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訪問者の皆様へ
当館はかなり偏向してはおりますが、 けっして政治ブログではありません。 一知半解のうさんくさい耳学問とはばひろい雑学をもとに、 分野を問わず「うんちく」ブログたることをめざしております。 かつ7416の日記 [全340件]
最近は不景気のせいか、めっきり仕事の量も減っている。とりわけ、夏以降は極端な低空飛行が続いており、このままでは墜落しかねない。昨年9月にアメリカで起きたリーマンショックに始まる世界的な不況は、まず輸出を主とする製造業を直撃したが、その後も立ち直る気配はなく、じわじわと社会や産業の末端のほうへと浸透しているのかもしれない(経済については疎いので断言はしない。あくまでもただの印象)。 同業者らの話を聞くと、どうやら業界全体が不景気であり、仕事の絶対量そのものが減ってきているようだ。ということは、夏をすぎて仕事が減ってきたのは、とりあえずミスや不手際といった自己の責任によるものではないということになる。とはいえ、それは言い換えると、自分の力だけではどうにもならぬということだから、これはいったい喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか。 先日、ニャーニャー弁でおなじみの 地下に眠るM さんから、ユング心理学の入門書として、河合隼雄の 『影の現象学』 を薦められた。そのときは書名しか知らないと答えたのだが、二三日前に、なにげなく書棚を見たらちゃんと飾ってあった。おやおや、いったいいつの間に、これこそユングの言うシンクロニシティかな、などと思ったが、なんのことはない、自分で買っていたことを忘れていただけ。もはや自分の書棚になにがあり、なにがないのかも分からない状態なのだ。 ぺらぺらっとめくってみると、たしかに 「ドッペルゲンガー」 についても、いろいろと触れられている。事前にこの本を読んでおけば、もうちょっとましなことが書けたかもしれない。ユングと、そして河合自身も言うように、たしかに影とは誰もが持っている自分の半身であり、また分身である。それは世界各地の多くの神話や伝承、民話や習俗、さらには子供の遊びなどからさえ確認できる。 しかし、ユングの言う影とは、それだけに留まらない。同書から彼の言葉を孫引きすると、「影はその主体が自分自身について認めることを拒否しているが、それでもつねに、直接または間接に自分の上に押しつけられてくるすべてのこと ―― たとえば、性格の劣等な傾向やその他の両立しがたい傾向 ―― を人格化したもの」 であり、河合の言葉によれば、「その人によって生きられることなく無意識界に存在している」「その人によって生きられなかった半面」 というのが、その人の影ということになる。 同書では、シャミッソーの 『影をなくした男』 がとりあげられているが、この短編では、金に困っていた主人公のペーター・シュレミールが、ある金持ちの園遊会で見かけた、ドラえもんのように服のポケットから次々と物を出す不思議な 「灰色の服の男」 から、影と引き換えに、次から次にいくらでも金貨が出てくる 「幸運の金袋」 を授かる。 しかし、影をなくした男は、たちまち世間による迫害の嵐にあう。しつけのなってない悪がきどもからはからかわれたり、馬糞を投げつけられたりと、行く先々で散々な目にあうことになる。それはそうだろう、影がないとは実体がないということであり、ようするにこの世の存在ではないということだから。 結局、最初の約束どおり、一年後に再会した 「灰色の服の男」 に、シュレミールはもらった金袋と交換に自分の影を返してほしいと頼むのだが、かわりに 「灰色の服の男」 からは、影を返してほしけりゃこれにサインしろと、一枚の紙を突きつけられる。それにはこう書いてある。
