睨みつけた。『全てはこの男の為だったのでしょう?』仁錫は娼婦から渡された写真を高く掲げてエリザベスとカトリーヌに見せた。『アレクシス法務大臣じゃないの!カトリーヌ、一体何をしようとしていたの!?』『彼に脅されたのよ!借金の事を知られたくなければ、1000万ポンド用意しろって!だから・・』『さてと、この事は警察に報告いたします。軍人の娘であるあなたがこのようなスキャンダルを起こしたのなら、父も無事では済みませんよね?勿論、あなた方も。』 仁錫はキラリと蒼い双眸を光らせながら、蒼褪めるカトリーヌとエリザベスを見た。『カトリーヌはどうしている?』『保養地の別荘にやりましたわ。全く、人騒がせな子だこと。』『イソクの機転で警察沙汰にはならなかった。あの子に感謝するんだな、エリザベス。』『あの子に感謝ですって?わたくし達は恥をかかされたんですよ。わたくしは一生、あの子を恨みます。』エリザベスはキッと夫を睨み付けると、部屋から出て行った。妻と仁錫との間に横たわる溝は、年月が経つ度に深くなっていった。
「お久しぶりですね。」 カトリーヌが彼女の恋人の待ち合わせ場所に指定した公園の噴水前に現れたのは、漢陽で椰娜(ユナ)と会ったエドワードだった。「驚きましたね。まさかあなたが義姉の恋人とは。あれほど姫様を慕っていたというのに、随分と乗り替えが早い方ですね?」 皮肉交じりの嫌味を仁錫(イソク)が投げつけると、エドワードは若干傷ついた表情を浮かべた後、こう言った。「わたしは決してカトリーヌを妊娠させてはいない。」「それは、本当ですか?」「ああ。大方君が此処に来たのは、カトリーヌに頼まれて来たのだろう?ここは人目があるし、他の場所に移って話をしないか?」「わかりました。」二人が公園から出て行くのを、木陰から密かに一人の男性が見ていた。「それで、お話とは何でしょうか?」「単刀直入に言おう。カトリーヌの目的を、君は知っているのか?」「いいえ。ただ彼女はここに来て君に会うようにとだけ言いました。それが何か?」「ここだけの話ですが、カトリーヌの妊娠は狂言だ。」「と、申しますと?」「彼女は素行が悪いことで有名でね。特にトランプ賭博で多額の借金を抱えているそうだ。今回の妊娠騒動についても、男と仕組んで借金をチャラにしようとしているに違いない。」「どうしてこそんなことをご存知なのですか?」「実は、ある探偵社に調査を依頼したんだ。」エドワードは紅茶を一口飲んだ後、仁錫に一枚の名刺を渡した。(ここか・・) 数分後、彼はイーストエンド近くにある古びたビルへとやって来た。そこには、“マリオン探偵社”という少し文字が剥げかけた看板が掲げられてあった。『すいません、誰か居ませんか?』 ビルの6階にある事務所に入ると、そこはゴミや書類などが散乱し足の踏み場がないほどだった。『いらっしゃいませ、貴族の若様が一体何のご用で?』『カトリーヌ=マッケンジーを知ってるか?』仁錫がカトリーヌの写真を胡散臭そうな探偵・マリオンに見せると、彼は暫く写真を眺めた後、こう言った。『ああ、あの女か。いやぁ、ある男を嵌めてくれって頼まれたんだよ。』『その男は誰だ?教えてくれるなら、これをやろう。』 仁錫は密かに用意していた金貨が入った袋をマリオンにチラつかせると、彼は溜息を吐いた後、渋々とカトリーヌが嵌めようとした男の名を言った。『ご苦労さま。それじゃぁ俺はこれで。』『ちょいと待ちなよ。二人の方が効率がいいと思わねぇかい?俺ぁ相手と面識があるんだからよ。それにこの時間帯じゃ、あいつはイーストエンドにある賭場に行ってると思うぜ。』マリオンの言葉は胡散臭くて信用できなかったが、むやみに一人で慣れぬロンドンの街を歩くよりはいいと思い、彼と共に賭場へと向かった。『よぉマリオン、連れは見ない顔だな?』『俺のダチだよ。ルークは何処だ?』『ああ、あいつならあそこだよ。』とあるパブに二人が入ってマリオンがバーテンに聞くと、彼はダーツが設置してある方を指した。そこには娼婦と思しき数人の女性達と戯れている軍服姿の青年が居た。
『これは校長先生、お騒がせしてしまって申し訳ありません。』唖然としている校長達に向けて笑顔を浮かべながら、仁錫(イソク)はそう言って彼らの前に立った。『イソク君、これは一体どういうことなのかね?』副校長のフィリパスがそう言って仁錫を睨むと、彼は笑顔を崩すことなくこう言った。『ウィリアムがわたしを倉庫に閉じ込めたので、中にあった銃の威力を確かめておりました。こちらの学校は、最新式の銃をお使いのようですね?』『彼の話は本当なのかい、ウィリアム?』『ぼ、僕は・・』『どうか彼を責めないでやってください、副校長先生。倉庫に入る時は鍵を持って行くよう厳しく教官から言われていたのに、急いでいて忘れてしまったわたしが悪いんですから。』『そ、そうか・・そういうことなので、校長先生、参りましょうか?』『ああ・・イソク君、今後このようなミスはしないようにな。』『わかりました。』 校長達が去って行った後、仁錫はくるりとウィリアムの方へと向き直った。彼の顔からは既に笑顔が消えていた。『俺が機転を利かせなかったらお前は退学になっていたな。何処まで間抜けなんだ?』『うるさい、黙れ!』顔を怒りで赤くさせながら、ウィリアムは仁錫に殴りかかってきたが、彼のパンチを仁錫は難なくかわすと、ウィリアムに足払いをかけた。『今回は扉を壊しただけで済んだが、二度目はない。』仁錫はそう言うと、怯えているウィリアムの額に銃口を押し当てた。『次は殺す。わかったらさっさと行くがいい。』『ひ、ひぃぃ~!』仁錫の剣幕に恐れを為し、恐怖で顔を引き攣(つ)らせながら彼の前から脱兎(だっと)の如く逃げていった。 倉庫での一件が功を奏したのか、あれからウィリアムは仁錫に対して以前のように陰湿な嫌がらせをすることはなくなった。『ねぇ、どんな魔法を使ったの?あのウィリアムが急に大人しくなるなんてさ。』『別に何も特別なことはしていない。まぁ強いて言えば、俺が奴よりも上だということをわらからせただけだ。』快適な学校生活を送っていたある日、実家から一通の手紙が届いた。(父上から?)士官学校に入学して以来、実家からの手紙が来ることは皆無に等しかったので、仁錫は訝しげに父からの手紙の封をペーパーナイフで切り、それを読んだ。そこには来週末舞踏会が開かれるので絶対に出席する事と書かれてあった。もうすぐ夏の社交シーズンが始まるので、その前に自分を一度家に呼び戻したいという父の思惑を仁錫は手紙から感じ取っていた。父の顔を潰す訳にはいくまいと久しぶりに実家へと戻った仁錫を待っていたのは、異母姉・カトリーヌの妊娠騒動であった。『お願いイソク、わたしを助けてくれないかしら?』いつも自分を見下し、尚且つ自分に従って当然と言う傲慢な態度を取っていたカトリーヌはそう言うと、初めて仁錫に頭を下げてある事を懇願してきた。『あの人に一度会って、話してきて。』 カトリーヌが指定した彼女の恋人との待ち合わせ場所に仁錫が向かうと、そこには一人の男が立っていた。
『何をモタモタしている、早くしろ!』『申し訳ありません。』怒鳴りつける教官に向かって謝った仁錫(イソク)は、再び銃剣に弾丸を装填して発射しようとしたが、またもや不発に終わってしまった。『何だこれは!』教官が怒りで赤ら顔になりながら仁錫に見せたのは、使用済みの薬莢(やっきょう)だった。『こんなもので銃が撃てるか!』『申し訳ありませんでした。』『気がたるんでるぞ!』仁錫は教官に平謝りしながら列から外れた。ふとウィリアムと目が合うと、彼は口端を歪めて嫌らしい笑みを浮かべた。悔しさで歯噛みしながら、仁錫は弾丸を取りに倉庫へと向かった。「あんな陰湿な嫌がらせをするなんて、本当にあいつは男なのか?」 陰湿なウィリアムの嫌がらせに腹を立てながらも、仁錫は弾丸を腰に巻いて倉庫から出ようとした時、誰かが開いている扉を閉めた。(クソッ、やられた!)外から数人分の歓声が聞こえてきて、仁錫はウィリアムに嵌(は)められたことに気づいた。『おい、一体何の真似だ?ここを開けろ!』『嫌だね。お前みたいにお高くとまった奴と授業なんて受けられるか!』『そんな下らない理由で俺をここに閉じ込めたって、状況は変わらないだろう、ウィリアム?確かお前、この前の試験でラテン語赤点を取って父上様にこっぴどく叱られたようじゃないか?』扉越しに仁錫は笑いながらそう言ってウィリアムを挑発すると、堅い鋼鉄の扉が彼の蹴りを受けて揺れる音が聞こえた。『うるさい、この蛮族め!』『お言葉だな、ウィリアム。貴様が蛮族ならば、お前は屑だろう、違うか?』 ウィリアムは意味不明な言葉を喚き散らすと、取り巻き達を引き連れて倉庫の前から立ち去っていった。(さてと、これからどうしようか・・) 頑強な扉は、数発蹴りを入れてもビクともしないことは、先程ウィリアムが証明してくれたところだから、ここから出る方法を何か考えなければー仁錫がそう思いながら倉庫の中を見渡すと、そこには役に立ちそうな銃があった。これで扉が破れるのかどうかはわからないが、一か八かやってみるしかない。仁錫は素早く弾丸を銃に装填して構えると、躊躇(ためら)いなく引き金を引いた。『マッケンジー大尉殿の御子息はどうだね?上手くやっているのか?』『ええ、大変優秀な生徒ですよ。軍事教練の面では他の生徒達より多少遅れを取っておりますが、すぐに追いつきました。』『そうか、それは頼もしい事だ。』校長はそう言って副校長と話をしていると、突然外から銃声が聞こえた。『校長先生、倉庫から銃声が聞こえました!』『何をそこでのんびりしている、行くぞ!』 校長達が倉庫へと向かうと、出入り口の扉には大きな穴が開いており、その前には腰を抜かしたウィリアムが地面にへたれ込んでいた。『一体何があった?』『そ、それは・・』 ウィリアムが校長に嘘を吐こうとした時、仁錫が扉を蹴飛ばして倉庫の中から出て来た。
椰娜(ユナ)がロシアでニコライから日夜スパルタ方式の授業を受けている頃、英国では仁錫(イソク)が海軍士官学校で厳しい軍事教練を受けていた。 それまで舞や楽器、書道など、軍事教練とは全く無縁の妓生(キーセン)の世界で鍛錬を積んできた彼にとって、剣術や砲術などの軍事教練は苦痛でしかなかった。その上他の学生達からは、東洋人との混血児ということで労働階級出身の学生よりも低い地位に見られていた。『おい、見ろよ。』『あいつだ・・』『随分と華奢な身体だな。あんな身体で銃剣が扱えるのか?』 廊下を歩く度に自分の前で囁かれる悪意ある言葉に、仁錫は耳を塞いで人一倍努力した。軍事教練の他に、ラテン語や数学、外国語といった教養科目もあり、全ての試験で満点を取らなければ落第するという厳しいカリキュラムの下、エリートの卵達は互いに切磋琢磨して毎日を送っていた。 仁錫達新入生は学生寮で寝泊まりし、個室が与えられるのは最上級生のみで、1年・2年生は6人部屋で寝起きしていた。家では居場所がなかった仁錫だったが、この学校では努力すればするほど自分の存在が認められる。はじめは挨拶する事すらぎこちなかったルームメイト達とも、1ヶ月も経てばかなり打ち解けて来た。『イソクは日本から来たの?』『ああ。ヘンリーは何処から来たんだ?』『ヨークシャーから来たんだ。良い所だよ。』『そう。』ルームメイトのヘンリーと仁錫が話をしていると、何処か気取ったような笑い声が聞こえたかと思うと、前髪をなでつけながらウィリアムが彼らの前に現れた。『ヨークシャーだって?あんな田舎の何処か素晴らしいんだか!ただ羊とムーアが広がるだけの退屈な所じゃないか!』『ふん、行ってもいないくせにそうやって決めつけるのは貴族の傲慢さから来ているのかな?己の物差しで全てを決めつけようとするお方がおっしゃることは違うようだな?』仁錫はそう言ってウィリアムを黙らせると、ヘンリーの方へと向き直った。『さてと、話の腰を誰かさんに折られてしまったから、外で話そうか?』『う、うん・・』ヘンリーが慌てて仁錫の後を追って部屋から出て行くと、中から何かが壊れる音がした。『ねぇ、ひとつ聞いていい?どうして君は、ウィリアムを怖がらないの?』『怖がるも何も、あいつは別に大した奴じゃないだろう。』 中庭にある噴水の淵に腰を下ろしながら仁錫がそう言ってヘンリーを見ると、彼は驚愕の表情を浮かべていた。『何かおかしいことを言ったか?』『君って、はっきりと言うタイプなんだね。』『馬鹿の為に我慢して居ても無駄だし、ああいう輩ははっきり言わないとわからないだろう?』家で父の本妻とその娘達から嫌味や陰湿な嫌がらせを受けている仁錫にとって、ウィリアムの幼稚な嫌味やいじめなど屁でもなかった。そんな仁錫の毅然とした態度が気に入らなかったのか、ウィリアムは少し手の込んだ嫌がらせを彼にしたのは、銃剣の訓練の時であった。『構え、撃て!』 教官の合図と共に弾を込め、引き金を引いた仁錫であったが、弾丸は発射されなかった。
夕食の料理はフルコースだったが、船上での食事ですっかりテーブルマナーが板についた椰娜(ユナ)は、器用にフォークとナイフを使ってステーキを切っていた。『ふん、なかなかやるじゃないの。』ふと俯いていた顔を上げると、オリガが冷淡な視線を自分に向けていた。今まで椰娜が何かを失敗するのではないかと目を光らせているかのように。“かのように”ではなく、彼女は椰娜の一挙手一投足をつぶさに観察し、椰娜が何か失態をしでかすのではないかとにらんでいた。『お母様、そんなに穴が開くほどユナを見つめていたら、落ち着いて食事ができないじゃないの。』『そんなの、この子が気にしなければよいことです。』アナスターシャの抗議をさらりと受け流したオリガは、そう言ってナプキンで口元を拭いながら椰娜を見た。『ねぇユナ、向こうでは何を習っていたの?』『主に三味線や箏を習っていました。あと踊りも。』『じゃぁピアノは?』『此処に来る前に習い始めたのですけれど、まだ上手く弾けなくて・・』『あら、だったらわたしが教えてあげるわ。いいでしょう、お父様?』アナスターシャが期待に満ちた瞳でニコライを見ると、彼は静かに頷いた。『好きにするといいよ。』『駄目ですよ、ちゃんとした先生にレッスンを受けさせないと。あなたはもうこのベロワ家の一員なんですからね。』『はい、わかりました・・』『さてと、明日からあなたには家庭教師をつけますからそのつもりで。』オリガはそう言うと、さっさと椅子から立ち上がってダイニングから出て行ってしまった。 夕食の後、椰娜は自分の寝室に入るなり溜息を吐いてソファに腰を下ろした。結いあげていた髪を下ろすと、椰娜はヘアブラシで髪を梳いた。ふと、京都で仁錫(イソク)と別れた日の事を思い出し、椰娜は急に涙を流した。自分と同じくらいの長さだった仁錫の輝くような金髪に鋏を入れた時、何だか己の半身を引き裂かれるような気持ちだった。仁錫と遠く海を隔てて離ればなれになってしまった今、椰娜は仁錫のことが恋しくて堪らなかった。(仁錫・・会いたいわ。)椰娜は涙を拭いながら、首に提げているロケットを開き、仁錫の写真にキスをした。『おはようございます、ユナ様。昨夜は良く眠られましたか?』『ええ。それよりも家庭教師の方はいついらっしゃるの?』『実はその事なのですが、歴史と国語はわたしが担当する事になりました。本日から宜しくお願い致します。』『こちらこそ宜しくね。あなたなら安心だわ。』『さぁ、それはどうでしょうか。わたしは結構厳しいですよ?』アレクセイはそう言うと、悪戯っぽい笑みを浮かべた。 はじめは冗談だと思っていた椰娜であったが、アレクセイの授業は彼が言った通り厳しいものだった。『さっきから同じ箇所を何度も間違えておられますね。もう一度初めからやり直しです!』 国語の授業となり、アレクセイから作文を書けと言われた椰娜が辞書片手に四苦八苦しながら書いた作文をものの数秒で突き返された。何度もそれが続き、国語の授業が終わった頃には椰娜は疲労困憊(ひろうこんぱい)していた。 たおやかな外見とは裏腹に、アレクセイはスパルタ方式の授業を行う厳しい教師であった。
異母姉・アナスターシャとすっかり打ち解けた椰娜(ユナ)は、彼女と共にサンクトペデルブルク市内を観光した。『どう、素敵な街でしょう?』『ええ。お姉様が居て下さってよかった。こんな広い街に一人で放り出されたらどうなっていたことか。』『あら、それは嬉しいわね。わたしね、今まで一人っ子として育ったから、あなたという妹が出来て嬉しいのよ。』アナスターシャはそう言うと、椰娜を見た。『お母様のことは許してあげて。あの人は、今まで辛い思いをなさってきたから。』『辛い思いとは?』『お母様は、男児を産むことが出来なかったの。その所為で、お姑さん・・わたし達のお祖母様に色々と嫌味を言われてきたそうよ。だからあなたの存在を知って、素直に喜べないんじゃないかしら?』オリガと、自分の母との間に何があったのか、椰娜は知らない。だが、正妻と愛人という立場からして、その関係は決して良好なものではないことは想像できる。『お母様は、あなたのお母様の事を憎んでいらしたわ。自分に持っていないものを持っていたから、憎らしいと。』『持っていないもの?』『わたしにもよくわからないのだけれど、あなたのお母様はとても美しい方だったそうよ。外見は勿論、内面の美しさがおのずと滲み出ていらしたって、お母様が。』 異母姉の言葉を聞いた椰娜は、急に亡き母の事が知りたくなった。『お前の母親の写真が見たい?』『ええ、お父様なら持っていると思いまして・・もしお持ちなら、見せていただけないでしょうか?』 夕食前、ニコライの書斎を訪れた椰娜は、母の写真を見せてくれるよう父に頼んだ。『ちょっと待っていなさい。』ニコライはそう言うと、机の引き出しから一枚の写真を取り出した。 そこには、鮮やかな韓服(ハンボク)姿の女性が映っていた。まるで椰娜はその写真を見た途端、自分がそこに映っているような錯覚に陥った。『お前に似ているだろう?』『ええ。これが、わたしのお母さん・・』『あいつには辛い思いをさせた・・出来る事ならお前と生きて、会いたかった。』『わたしも、そう思います。』椰娜はそう言うと、髪に挿していた牡丹の簪を抜くと、それをニコライに見せた。『母の形見です。』『これは、わたしが贈ったものだ。』ニコライは簪を握り締めるなり、大粒の涙を流した。『お父様、わたしは一度もあなたを恨んだことはありません。実の母親が居なくても、わたしには二人の母と、あなたが居ます。それだけで充分です。』『そうか・・その言葉を聞いただけでも嬉しいよ。』ニコライはそっと椰娜の手を握り締めると、乱暴に上着の袖口で涙を拭いた。『あなた、テーブルマナーをご存知なのかしら?』『ええ、向こうで一通り習いましたから。』 夕食の時間、オリガは無遠慮な視線を椰娜に投げつけながらそう言うと、鼻に皺を寄せて不快そうな表情を浮かべ、ナイフとフォークでステーキを切った。『さぁ、頂きましょう?』『はい、お姉様。』