つまり、この 「灰色の服の男」 とは、あの 『ファウスト』 にも出てくるメフィストフェレスと同じ悪魔だったのだ。あな、おそろしや。 なんか、話がそれた。ユングの言う 「影」 とは、自己の気づかぬ半身のことであり、多くの場合、それは意識的な自己とは正反対のものである。ちょうど、鏡に映った姿が左右反対であるように。 なので、厳格な禁欲的道徳を内面化した人は、それと正反対の放恣な性格を影として持っていることになるし、聖人君子のような利他愛を説く人は、その反対である利己性を影としていることになる。サドとマゾ、権威主義と反権威主義が相補的であることはフロムも指摘しているが、同性愛者をもっとも嫌悪し憎むものが、自身そのような傾向をかくしもっている者らであるということもよく言われる。 つまり、ユングによれば、人は多かれ少なかれ、二重人格者だということになる。それはたぶんそうなのだろう。「人格」 というものは、みなけっして一枚岩ではないし、人間は実際そう単純ではない。もし、本当にそんな人がいるとしたら、それは平板で深みにかけた鋳型のごとき人間であるにすぎない。ちなみに、「きれいはきたない、きたないはきれい」 とは、かの 『マクベス』 の冒頭に出てくる魔女の台詞である。 実際、明治の時代に内面的な道徳を説くキリスト教にもっとも惹かれたのは、おのれの欲望の強さに悩み苦しんだ青年らであった。それは実の姪に子を生ませた藤村の場合でも、他人の妻との 「不倫」 のすえに情死した有島武郎の場合でもそうである。もっとも、彼らのような悩みすら自覚せぬまま、たとえば聖人君子ぜんとした言動の下から、独善的な利己主義がすけて見えているような人がいれば、たしかに最悪だが。 ネット上でよく見かける、「お前が言うなー」 とか 「それはあんただろ」 などと思わず突っ込みたくなるような非難を他人にぶつけている人は、自分の影を相手に投影して、その影に向かって非難を浴びせているにすぎない。だから、その非難が他人から見れば、その人自身にもっとも合致した言葉として、そのまま本人に跳ね返っているのにまったく気づいていない。 おそらく、そのような人たちは、「自分はこうありたい」 とか 「あの人のようになりたい」 といったおのれの願望や理想を、そのまま自己の現実と取り違え、その結果、客観的な自己を見失い、無意識のうちに肥大したおのれの影を誰彼となく他人に投影して、人を非難しているのだろう。 カントは、人間の経験的認識は先験的概念である 「純粋悟性概念」 とやらに基づくと主張したが、いずれにしろ、人はみな、多かれ少なかれ自己に固有の認識の枠組みというものを無意識のうちに持っている。ありもしないところにまで 「陰謀」 の影を見る人は、その人自身がそのような枠組みで世の中を見ているからにすぎないし、他人の言葉にやたらと 「悪意」 や 「嘲笑」 を嗅ぎ取る人は、たいていの場合、おのれがそのような観念にとりつかれているからにすぎない。 なお、余談であるが、自意識過剰な 「独りよがり」 人間や、一知半解なことを知ったかした賢しら顔で言う人、あるいははったりや虚勢だけで中身のない者、物事を党派的にしか見れない者が、大きな顔で他人に大口叩いているのを見たりすると、正直言ってひじょうに 「むかつく」。その人がそういう特徴をいくつも備えていたりすると、最悪のうえに最悪である。 ネット上の論争などで、よせばいいのに余計なことに首を突っ込むのは、だいたいにおいてそういう場合である。意見や判断、解釈などについてならば、それぞれに違いがあるのは当たり前のこと。だから、あまりのトンデモぶりとかにあきれることはあっても、それほど 「むかつき」 はしない。人間、愚かなのはそもそもの仕様なのだから。 なので、それはなにも、敵だ、味方だ、というような話なのではない。ただ単純に、そういう勘違いをしている者とかを見ると、はなはだ 「むかつく」 ということなのであって、あくまで個人の好みと趣味の問題であるにすぎない。よけいな勘繰りなどはしないように。 うーん、なんだか今日もえらそう。
最近というわけではないが、なんでも世間には 「フランクフルト学派」 による陰謀なるものが存在しているらしい。これを暴露し、世に警鐘を鳴らしているのは、京大の中西輝政教授や、ニーチェやショーペンハウエルの訳者でもある西尾幹二氏、さらには高崎経済大の八木秀次教授など、なかなかに錚々たる学者であり研究者たちである。 これは、こんなところやこんなところで見ることができるが、これを簡単にまとめると、戦後の急速な核家族化の進行と、それによる 「家」 制度や伝統的価値観の崩壊、「行き過ぎた」 男女平等や同じく 「行き過ぎた」 性教育、ジェンダーフリー思想の蔓延や 「性道徳」 の崩壊、そして離婚の増加や少子化といった現象も、どうやら日本の社会と国家の破壊と革命をもくろんだ、恐るべき 「フランクフルト学派」 の陰謀なのらしい。 「フランクフルト学派」 とは、もとはむろんワイマール時代のドイツでフランクフルト大学に設立された社会科学研究所に集まった、アドルノとホルクハイマーを中心とした一群の研究者らのことを指す。