『長旅ご苦労さまでした。さぁ、こちらへ。』『ありがとう。』 横浜から船に乗って2ヶ月の長旅を経て、椰娜(ユナ)はロシア・サンクトペテルブルク港へと降り立った。 初めて見る父の母国・ロシア帝国の首都は、巨大な劇場や商店などが目抜き通りに建ち並び、喧騒に満ちていた。『ロシア語がお上手になられましたね。』『そうかしら?だってここに住むのだから話せないといけないでしょう?』椰娜はそう言うと、父の秘書・アレクセイを見た。『それはそうですね。でもあなたが短期間でロシア語をマスターできたなんて驚きですよ。』『わたしは一つの物事にベストを尽くすんです。』 ロシアまでの船旅の間、椰娜はアレクセイから歴史やテーブルマナーといった貴族として相応しい立ち居振る舞い・教養を叩き込まれた。今まで妓生(キーセン)として優雅な立ち居振る舞いをベクニョから幼き頃より叩き込まれていた椰娜にとって、一流のレディとなる為のレッスンは苦ではなかった。まるで水を得た魚のように、椰娜は船上で開かれるパーティーでウィットに富んだ会話を貴族達と交わし、たちまち椰娜はロシア社交界の注目の的となった。『この調子ならば、あなたは大丈夫でしょう。』『ありがとうございます。』『あれが、あなたのお父様とそのご家族が住む家です。』そう言ってアレクセイが指したのは、瀟洒(しょうしゃ)な煉瓦造りの邸宅だった。『アレクセイ、お帰りなさい。その子なのね?』『はい、奥様。』 邸の中へと椰娜がアレクセイとともに入ると、玄関ホールには髪を髷にしてひっ詰めた女性がじろりと椰娜を睨みつけた。『ユナさん、こちらはあなたのお父様の奥方、オリガ様です。』『初めまして、奥様・・』『挨拶は無用です。あなたがあの娼婦の娘ね?憎らしいほどよく似ていること。』オリガの言葉を聞いた椰娜は、頭に冷水を浴びせられたかのような感覚に襲われた。正妻である彼女が、夫が外の女との間に作った自分を心から歓迎していないことはわかっていた。わかっていたが、面と向かって拒絶されると辛かった。『お母様、何をなさっているの?』『アナスターシャ、部屋に戻っていなさいと言ったでしょう?』階段の方から声がしたかと思うと、金髪の巻き毛を揺らしながら一人の少女が階段から降りてくるところだった。『あなたがユナね?わたしはアナスターシャよ。これから仲良くしましょうね。』少女はそう言うと、椰娜の手を握った。 これが、異母姉・アナスターシャとの出会いだった。『ユナは今まで京都に居たのでしょう?あそこは素敵な所なの?』『ええ。』『一度機会があれば行ってみたいと思っていたのよ。その時は案内してね。』『わかりました、お嬢様。』『そんな他人行儀な呼び方はやめて。“お姉様”って呼んで頂戴。』『わかりました、お姉様。』椰娜がそう言ってアナスターシャを見ると、彼女は自分に優しく微笑んでいた。
1894年7月、日清戦争が勃発した。それと同時に、ニコライは半月早く母国に帰還する事となった。「そうか、えらい早いなぁ。」「これから祇園祭を控えてるいうのに、何や迷惑掛けてしまうようで申し訳ないです。」椰娜(ユナ)が志乃にニコライが本国に帰国する事、そして自分も彼に着いていく事を話すと、彼女は少し困惑そうな顔をした後、にっこりと微笑んで椰娜にこう言った。「気ぃつけてな。あんたが居なくなるんは寂しゅうなるけど、時々手紙を送ってや。」「おかあさん、すいまへん・・」「謝らんでもよろし。いつかあんたと別れる日が来ると思うたけど、それが少しはやまっただけや。」志乃は椰娜を励ますかのように肩を叩いてくれ、椰娜は思わず泣きそうになった。 それからは、慌ただしく荷造りとロシア語の勉強、そしてお座敷に追われ、椰娜は休む暇がなかった。その上、芸妓を引退するということで、志乃とともに馴染みの料亭や置屋、そして師匠さん達に挨拶まわりをした。「ゆなちゃん、オロシヤに行ってもお気張りや。」「うちら応援してるさかいな。」「ほんまに、おおきに。」ご贔屓筋から激励され、椰娜はいつの間にか自分のことをこんなに多くの人達が見ていたと言うことに気づいた。「ゆなちゃん、もう明日やな。」「へぇ。おかあさん、短い間どしたけど、お世話になりました。」椰娜はそう言うと、志乃に頭を下げた。彼女には、花街で生きる術や、人として大事な事を全て教わった。朝鮮に居る母がベクニョなら、日本の母は、椰娜にとって志乃だった。 二人の母に支えられた椰娜は、盛大な引き祝いとともにご贔屓筋や他の置屋の芸舞妓達から別れを惜しまれた。「必ずとは言わへんけど、日本に戻ってくることがあったら、うちらに顔を見せよし。待ってるからな。」「へぇ、おかあさん・・」「いやぁ、ゆなちゃん、こないな場で泣いたらあかんえ。折角のお顔が崩れてしまうやないの。」感極まって泣き出す椰娜に、先輩格の芸妓・文千代がそっと懐紙で椰娜の目元を拭った。彼女達とは色々あったが、楽しかった。 翌朝、椰娜は京都駅へと向かう馬車を置屋の前に待たせて、志乃達と最後の別れを惜しんでいた。「ほな、みなさんお元気で。」「またな。さよならは言わへんえ。」「へぇ、うちもどす。」志乃と熱い抱擁を交わした椰娜は、ゆっくりと彼女に背を向けて置屋から出て行った。『さぁ、参りましょうか?』『はい。』ゆっくり馬車に乗り込んだ椰娜は、馬車の窓から志乃が自分に手を振っていることに気づき、角に曲がって「石鈴」が見えなくなるまで椰娜は彼女に手を振った。(ベクニョ様、志乃おかあさん・・あなた達のことは、決して忘れません!) 二人の母の存在を胸に刻みながら、椰娜は父の母国・ロシアへと渡った。
「アレクセイさん、どうしたんどすか?」「事前の約束も取り付けずにいきなり来てしまって申し訳ない。」アレクセイはそう言って上がり框(かまち)に腰を下ろした。「何やお急ぎの様子どすけど、何かあったんどすか?」「ああ。実は・・」 彼が次の言葉を継ごうとした時、玄関の硝子戸が勢いよく開き、中に早口でロシア語を喚き散らしながら一人の将校と思しき男が入って来た。男に対し、アレクセイも早口のロシア語で言い返し、二人の間でどんな会話が交わされているのか、椰娜(ユナ)はさっぱりわからなかった。やがて、男は肩で息をしながら戸を乱暴に閉めて外へと出て行ってしまった。「何を話してたんどすか?」「お気になさらず。それよりも、すぐにわたしとホテルに来て下さい。緊急事態が起こりました。」「緊急事態、どすか?」戸惑う椰娜に対して、アレクセイは何処か切迫した表情を浮かべていた。「どないしたん、ゆな?」「おかあさん、急ですいまへんけど、出掛けてきます。」「そうか、気ぃつけて行きよし。」「へぇ。ほなアレクセイはん、行きまひょか。」 数分後、椰娜は馬車に揺られながら、父・ニコライとアレクセイが宿泊しているホテルへと到着した。昇降機のボタンを押したアレクセイだったが、混んでいる時間帯なのかなかなか一階に降りて来ない。「これでは埒が明きませんね、階段で行きましょう。」「へぇ・・」彼らが泊まっている部屋は15階にあった。 螺旋階段を上り始めた椰娜だったが、7階まで登り終えたところで息が切れてしまい、床に座り込んでしまった。「うち、もう立てやしまへん。」「そうですか。じゃぁここからは昇降機で行きましょう。」アレクセイがそう言ってくれたので、椰娜はほっと安堵の溜息を吐いた。『旦那様、失礼致します。』15階に辿り着くと、アレクセイはニコライが宿泊する部屋のドアをノックした。『入ってくれ。』『失礼します。』アレクセイとともに部屋に入った椰娜は、ソファに座ったニコライの顔が酷く沈んでいるのが見えた。『どうかなさったんですか?』『実はな、帰国命令が先程届いたんだ。』ニコライはそう言うと、椰娜に一枚の書類を見せた。 だが、それはロシア語で書かれていたのでどんな内容が書かれているのか全く椰娜にはわからなかった。『あの、うちロシア語が全く読めまへん・・』『そうだったな。アレクセイ、これを英訳したものをこの子に渡してくれ。』『かしこまりました。』アレクセイはさっと椰娜に英訳した書類を手渡した。 そこには、ニコライの帰国命令が早まった事が書かれていた。『今月の27日て・・あと2週間しかないやないですか?あと半月ほど日本に滞在するて・・』『わたしだって予定外の事だ。だが戦争が起きたのだから仕方あるまい。』『戦争って、何のことどす?』小首を傾げる椰娜の前に、アレクセイが英国の新聞を差し出した。そこには、日本と清国が両国とも宣戦布告し、日清戦争が勃発したという記事が一面に載っていた。(日本と清国が戦争・・?)
夏の気配を感じられるようになった6月初旬、仁錫(イソク)はマッケンジー大尉達ととともに渡英する日が来た。『船室は、こちらです。』 港に停泊している豪華客船を見た仁錫は、その大きさに圧倒されながらパーシバルと共に「グランディア号」へと乗船した。 そこはまるで、海上の宮殿のようだった。吹き抜けの天井には、天使のフレスコ画が描かれており、シャンデリアが貴婦人達のドレスを華やかに照らしている。そして階段の中央には、天使の像があった。『豪華客船への旅は初めてで?』『ええ。』『きっと気に入ると思いますよ。』パーシバルはそう言って仁錫に微笑むと、船室のドアを開けた。 そこは横浜の邸宅とさして変わらないほどの、豪華な調度品や家具がある部屋だった。「まるで海上に浮かぶホテルのようだな・・」仁錫は窓から見える大海原を眺めながら、そう韓国語で呟いた。この綺麗な海を、椰娜(ユナ)に見せたかった。しかし椰娜と再会できる日はいつになるのかはわからない。「姫様、見てください。美しい海でしょう?」ロケットの中に収まっている椰娜の写真に語りかけながら、仁錫は澄んだ瞳で水平線の彼方を見つめていた。「今日がすずちゃんが渡英する日やなぁ。何やさびしゅうなるわ。」「そうどすなぁ。あの子とはいつも一緒やったさかい、もう会えなくなるんが辛くてかなんのどす。」椰娜はそう言うと、涙をそっとハンカチで拭った。「大丈夫や、また会える日が来るえ。な?」「そうどすな。うちはあの子に別れを言いませんでした。また会えるからって信じてるからどす。こないなことで弱気になってたら、あの子に叱られます。」椰娜はロケットを見ると、そこには笑顔の仁錫の写真が自分を見返していた。まるで、“また会えますよ”と彼が言ってくれているかのように。 出航を知らせる汽笛の音が港に鳴り響き、甲板には桟橋に集まった友人や家族に別れを告げる人達でごった返していた。仁錫には、別れを惜しむ家族や友人は港には居ない。だが、そんな事を気にするほど、彼は弱くなかった。 椰娜とはまた会える日が来る―その日を信じて、頑張らなければ。『何を考えているんだい?』『別に。友人とまた会える日が来るだろうかと。』『生きている限り、また会えますよ。』『そうですよね・・』やがて二人を乗せた船は、ゆっくりと港から離れていった。 一方、祇園祭を間近に迎えた京では、その準備に慌ただしく追われる日々を椰娜は送っていた。「忙しくてかないまへん。」「この季節は忙しいさかいなぁ。倒れんようにしとき。」「へぇ。」暑さを凌ぐ為、顔を団扇であおぎながら椰娜が麦茶を飲んでいると、玄関から誰かが呼ぶ声が聞こえた。「今行きますさかい。」椰娜が玄関先へと向かうと、そこには以前父・ニコライの隣に居た彼の秘書が立っていた。
『何故奥様方とは仲良くされないのです?』『向こうが敵意を抱いているので。敵とわざわざ仲良くする馬鹿は居ないでしょう?』 パーシバルと乗馬を楽しみながら、仁錫(イソク)はそう言って彼に微笑んだ。『あなたは見かけに劣らず、頑固な方のようですね。』『そう言っていただけると嬉しいですね。』パーシバルの皮肉めいた言葉をさらりと流すと、仁錫は公園へと入っていった。 この地区には、主に外交官とその家族達、そして彼らを相手に商売をする商人達が住んでいる。公園の近辺にはそんな商人達が経営するレストランや商店などが建ち並び、賑わいを見せている。『旦那、これを3ポンドで買わないかい?今朝摘んだばかりの美しい花だよ!』馬上の仁錫とパーシバルの前に、様々な商品を籠に積んだ売り子達が何処からか湧いてきた。『相手にしてはなりませんよ。』『わかってるさ。』二人は素早く公園を抜けると、港の方へと向かっていった。 そこでは外国の船舶が何十隻も停泊し、屈強な船乗り達が怒号を喚き散らしながら積荷を下ろしていた。漢陽(ハニャン)の港よりも、ここは何倍も活気に満ち溢れていた。『少し向こうで何か見て来る。』仁錫はそう言って馬から降りると、港の近くにある商店の中へと入った。そこには主に女性物の髪飾りや装身具を売っている店だった。 椰娜(ユナ)の為に何かを買おうと店内を選んでいたら、ふと壁に掛けられていたプラチナのロケットに目がいった。『これはお幾らですか?』『5ポンドになります。』 仁錫は財布の中を確かめると、丁度5ポンドあったので、店員に代金を支払うとロケットを受け取り、店から出た。『それは?』『親友への贈り物です。気に入ってくださればいいのですが。』 数日後、椰娜の元に仁錫から手紙とロケットが届いた。“姫様、お元気でいらっしゃいますか?そろそろ祇園祭の季節となりますので、色々とお忙しくなることでしょう。出来れば一度上洛して渡英したいのですが、渡英の時期が早まってしまい、行くことが出来ません。そのお詫びといってはなんですが、あなたに素敵なロケットをプレゼントいたします。では愛を込めて、イソクより”「あの子は優しくて誠実な子やなぁ。」「へぇ。」 椰娜はそう言うと、成煕(ソンヒ)の形見のロケットを外すと、自分の髪を一房切り、その中に入れた。“仁錫、この前は素敵なロケットをありがとう。感謝の証に、成煕姉さんのロケットを贈ります。これをわたしだと思って大事にしてください、椰娜より” 横浜で椰娜からロケットと手紙を受け取った仁錫は、そっとそれに口付けた後嬉しそうに微笑んだ。『今日はやけにご機嫌だこと。』『ええ、友人から手紙を貰いましたので。』エリザベスが部屋に入って来たのを見た仁錫は、素早く手紙とロケットをシーツの下に隠すとそっけない口調でそう言って彼女を見た。『まぁ、わたくしはかなり嫌われているのねぇ。別に構わないけれど。』彼女が部屋から出て行くと、仁錫はロケットを首に提げた。
「イソク様、夕食をお持ちいたしました。」「ありがとう、そこに置いておいてくれ。」「かしこまりました。」 秘書はそう言うと、仁錫(イソク)に頭を下げて部屋から出て行った。 仁錫はベッドから起き上がると、机の上に置かれていた夕食を食べる為に、椅子に腰を下ろした。 椰娜(ユナ)と教坊に居た頃、“妓生(キーセン)もテーブルマナーを身に付けるべきだ”と先見の明があったベクニョがテーブルマナーを教えてくれたお蔭で、フォークとナイフを器用に使いながらサーロインステーキを平らげた。 あのままダイニングでマッケンジー大尉の妻とその娘達に囲まれていたら、食欲が失せてこんなに上等な肉を味わうことが出来なかっただろう。 向こうが敵意を抱いているのに、自ら歩み寄ることは出来ないと仁錫は思い始めていた。人間というものは、食べ物と同じように人間の好き嫌いがあるもので、嫌いな人間の前では自然と笑顔が消えてしまうものだ。 それを教えてくれたのは、椰娜と暮らした教坊時代だった。 嫌な客を前にしても、笑顔を振りまいて接待する妓生として酒宴に出ながら、彼女達が陰で客の悪口を言い合っている姿を何度か見た事がある。だがそれを決して本人の前では言わないことが、彼女達のプロとしての心得だった。 しかし、親友である椰娜とも別れ、一人だけでこの憎悪と敵意に満ちた家に住むのは骨が折れそうだった。どんなに嫌な事があっても、常に誰かと愚痴を吐き合えるから辛くはなかった。ここには愚痴を吐く相手も、聞く相手も居ない。 居るのは、己の存在を無視し、否定する人間だけだった。『イソクはどうした?』『あの子なら自分の部屋で食事をしましたわ。よっぽどわたくし達と顔を合わせたくないのね。』エリザベスはデザートのパイを食べながら、そう吐き捨てるかのように言った。『お前はちょっとイソクに冷た過ぎるんじゃないか?』『それは当たり前でしょう?誰が好きこのんで愛人の子に優しくするものですか。それにあの子、あなたに似ているから気に入らないわ。あの娼婦に似ているならともかく・・』『やめないか、こんな話は。』『そうね。もう休ませていただくわ。』エリザベスは派手な音を立ててフォークを皿に叩きつけると、ダイニングから出て行ってしまった。(全く、これじゃぁイソクがこの家に馴染むどころか、家から出て行ってしまいそうだ。)一人ダイニングに残されたマッケンジー大尉は深い溜息を吐きながら、ウィスキーを飲んだ。自分の身勝手な都合で、エリザベスを不快にさせたことはわかっている。 彼女は今は亡き姑―大尉の母・ナタリーから男児を産めなかったことで激しく責められたことがあり、今も尚その事を引き摺っている。 夫が海外の娼婦との間に出来た子どもを引き取りたいと言った時、案の定彼女は猛反対したのだった。“あなた、何処までわたくしを馬鹿にするつもりなの!?” これから自分達の生活に暗雲が立ち込めるのは間違いないと思いながら、マッケンジー大尉は残りのウィスキーをグラスに注ぐと、それを一気に飲み干した。 翌朝、仁錫が厩(うまや)へと向かうと、父の秘書・パーシバルが馬に鞍をつけていた。『おはようございます、イソク様。昨夜は良く眠れましたか?』『ああ。父はそうではなかったようだけど。』仁錫はそう言うと、白馬にさっと跨った。
「おかあさん、もしかしてうちらが話している時、誰かが盗み聞きしてたんと違いますやろか?」「それはないわ。あの夜ここに居たんは文菊(ふみきく)ちゃんだけやで。それにあの子は、人の話を盗み聞きするような子やない。」「そうどすなぁ。」だとしたら雪乃に椰娜(ユナ)のロシア行きの話を喋ったのは誰なのか―置屋の中に犯人が居ないとわかり、椰娜は首を傾げた。「それよりもおかあさん、雪乃さん姉さんが、うちのこと“掟破りの子”やと言うてはりました・・」「そんなん、気にせんでよろし。雪乃はなぁ、あんたが来る前は宮川町のみならず、都の名妓と呼ばれた時期があってなぁ。男爵様や子爵様がこぞって宝石やら毛皮やら、高価なプレゼントを抱えてあの子に求婚しに来たことがあったんやで。」「へぇ、そないなことがあったんどすか。」 雪乃のことは良く知らなかったが、宮川町の中で売れっこ芸妓は彼女であるとう噂を、椰娜は何処かで耳にしたような気がした。「けどなぁ、あの子が売れたんはもう随分昔の事や。あの子が舞妓から芸妓に衿替えしてから、あの子は金遣いが荒くなって、賭博にも手を出すようになったんや。」「そんで、今は・・」「もう博打はやってへんとか言うてるけど、あやしいもんやわ。未だに竜生会の者と手ぇ切れてへんっていうのがもっぱらの噂や。」志乃が吐き捨てるように言った“竜生会”というのは、余り花街の住人達にとって有り難くない存在らしい。「おかあさん、竜生会ってなんどすか?」「ああ、あんたはよう知らんかったな。竜生会っちゅうのは、関西に拠点を置いてるヤクザ者や。」志乃は顔をしかめてそう言った後、恐怖で身体を震わせた。「あいつらは賭博だけでなく、金融業もしてるそうや。何でも雪乃は賭博でこさえた莫大な借金を、置屋のおかあさんに内緒で竜生会に肩代わりさせて貰ってるらしいわ。あんまり近寄らん方がええ連中や。」「そうどすか。」雪乃に関する黒い噂を聞いた椰娜は、彼女の悪意に満ちた顔が脳裏に浮かんできて悪寒が走った。「おおい、誰か居るか!?」 不意に玄関先から野太い男の声がしたので、志乃が弾かれるようにして部屋から出て行った。「吉田様、お久しぶりどすなぁ。」「ゆなは居るか?」「へぇ、ここに。」慌てて志乃の隣に来た椰娜に向かって、吉田は優しく微笑んだ。「お前に土産を持って来た、受け取れ。」そう言って彼が椰娜に手渡したのは、銀座の有名宝飾店のロゴが入った紙袋やった。「これは何どすか?」「開けてみろ。」「へぇ・・」 恐る恐る椰娜が紙袋の中から包装紙に包まれた箱を取り出して包装紙を剥がすと、中からビロードの箱が出てきた。 椰娜が箱を開くと、そこには桃の種ほどの大きさをしたサファイアの指輪が入っていた。「これ、ほんまにうちが貰うてもよろしいんどすか?」「お前への土産だと言っただろう?遠慮なく受け取れ。」「おおきに。」「嵌めてみろ。お前の指のサイズに合っている筈だ。」吉田はそう言うと玄関先で跪くと、椰娜の手を掴んでサファイアの指輪を嵌めてくれた。指輪は、椰娜の左手の薬指にピッタリと合っていた。
一方、日本に戻った椰娜は、志乃に教坊で聞いたことを話した。「そうかぁ・・オロシヤに行くつもりはあるんか?」「まだ迷ってます。鍛錬の途中で投げ出すのは嫌どすさかい・・」「そやなぁ。まだ衿替えして間もないのにやめますいうんは、身勝手やと思うわ。すぐに答えは出ぇへんやろうから、じっくりと考えよし。」「ほな、うちはもう休みます。」「長旅で疲れたやろうから、ゆっくりお休み。」 自分の部屋に入った椰娜は、着物から浴衣に着替えると、布団に包まって寝た。 突然の実の父の登場と、彼が自分を引き取って育てたいと言われて、椰娜はまだ心の整理がつかないでいた。 今までベクニョ達に育てられ、彼らを“家族”だと思っていた椰娜は、ニコライが自分の父親だという実感がいまいち湧かないのだ。(深く悩んだら、答えは出るんやろうか?)そう思いながら、椰娜は溜息を吐いてゆっくりと目を閉じた。次第に、眠気が襲ってきた。「おはようございます。」「おはようさん。ゆなちゃん、何だか今日は可愛いなぁ。」「そうどすか?」 翌朝、椰娜が茶道の稽古に向かうと、馴染みの料亭の店主から声を掛けられた。ゆっくりと休んだお蔭なのか、疲れが取れたようだ。それに、ニコライとのことばかり考えても居られない。自分には、まだやることがあるのだから。「お師匠さん、今日もお頼み申します。」「ゆなちゃん、いらっしゃい。」茶道の稽古を椰娜が受けた後、椰娜は宮川町の舞妓に呼ばれた。「何どすやろか、お姉さん方?」「あんたか、ここに入ってから1年も経たんうちに衿替えしたっていう舞妓は?」そう言って椰娜に詰め寄って来たのは、名妓と名高い宮川町の雪乃だった。「そうどすけど・・あのぅ・・」「あんたみたいな掟破りな子、迷惑やわ。さっさとオロシヤでも何処でも行ってくれへん?」 大袈裟な溜息とともに、雪乃は言いたいことだけ言って仲間の芸妓達とともに茶室から出て行ってしまった。 自分がロシアに行こうかどうか迷っていると話したのは、志乃だけだ。一体何処で話が漏れたのだろうか。まさか、志乃が漏らすことはないだろう。 彼女は口が堅い事で知られ、置屋の女将という仕事柄、客の秘密などを口外する事は絶対にしない人だ。だとしたら誰が、自分のロシア行きを雪乃に話したのだろうか。気分が沈んだまま椰娜が花見小路を歩いていると、誰かが自分を尾行していることに気づいた。足早に置屋へと入った椰娜が息を切らしているのを見た志乃は、椰娜が何処か怯えたような顔をしていることに気づいた。「どないしたん、ゆなちゃん?」「さっき人がうちの後を尾けてきはって・・」「そうか。さてと、うちの部屋に来よし。」「へぇ。」 志乃から水を受け取った椰娜は、それを一口飲むと、彼女に茶道の稽古場で雪乃に言われたことを話した。「おかあさんのこと、うちは信じてます。」「誰が、あんたのことを話したのか、気になるなぁ。」「へぇ・・」椰娜と志乃は、揃って溜息を吐いた。
『今日からここが、君が住む家だ。』そう言って父親の秘書が馬車を降りた仁錫(イソク)を案内したのは、横浜の外国人居住地にある瀟洒(しょうしゃ)な洋館だった。『父は何処に?』『生憎ながら、マッケンジー大尉は所用で外出しております。』『そうか・・』父が留守中に、彼の本妻と子ども達が住まう洋館に入ることを躊躇(ためら)った仁錫だったが、意を決して中へと入った。『あら、その子がイソクなの?』彼の姿が玄関ホールに現れることを待っていたかのように、そこには薄紫のドレスを纏った女性がそこに立っていた。彼女はエメラルドの瞳で、仁錫を品定めするかのように見た。『はい、奥様。』『綺麗な子ね。』マッケンジー大尉の妻・エリザベスはそれだけ言うと仁錫に背を向けて階段を上っていってしまった。正妻の彼女が、愛人の子である自分に対して良い感情を持っていないことくらいわかっていたが、露骨に避けられると少し参った。『さぁ、こちらですよ。』 秘書に促されて仁錫が入ったダイニングには、既にマッケンジー家の三姉妹が席に着いていた。彼女達は仁錫がダイニングに入ると同時に、先程エリザベスが彼に投げつけた嫌悪の視線と同じものを仁錫に向けた。『ねぇ、この子が例の子なの?』『初めまして、イソクです。』『変な名前ね。』細長いダイニングテーブルの左端に座っていたマッケンジー家の次女・ヴィクトリアは吐き捨てるような口調で言うと、仁錫にそっぽを向いた。『あなたはこちらへ。』仁錫はマッケンジー大尉の隣の席に座ることになった。『ねぇ、いつまでお父様を待たなければならないの?もしかしたら、わたくし達この人と一緒に食事をしなくてはならないのかしら?』まるで、“こいつと一緒に食事なんぞしたくない”と言わんばかりの口調で秘書に食ってかかるヴィクトリアの横顔は、お世辞にも美人には見えなかった。『ご安心してください、お嬢様方。わたしは別室で食事しますから。』仁錫はさっと椅子から立ち上がると、ダイニングから出て行った。『イソク様、お気にならさないでください。』『予想はしていたが、まぁ悪くはない。』仁錫は口端を上げて笑うと、秘書の方に振り向いた。『お部屋に案内いたします。』 数分後、秘書に案内された部屋は、日当たりが良く広い寝室だった。『暫くここで待っていてください。』『わかった。』秘書が部屋から出て行くと、仁錫は溜息を吐いてベッドに横たわった。彼はマッケンジー大尉から贈られた懐中時計を開くと、そこには椰娜(ユナ)が別れ際に渡してくれた髪が入っていた。(姫様、今頃何をしておられるのだろうか・・)笑顔で椰娜と別れたというのに、急に椰娜の事が恋しくなってしまった。
半年振りに会った仁錫(イソク)は、椰娜(ユナ)よりも少し背が伸びていた。「久しぶりね、仁錫。元気そうでよかった。」「心配をおかけしてしまって、申し訳ありませんでした。」そう言った仁錫は緑のリボンで結んだ長い金髪をなびかせながら、椰娜の手を握った。「見ない間に背が伸びてしまったわね。それに、少し大人びた気がする。」「気の所為ですよ。それよりも姫様、今日こちらに伺ったのは、姫様にお願いがあって参りました。」「お願い?」「ええ、それは・・」仁錫はそう言うと、椰娜の耳元で何かを囁いた。 椰娜は指先で仁錫の滑らかな絹糸のような髪を弄ぶと、溜息を吐いた。「ねぇ、本当に切っちゃうの?」「ええ。」「何だか勿体ないわ。」「戦場に長髪は邪魔になりますから。それに、暫く会えなくなるだろうから、姫様にわたしの髪を持っていただきたくて。」「そう。あなたがそう決めたのなら、何も言わないわ。」椰娜は鋏を握り締め、仁錫の髪を一房掴むと、それを切り落とした。「ちょっと変になってしまったかもしれないけど、どうかしら?」椰娜がそう言って仁錫に鏡を見せると、彼は満足気に微笑んだ。「結構格好良く切れてますよ。それよりも姫様、これを受け取ってください。わたしにはもう、必要がなくなりましたから。」仁錫は椰娜にリボンを手渡すと、椰娜はそれを宝物のようにそっと握り締めた。「仁錫が英国に行ってしまうなんて、寂しくなるわね。」「また会えますよ。それに、毎日手紙を書きますから、そんなに寂しがらないでください。」「わかったわ。」仁錫が英国に行ってしまうことは寂しかったが、ここで彼を引き留めるのは自分の我が儘のような気がした。「ねぇ仁錫、お父さんとはどう?上手くやっていける?」「それはわかりません。何せまだ会ったばかりですので。それにしても姫様、衿替えをされて、どうです?何か変わりましたか?」「あんまり変わっていないけど・・けれどおかあさんや吉田様は何だか雰囲気が大人びているって言うの。それよりも今後の事を最近考え過ぎちゃって眠れないのよね。芸妓を辞めた後はどうするのかって。それに、お父さんについてロシアに行こうかどうか迷っているし・・」「一度で急に決められませんから、じっくり考えた方がいいですよ。」そう言って自分に微笑んだ仁錫は、何処か決意を固めたような顔をしていた。「そうね。今は芸妓として鍛錬を積まないとね。」 椰娜が鋏を片付けようとしていると、仁錫が突然こんな事を言いだした。「姫様の髪を少し頂けませんか?」「どうして?」「いえ、別に深い意味はありませんが・・」「いいわよ、減るものじゃないし。」椰娜は艶やかな黒髪を一房掴むと、そこに鋏を入れた。「ありがとうございます。」「再会する日まで、大事に取っておきましょうね。」「ええ。」仁錫と椰娜は、別れ際に握手を交わした。「気を付けてね。さよならは言わないわ。」「ええ。」馬車に乗り込んだ仁錫の姿が次第に遠ざかって見えなくなるまで、椰娜は彼に手を振り続けた。
「失礼致します。」「どうした、何かあったのか?」「ええ、実は・・」青年は次の言葉を継ごうと口を開いたが、すぐさま椰娜(ユナ)の姿に気づき姿勢を正した。「お連れの方がいらしていたのですね。存じ上げませず申し訳ありませんでした。」「謝るな。それに、ゆなはベラベラと客の事を喋ったりはせん。」「へぇ。うちはそないなことせぇへんさかい、どうぞ続けておくれやす。」「そうですか、では・・」青年は軽く咳払いすると、吉田の耳元で何かを囁いた。「そうか・・ご苦労だったな。」「では、わたしはこれで失礼致します。」青年はちらりと椰娜を見ると、部屋から出て行った。「あの方は?」「ああ、俺の部下の瀬田だ。あいつは俺とは違って女遊びはせんから、少々固いところがある。さっきのお前に対する態度は全く悪気がないから、許してやってくれ。」「へぇ、わかりました。それよりも吉田様、うち何か変わりました?」「ああ。それにしても1年目で衿替えとは、随分女将は気が早いのだな。」「へぇ。おかあさんは、うちを見込んでくれはってるんどす。」「そうか。ゆな、さっきの話だがな・・お前が探していた仁錫(イソク)の消息がわかったぞ。」「ほんまどすか?」吉田が仁錫の名を口にした途端、椰娜の顔がパァッと輝いた。「一月前には鎌倉に居たが、今は東京に居る。何でも、彼の父親が見つかったらしい。」「そうどすか・・それは嬉しおすなぁ。」椰娜の脳裡に、自分を引き取りたいと言ってきた実父の顔が浮かんだ。「どうした?」「実は、うちも実の父親がわかったんどす。そのお人は、うちのことを引き取りたい言うてますねん・・」「お前は、どうしたい?」「まだ、わかりまへん。最近実の父親の事を知ったばっかりやから・・」「焦らなくてもいい。すぐに答えが出なければ、悩んだ末に答えを出せばいい。中途半端な答えを出したら後で後悔するからな。」「おおきに。」吉田の助言を聞いた椰娜は、少し気が楽になった。「おかあさん、ただいま戻りました。」「お帰り。今日は寒かったやろ。奥で温まりよし。」「へぇ。」置屋へと戻った椰娜は、火鉢の前に腰を下ろした。寒さでかじかむ手を火鉢の前に翳すと、熱が伝わり全身が温まったかのような感覚がした。「吉田様から、仁錫の消息がわかったて・・」「そうかぁ、よかったなぁゆなちゃん。」「おかあさん、うちはお風呂に入ってきます。」「今日はあんたの他にはまだお座敷から帰ってきてへんから、ゆっくり身体を温めよし。」「へぇ。」一旦部屋に戻り、浴衣に着替え脱衣所でそれを脱いだ椰娜は、ゆっくりと湯船に浸かって冷えた身体を温めた。 仁錫が「石鈴」に訪ねてきたのは、椰娜が衿替えして数日後のことだった。
確かに、志乃の言うことは尤もだと、椰娜(ユナ)は思っていた。 今までは男でありながら女として育ってきたが、思春期を迎え、大人の男として成長しつつある中で、いつまで性別を偽れるのかどうか不安だった。それに、舞妓として花街の住人となってまだ1年目だというのに、急遽衿替えをするというのは全く前例のないことだろう。通常なら、舞妓から芸妓へと変わる衿替えは、20歳前後に行われる。だが椰娜は16になったばかりで、衿替えの時期にはまだ早すぎる。“髭(ひげ)が生えてくる前に、引退しよし。”先ほど志乃から言われたその言葉が、胸にズシリと重く響いてきて、その夜椰娜は一睡も出来なかった。「あんた、酷い顔してるな。」「すいまへん、一晩中考えてしもうて・・」「そうか。それで、答えは出たんか?」「へぇ。」 翌朝、志乃の部屋に椰娜が入ると、彼女は三味線を奏でる手を止めた。「衿替えの話どすけど・・受けさせてもらいます。」「そうか。ほな、今日のうちに挨拶回りするさかい、早う支度しよし。」「へぇ、おかあさん。」志乃の部屋から出た椰娜は、鏡台の前に座って化粧を始めた。程よく白粉を刷毛で塗り、頬紅を馴染ませ、最後に下唇だけに紅を塗った。「ゆなちゃん、こんな朝早うから何処行くん?」「美千代さん姉さん、おはようございます。」支度部屋に姉芸妓の美千代が入ってきたので、椰娜は慌てて肌蹴た浴衣の胸元を直すと、彼女に頭を下げた。「これからおかあさんと衿替えのことで・・」「へぇ、そうか。それにしてもゆなちゃん、その年で衿替えやなんてたいした事やわぁ。それだけおかあさんはあんたを見込んではるんやなぁ。」「さぁ、どうですやろか・・うち、まだここに来て1年も経ってへんのに・・」「あんまり気張らんとき。」美千代はそう言って椰娜を励ますかのように、彼の肩を叩いた。「ほな、留守は頼んだえ、美千代。」「へぇ、おかあさん。」「ほなゆな、行こか。」玄関先で美千代たちに見送られた椰娜は、志乃とともに祇園甲部の組合会長宅へと向かった。「今日は朝早うからご苦労さんどしたな。さぁ、あがっておくれやす。」「ほな、失礼します。」二人を出迎えた組合会長・菊田はそう言って笑顔を浮かべると、部屋の奥へと引っ込んでいった。「そんで志乃さん、この子を衿替えさせたいいうんは、ほんまなんか?」「へえ。ゆなは他の誰よりも才能があるし、気配りも出来ます。華がある内に衿替えさせたいんどす。」「そやな、ゆなちゃんは稀に見る名妓や。早う衿替えさせたほうがええな。贔屓の料亭はんや屋形にはうちから言うとくさかい。」「おおきに。」 組合会長宅を辞したとき、志乃は安堵の表情を椰娜に浮かべた。「これでひと安心や。あとはあんたの心次第や。」「へぇ、おかあさん。」 舞妓1年目にして、椰娜は衿替えすることとなり、結う髪型も割れしのぶから先笄(さっこう)へと変わり、黒紋付の振袖へと変わっていった。「そうか、ゆなが衿替えか・・随分と早いものだな。」「へぇ。吉田はん、ゆなが芸妓になってもどうぞご贔屓に。」「わかっている。」志乃の酌を受けながら、吉田は椰娜が舞う“黒髪”を見た。 翌日、衿替えを済ませた椰娜は、花街にある料亭や屋形、そして贔屓客への挨拶回りなどに一日を費やした。「やはり芸妓となったお前には、違う魅力があるな。」「そうどすか?」「詳しくは説明できないがな。これからも贔屓にさせて貰おう。」吉田がそう言って椰娜に微笑んだとき、襖の向こうから声が聞こえた。「吉田殿、今宜しいでしょうか?」「入れ。」「では、失礼いたします。」静かに襖が開き、軍服姿の青年が部屋に入ってきた。
『マッケンジー大尉、お久しぶりです。』『誰かと思ったら、ユウじゃないか!久しぶりだな。』 貴婦人達と談笑していた男は、悠馬の方へと向き直るなり、嬉しそうにそう言うと彼の方へと駆け寄った。『大尉、暫く僕達だけで話がしたいので・・』『ああ、わかった。済まないが君達、席を外してくれるかな?』マッケンジー大尉がそう言うと、貴婦人達は憮然とした表情を浮かべて次々と部屋から出て行った。『これでいいかな?』『ええ。では大尉、こちらの方は・・』『紹介されなくてもわかってるよ。この子が、わたしの息子か?』『仁錫(イソク)といいます。』仁錫は長年生き別れた父親を前にして、緊張のあまり一言も発する事ができなかった。 その様子を見たマッケンジー大尉はおもむろに仁錫に近づくと、彼を力強く抱き締めた。『会いたかった、イソク。今まで放っておいて済まなかった!』『父上・・』マッケンジー大尉―実の父親に初めて抱き締められ、仁錫は自然と涙を流していた。『これからどうするんだ?わたしとともに来るのか?』『そうしたいのは山々ですが、その前に一度会っておきたい人が居ます。』仁錫はそう言うと、椰娜(ユナ)のことを思い出した。(姫様、もうすぐあなた様に会いに行きますから、待っていてください。)「本当に怪我の具合は大丈夫なのかい?」「ええ。」暴漢に襲われ、数ヶ月間の入院生活を終えた椰娜は日本に帰る事になった。「まだ本調子じゃないんだから、無理するんじゃないよ。」「わかりました、ベクニョ様。お元気で。」「ああ。」船に乗り込む前、ベクニョと抱擁を交わした椰娜は、ゆっくりと船へと乗り込んでいった。「元気でね~!」「しっかりやるのよ~!」港でベクニョ達が手を振っているのを見て、涙を堪えながら椰娜は振りかえした。(ベクニョ様、みんな・・元気で!)日本へと戻った椰娜は、「石鈴」で舞妓としての修行を積む日々を再び送るようになった。そんな中、志乃の部屋に呼び出された椰娜は、そこで衿替えをしないかと彼女から言われた。「衿替えて・・うちはまだ舞妓となってまだ1年目どす。早過ぎやおへんか、おかあさん?」「うちもそう思うたけど、あんたは男や。髭が生えてくる前に、引退しよし。」「引退て・・そらいつかはするやろうと思うてますけど・・」「まぁ、この話はじっくりと考えてな。」「へぇ、おかあさん・・」志乃の部屋から出た椰娜は、深い溜息を吐いた。
“椰娜、わたしのことを忘れないでいて。” あの部屋に閉じ込められる前、母はそう言って自分に笑顔を浮かべながら、牡丹の簪を渡した。“あなただけは、幸せに生きて頂戴。”母はもう一度椰娜に微笑むと、部屋の扉を閉めた。それが、彼女を見た最期だった。 母の死後、椰娜は当てもなく街を彷徨い、飢えに苦しみながらいつの間にか路上に蹲り、そのまま眠ってしまった。その時に助けてくれたのが、ベクニョだった。彼女は全身垢と泥に塗れた自分を風呂に入れてくれたばかりか、妓生(キーセン)として自分を大切に育ててくれた。いつしか椰娜にとって教坊は我が家となり、ベクニョ達妓生は家族同然の存在となった。ベクニョと暮らしている内に、過去の辛い記憶を椰娜は忘れてしまった。そして、その代わりに自分は何処かの国の王女として生まれ、王妃である母は自分を守る為に敵国軍に殺されたという妄想を、勝手に作り上げていった。そしてその妄想の中には、仁錫(イソク)も居た。椰娜と仁錫は、過去に何回か会っていた。そしていつからか、仁錫は椰娜のことを“姫様”と呼ぶようになった。だが、そのことも椰娜の記憶から消えていった。「椰娜、しっかりおし!」誰かに揺さ振られ、椰娜がゆっくりと目を覚ますと、そこは病院のベッドの上だった。鼻に突くような消毒液の匂いと、レースのカーテンがつけられた白い病室の中に、椰娜は居た。助かったのだーそう思いながら椰娜が首を巡らせると、ベクニョが泣きそうな顔をして椰娜を見ていた。「良かった、神様があんたを助けてくださったんだね!」「あの人は?」「ニコライ様なら無事さ。さぁ、何も考えずにゆっくりとお休みよ。」「はい・・」もっと話したい事があるのに、睡魔に襲われた椰娜はゆっくりと目を閉じた。 一方、仁錫は横浜で悠馬に連れられ、英国領事館主催のパーティーに出席していた。「本当に、ここに父が来るんだろうな?」「ああ。僕の方から君の父上に話をしてあるから、心配要らないよ。」「そうか・・」いつも女装を悠馬にさせられていた仁錫だったが、今日彼が纏っているのは華やかなドレスではなく、漆黒のスーツだった。初めてスーツに袖を通した仁錫だったが、サイズはピッタリだった。悠馬の周りに居た貴婦人達は、彼の隣に立っている仁錫に好色な視線を送っていたが、仁錫はそれを無視して父の姿を探した。「居た、あそこだよ。」悠馬が指差した先には、真紅の軍服を纏った男が数人の貴婦人達に囲まれながら彼女達と談笑していた。
『ああ、やっと会えた!間違いない、この子だ!』 椰娜(ユナ)を抱き締めたまま、大男―ロシア海軍将校・ニコライ=ベロワは興奮した様子で傍らに居た若い男に話しかけた。『ニコライ様、落ち着いてください。まずは、その子をお離しください。』『すまん・・』ハッと我に返ったようで、ニコライは椰娜から離れた。「一体何の用なのですか?この方は、椰娜をご存知なのですか?」ベクニョが訝しげな視線を若い男に投げかけると、彼は済まなそうな顔をして椰娜達に頭を下げた。「申し訳ございません、今日はあなた方にどうしてもお話ししたい事があって、こうやってお伺いしたというのに・・遅ればせながら、自己紹介させていただいきます。わたしはアレクセイ、ニコライ様の秘書をしております。」アレクセイと名乗った男は、目にかかった前髪を掻き上げながら、椰娜の方を見た。「アレクセイさん、ここにはどのようなご用件でいらしたんですか?」「話せば長くなりますが、よろしいですか?」「構いません。どうしてこの方がわたしに抱きついたのか、理由を知りたいのです。」「そうですか。では・・」ニコライの秘書・アレクセイは咳払いすると、静かに話し始めた。 それは椰娜が生まれる15年前のこと、当時まだ海軍の一等兵であったニコライは、漢陽(ハニャン)に滞在中に接待先の料亭で一人の美しい妓生(キーセン)と出会い、恋に落ちた。そしてその妓生と、一夜を共にしたのである。ニコライは彼女と結婚したかったが、既に彼には本国に、親同士が来めた婚約者が居た。ニコライは別れ際に、その妓生に必ず迎えに来ると告げ、後ろ髪をひかれるような思いで彼女と別れた。 その時、彼女は腹にニコライとの子―椰娜を宿していたのである。「ニコライ様はごく最近にあなたの存在を知り、あなたを引き取りたいとおっしゃっておられます。出来ればあなたを認知し、育てたいと。」「そう言われましても、突然のことでどうすればいいのかわかりません。それに、わたしは修行中の身です。鍛錬を途中で放り出してロシアに行くことなど出来ません。申し訳ありませんが、お引き取り下さい。」椰娜ははっきりとした口調でそう言うと、ニコライを見た。「そうですか・・それでは、ニコライ様にそうお伝えします。」アレクセイがニコライに向き直り、椰娜の言葉をそのまま訳すと、彼の顔が徐々に強張ってゆくのがわかった。「突然伺ってしまって、申し訳ありませんでした。それでは、また伺うことがあるかもしませんので、今回はこれで失礼致します。」「では、お気をつけて。」椰娜がニコライ達を門の前まで送り届け、彼らが馬車に乗り込むのを見送っていると、突然路地裏から牛刀を持った男が訳のわからない言葉を喚き散らしながら、ニコライへと突進していくのが見えた。「危ない!」我が身の危険も顧みず、椰娜はニコライと男の前に立ち塞がった。通行人の悲鳴や男達の怒号、馬の嘶きが辺り一面に響き渡った。白い喪服のチョゴリを血に染めながら、椰娜は仰向けに土埃を舞わせながらゆっくりと倒れていった。
“椰娜(ユナ)、あんたがこれを読んでいるってことは、あたしはもう居ないってことよね?突然のことで驚いたでしょう?ごめんね、別れの言葉を言えなくて。あたしはとても卑怯なことをして、あんたを傷つけてしまったわ。本当にごめんね。螺鈿の引き出しの三段目に、あんたに渡したいものがあるから、それを大事に持っていてね。成煕(ソンヒ)”便箋に書かれた成煕の流麗な文字を見て、椰娜は涙を流した。(成煕姉さん・・) 物心つく頃から、成煕は椰娜にとって実の姉同然の存在だった。童妓(トンギ)の頃には、妓生(キーセン)としての心得を一から教えて貰った。それだけに、彼女の死は椰娜の心を大きく打ちのめした。 椰娜は螺鈿の引き出しの三段目を開けると、そこには白金(プラチナ)のロケットがあった。ロケットを開けると、昔写真館で彼女と共に撮った写真が入っていた。(姉さん、わたしが生きている限り、わたしは姉さんと共にあります。だから天から見守ってください。)椰娜はロケットを首から掛け、そっとそれを握り締めた。「もうお別れは済んだのかい?」「はい。」「そうかい。じゃぁ、行こうか。」成煕の葬儀を済ませ、白の喪服に身を包んだ椰娜は、彼女の冥福を祈った。「これからは時々帰って来ておくれ。」「ええ。ですがまだ修行中の身ですので、なかなか帰る事ができないかもしれませんが、それでも構いませんか?」「ああ。あたしだって年を取ってはいるが、妓生の端くれだ。そんな事はわかっているよ。それよりも、仁錫(イソク)はまだ見つかっていないのかい?」「ええ。元気で居てくれるといいのですが・・」「大丈夫、あの子は強い子だ。ちょっとやそっとでくたばりはしないさ。」ベクニョはそう言って笑うと、椰娜の頬を撫でた。「少し痩せたね。向こうでの鍛錬は厳しいのかい?」「ええ。あちらでは何もかもやり方がこちらとは違います。ですが、“郷に入れは郷に従え”といいますから。」「あんたも色々と苦労していることだろう。もし辛かったら手紙でも書いておくれ。」「わかりました。」ベクニョと椰娜が笑い合っていると、部屋の外から誰かがやって来る気配がした。「ベクニョ様、お客様です。」「そうかい、通しておくれ。」「はい。」数分後、二人の前に洋装姿の二人の男が入って来た。「あなた方は、どなたですか?」「こちらはロシア海軍将校の、ニコライ=ベロワ様です。」大柄の男の近くに控えていた若い男がそう言った時、急に大柄の男が椰娜を抱き締めた。「何をなさるんですか、お離しください!」
「ゆな、あんたに手紙が来てるえ。」「おおきに、おかあさん。」 翌朝、椰娜(ユナ)が縁側で読書をしていると、志乃が一枚の便箋を持ってやって来た。差出人の住所を見ると、そこには教坊の住所が書いてあった。(ベクニョ様からかな?)久しぶりに来た故郷からの文を、胸を弾ませながら読み進めた椰娜だったが、次第にその表情が曇っていった。「どないしたん、ゆなちゃん?」「おかあさん、暫くお休みを貰うてよろしおすか?成煕(ソンヒ)姉さんが亡くならはったんどす。」「成煕姉さんは、確かあんたがまだ国元に居た頃、よう世話になったお姉さんみたいな存在やったな?」「へぇ。うちは国元で、成煕姉さんに色々なことを学びました。修行中のうちが、勝手に休みを取るんは身勝手やと思いますけど、成煕姉さんの弔いをしたいんどす。」椰娜はそう言うと、志乃に土下座した。「そうか。成煕姉さんは、あんたにとっては家族のような存在や。行ってきよし。」「おおきに、おかあさん!」「他の子達にはうちが言うとくさかい、向こうでゆっくりしてきよし。」「へぇ、ほなこれで失礼いたします。」 こうして椰娜は、成煕の訃報を知り、帰郷した。「お久しぶりです、行首(ヘンス)様。」「椰娜、よく戻ってきてくれたね。」「成煕姉さんは?」「あっちだよ。さぁ、もうすぐ葬儀だからあの子に会っておやり。」「わかりました。」教坊に戻った椰娜は、成煕が生前使っていた部屋に入った。「姉さん、ただいま帰りましたよ。」そう言って椰娜は、布団の上に寝かせられている成煕の顔をそっと撫でた。いつも自分を助けてくれた彼女の頬は、氷のように冷たかった。“椰娜。”自分に優しい笑顔を成煕が浮かべることは、もうない。「姉さん、どうして・・どうしてこんなことに?また会って、色々と話したい事があったのに。どうしてなんですか?」堪えていた涙が一気に流れ、椰娜は成煕の遺体に覆い被さって泣いた。「椰娜、これを。」部屋の戸が開き、ベクニョがそっと一枚の封筒を椰娜に差しだした。「これは?」「成煕の遺書だ。この子がどうして死んだのか、全て書いてある。」「ありがとうございます。」「暫くこの子と会っていなかっただろう?葬儀まで時間があるから、読むといい。」ベクニョはそう言うと、静かに部屋から出て行った。
「・・仕方がない、君にはもう隠せないね。」悠馬はそう言って溜息を吐くと、仁錫(イソク)を見た。「実は君をここに連れて来たのは、君の父上に引き合わせる為だ。」「俺の父だと?」父親は自分が産まれた時に死んだと、親戚から聞かされていた。「君は父親が死んでいると思い込んでいるようだが、あれは親戚が君についた嘘だ。君の父親は、英国で暮らしている。」「英国で?」父親が生きていたということ、そして父は死んだのではなく自分を捨てたのだと知った仁錫は、驚きと怒りが綯い交ぜになった表情を浮かべた。「君が驚くのも無理はないね。君の父親の名前は、フィリップ=マッケンジー。英国海軍将校だ。君の父親は漢陽(ハニャン)(現在のソウル)に滞在していた頃、妓生(キーセン)である君の母親と出会い、彼女と愛し合うようになった。けれども、母国には親が決めた結婚相手が居た。当然、君の父親の両親は、君の母親との結婚に反対し、二人は生木を裂かれる目に遭った。」「それで?我が子を捨てたそのフィリップ某とかいう男は、今更父親として俺に会いたいと?身勝手も甚だしいな。」「ああ、そうだね。親の都合で子どもが振り回されるなど、あってはならない。君だって、混血児として辛い目に遭ってきたんだろう?」悠馬の言葉を聞いた仁錫の脳裡に、思い出したくない過去が突如浮かんできた。“あ、鬼の子だ!”“やっつけろ!” 幼い頃、いつものように料亭からのお使いに出ていると、近所の悪餓鬼達に見つかり、一方的に罵声と石を浴びせられた。妓生である母は、西洋人との混血である自分を産んだ後、産後の肥立ちが悪くなり亡くなった。仁錫は、母の親族宅に引き取られたが、そこで彼は食事も満足に与えられず、一日中重労働をさせられて疲れ切っていた。水溜りの中に映る己の顔を見ながら、何故自分だけがこのような目に遭うのかと、仁錫は世を恨んだことが幾度もあった。その苦しみの元凶である、自分を捨てた父親が自分に会いたいという。今更会って、彼は何をするというのだろうか。謝罪か、それとも―「君が父親に会う、会わないと決めるのは、君自身の問題だ。僕は君に聞かれたから答えたまでのこと。じっくりと考えるといい。」悠馬はそう言うと、仁錫にそっぽを向くと、海岸を後にした。(俺は、一体どうすればいい・・)海岸を歩きながら、仁錫は父に会うかどうか悩んでいた。 父を恨んでいるかと問われたら、“そうだ”と答えるが、父が死んでいると思うと、死者に対して怒りをぶつけるのも馬鹿らしくなってきて、次第に父の存在を忘れてしまうようになった。だが父が生きていると知った今、仁錫の中で父への憎しみとは違う感情が生まれつつあった。―父に、会いたい―
日本で生活を始めてから、一ヶ月が過ぎようとしていた。 はじめは花街のしきたりなどに戸惑っていた椰娜(ユナ)だったが、志乃や姉芸妓・舞妓らが助けてくれたお蔭で、徐々に「石鈴」での生活も慣れてきた。時折ベクニョや成煕(ソンヒ)たちに手紙を送っているが、なかなか返事は来ない。彼女達は元気にしているだろうかと思いながら、椰娜は縁側で読書をしていた。だが、ある事が頭の中を占めてしまい、読書に集中できなかった。「ゆな、あんたにお客さんえ。」「へえ、今行きます。」読みかけの本に栞を挟んで縁側に置くと、椰娜が志乃の部屋に行くと、そこには吉田の姿があった。「吉田様、お久しぶりどす。」「ゆな、お前の従者についてだが・・」吉田の口から仁錫(イソク)の話が出た途端、椰娜は思わず姿勢を正した。「仁錫は無事なのですか?消息がわかったのですか?」「まぁ、落ち着け。先に茶で喉を潤したいんだが。」「すいまへん、うち・・」「お前があいつを心配していることは知っている。さぁ、お前も茶を飲んで落ち着け。」「では、お言葉に甘えさせていただきます。」椰娜はそう言うと、急須から湯呑みに茶を淹れ、それを一口飲んだ。「そうや、さっきにしののおかあさんから美味しい羊羹(ようかん)を貰うてきたんえ。ちょっと取りに行ってくるわ。」志乃が気を利かして席を外した時、吉田は溜息を吐いた後次の言葉を継いだ。「それで、仁錫の居場所がわかったんどすか?」「ああ。あいつは東京に居て、そこである華族の邸に監禁されている。」「監禁って・・まさかその華族様いうんは・・」椰娜の脳裡に、自分に執拗に迫ってきた潤之助の顔が浮かんだ。「桜木の倅は、この件には一切関わっていないし、仁錫を監禁しているのもあいつではない。」「じゃぁ、一体誰が仁錫を?」「さぁな。恐らく、何か彼と接点がある人物の仕業だろう。」そう言った吉田の目が、険しく光った。 一方、西岡邸に監禁されている仁錫は、いつの間にか周囲からはこの邸の主・悠馬の婚約者として扱われていることに気づいた。京都で突然何者かに拉致され、訳も判らず全く信用のできない男とともに暮らす事が我慢できないというのに、彼の婚約者として周囲から扱われる事は屈辱以外の何物でもなかった。「涼香(すずか)さん、どうなさったの、浮かない顔をして?」「・・いいえ、何でもありませんわ。少し、寒くて・・」春のピクニックと称し、悠馬と彼の友人達とともに鎌倉へと来ていた仁錫は、自分を怪訝そうに見つめる悠馬の友人・桜子に対して適当に嘘を吐いた。「最近は寒さが少し和らいだとはいえ、まだ寒さが残っておりますものね。お腹の赤ちゃんの為にも、ご自愛されませんと。」桜子の言葉を聞き、仁錫の笑顔が固まった。「俺がお前の子を妊娠しているとは、一体どういうことだ?」鎌倉からの帰り道、仁錫は手に持っていた日傘を悠馬に突き付けながら彼を睨みつけた。「そうしなければ、父上が君との結婚を許してくれないだろうと思ってね。」「俺はお前とは結婚もしないし、お前の事を全く信用していない。第一、何故俺がお前達に拉致したのか、その理由すら知らないんだからな。」
一体どうして、自分がこんな場所にいるのか、仁錫(イソク)は全く訳がわからなかった。 あたりを見渡すと、そこには着飾った男女が談笑していた。皆一様に自分の方へ好奇の視線を送っていた。(何故見てるんだ、俺を?)「どうしたんだい?」「ここは何処だ?」「さるお方の誕生パーティーさ。是非とも君を連れて来いと言われてね。」悠馬はそう言うと、仁錫に手を差し出した。彼の背後では男女がワルツを踊っている。「踊らないかい?」「嫌だと言ったら?」「強情だな、君は。一体何が気に入らないのかな?」「貴様に拉致され、こうして女装を強要されてこんな場にいることだ。」仁錫がそう言って悠馬を睨むと、彼は溜息を吐いた。「随分と嫌われてしまったようだね、僕は。」彼は仁錫の手を掴むと、踊りの輪に加わった。「貴様、何をする!」「そんなに怒らないで、美人が台無しだよ?」「黙れ。」 踊っている間、仁錫は悠馬を睨みつけていた。「あら、どなたかと思えば悠馬様ではございませんの?」ワルツを踊り終えた二人の元に、洋装姿の女性がやってきた。「おやお久しぶりです、奥様。」「そちらの方は?」女性の視線が、悠馬から仁錫へと移った。「あぁ、この方は僕の婚約者ですよ。」「まぁ、お綺麗なお方ね。悠馬様、結婚式には是非呼んでくださいな。」「ええ。では僕達はこれで。」悠馬は仁錫の腰を掴んで大広間から出ると、仁錫はすかさず彼の向こう脛を蹴り飛ばした。「痛いなぁ・・」「ふざけるな、誰が貴様の婚約者だ。」仁錫が悠馬を睨みつけていると、大広間から一人の軍服姿の青年が出てきた。「これはこれは、誰かと思ったら・・本日は父上のお誕生日、おめでとうございます。」「ありがとう、父にはそう伝えておきますよ。」軍服姿の青年はそう言うと、仁錫を見た。「彼は?」「ああ、彼は僕の・・」「従妹だ。あなたは?」「初めまして、わたしは高崎裕也です。お会いできて嬉しいです。」「わたくしもですわ。」出来るだけ不機嫌さを隠したまま、仁錫は青年に微笑んだ。「全く、君は彼を前にすると態度が変わったね。一体どうしてだい?」「不機嫌な顔で主催者と接しろと?そんな事したら姫様に怒られるからな。」「“姫様”ねぇ・・君の主だということは解かったけど、どんな人なのか僕にも解かる様に教えて欲しいな?」「断る、貴様は信用できん。」仁錫はヒールで悠馬の爪先を踏みつけると、ドレスの裾を摘んで中庭へと出て行ってしまった。「手ごわいな・・」痛む爪先を擦りながら、悠馬はそう言って溜息を吐いた。「父上、そろそろお時間です。」「そうか。」裕也が部屋に入ると、燕尾服姿の父がそう言って自分に振り向いた。「裕也、今夜はわたしの誕生パーティーを兼ねたお前の嫁探しだということを忘れるなよ?」「はい、父上。」裕也は苦虫を噛み潰したかのような顔をして、父の後に続いて大広間へと戻っていった。
「珍しいなぁ、あんたが溜息吐くやなんて。」「仁錫(イソク)のことが心配なんです・・今彼が何処に居るのか、わからなくて・・」椰娜(ユナ)がそう言って溜息を吐くと、志乃はそっと彼の肩に手を置いた。「あの子は心配ない、きっと生きてるわ。だからもうお休み。」「へぇ・・おやすみなさい、おかあさん。」志乃の言葉に少し気が楽になった椰娜は、自分の部屋へと戻った。「あの子の手前、ああ言うたけど、この先どないしよう・・」縁側で一人、志乃はそう呟きながら自分の部屋へと引き上げていった。「食事だ。」「要らない。」 一方、敵に囚われた仁錫は部屋に入ってきた男に食事を出されたが、毒が入っているかもしれないと疑い手をつけなかった。「頑固な奴だな、飢え死にしても知らんぞ。」「放っておけ。お前達にとって俺が死んだほうが好都合だろう?」傷口に痛みが走り、仁錫は顔を顰めながらそう言って男を睨むと、彼は大げさな溜息を吐いた。「生憎だが、こっちはあんたに死なれちゃ困るんでね。ちゃんと食事を摂っておかないと後で困るのはあんただぜ?」「ふん・・」男の言い方がいちいち癪に障り、これ以上彼と言い争いたくないので、仁錫は折れて箸を手に取った。「毒は入っていなかっただろ?」「そうだな。食事以外にでも入れられる毒は沢山ある。言っておくが、俺はあんた達を信用していない。」「わかってるよ。じゃぁな。」男は仁錫が監禁されている部屋を出て行くと、廊下を歩き始めた。 壁紙には金箔を豪勢に使った一流品を使い、ところどころに西洋の鎧などが飾られており、この屋敷の持ち主がいかにも西洋被れだということが見てわかる。「ご主人様、失礼いたします。」「入れ。」男が部屋に入ると、この屋敷の主である青年―西岡悠馬はチンツ張りの長いすに身を横たえながら洋書を読んでいた。「一体何の用だ?」「あの少年に食事を運びました。彼はまだ警戒しております。」「そうか・・確かに、いきなり闇討ちされて拉致されたのだから、無理はない。」「彼をどうなさるおつもりなのですか?」「そんな事を、お前に教える必要はない。ただお前は黙ってわたしの命令に従っていろ。」悠馬は読みかけの洋書を閉じると、そう言って男を睨んだ。「は・・」「支度をしろ、少し出かけてくる。あと、彼の服も用意しておけ。」「承知しました。」男はそう言うと、悠馬の部屋から出て行った。(場所が判らないんじゃ、姫様と連絡が取れない・・一体どうすれば・・)仁錫がどう椰娜と連絡を取ろうかと思っていると、ドアがまた叩かれた。「どうぞ。」「俺だ。」「またあんたか。今度は何の用だ?」蒼い双眸で仁錫がそう言って男を睨むと、彼は包みをベッドに投げた。「これに着替えろ。ご主人様がお前との外出を所望している。」「ふん・・」仁錫が包みを開くと、そこには薔薇色のドレスが入っていた。「失礼いたします。」ドアが開き、一人のメイドが部屋に入ってきた。「お召し替えを手伝わせていただきます。」「・・わかった。」仏頂面を浮かべながら、仁錫はメイドにされるがままになっていた。「旦那様、お支度が出来ました。」「そうか。」悠馬はそう言うと、洋書から顔を上げた。