研究所が設立されたのは1923年だが、穏健左派の初代所長にかわって、当時は 「戦闘的唯物論者」 だったホルクハイマーが二代目所長に就任したのが1930年のこと。 時代は短命に終わったワイマール共和国、シュトレーゼマンのもとで経済の安定や周辺諸国との関係正常化に成功し、国連加盟もはたした 「相対的安定期」 であった。その一方、ローザの流れをくむ急進左派の側には、いったんは共産党に参加したものの、ソビエトの内情やコミンテルンの気まぐれな指導に嫌気がさして、離党する者や、新たな党を作って分離する者らもいた。 フランクフルト学派が、マルクスの強い影響のもと、「批判的理論」 を掲げて既存の社会秩序にたいする根源的批判という立場に立ちながらも、ソビエトや国内の共産党とは一線を画した立場に一貫してこだわり続けたのには、そういう背景がある。その思想に影響を与えたのには、マルクス以外にもルカーチやフッサール、さらにはウェーバーに始まるドイツの社会学や哲学も無視できないだろう。むろん、フロイトの名前も欠かすことはできない。 一般には、この二人以外に 『一次元的人間』 を書いたマルクーゼや、『自由からの逃走』 などで知られるフロム、ナチズムを主題とする 『ビヒモス』 を書いたノイマン、さらにレーヴェンタール、ポロックなども入るようだが、別に会員制のクラブというわけではないから、人によって多少の解釈の違いがあるのはしかたがない。それに、ハーバーマス以降の世代になると、もはやアドルノらの威光も相当に薄れてきているようだし。 また、御大であるホルクハイマーとアドルノにしても、時代によってその思想は変わってきている。ジャズもハリウッドも大嫌いという 「古典的知識人」 だったアドルノと違い、マルクーゼとフロムは戦後もアメリカに留まったが、そこには 「古き良き伝統」 ともいうべきヨーロッパの中産階級文化と、アメリカの社会やその大衆文化に対する感覚の違いもあるだろう。また、ナチズムの興隆と没落という、20世紀のドイツとヨーロッパ全域を襲った最大の悲劇に対する責任の取り方の違いということもあるのかもしれない。 アメリカに留まったマルクーゼが、60年代のベトナム反戦運動にたいして、きわめて好意的だったのに対し、ドイツに帰ったアドルノらは、同時期のドイツ国内の急進的運動にたいし、むしろ嫌悪感を表明している。なので、この時代、「フランクフルト学派」 といえば、むしろマルクーゼが代表格のようであり、当時の急進主義者の間でのアドルノの評判はあまりよろしくない。 おそらく 「フランクフルト学派陰謀論」 者に対して、最も強い印象を与えているのは、「ラブ・アンド・ピース」 の神様であった、この時期のマルクーゼなのだろう。彼らとは関係のない、心理学者で性科学者であったライヒが、しばしばその仲間に間違っていれられているのはたぶんそのせいなのだろう。それに、まともな時期のライヒの著作には、彼らと重なるような部分もないわけではない。 ところで、日本の場合で有名な社会科学研究所といえば、今は法政大学に置かれている 「大原社会問題研究所」 ということになるだろうか。大原社研はもとは大阪にあり、倉敷紡績の二代目であった大原孫三郎という人によって創設されている。倉敷にある大原美術館を開館したのも彼であり、そのほかにも病院や学校を建てるなど、地元のために様々な貢献をしている。 こういう活動には、産業革命の進展とともに浮かび上がってきた、都市と農村における様々な 「社会問題」 という背景もあるだろうが、事業でえた富は私的蓄財とすべきではなく、社会に還元すべきだという明治の経済人の心意気もあったのではないだろうか。とくに彼の場合、若い頃はぼんぼんとして放蕩を重ね、その後、石井十次なる人物を知り(救世軍の山室軍平らとともに、地元では「岡山四聖人」と呼ばれているそうだ)、キリスト教の教えに触れたということもあるようだ。 当然のことながら、「資本家」 だって個人としてみるならば、ただの資本が目に見える形に顕現した 「人格」 にすぎないのではなく、具体的な特性を有した個人なのだから、その活動には個人の思想が反映されることになる。なお、前首相の麻生氏の出自である麻生一族も、地元では本業の鉱業以外にも、病院や学校など様々な社会事業の経営も行なっている。ただし、これが事業利益の社会への還元と言えるのかどうかまでは、分からない。 ここで、山口昌男の 『本の神話学』 に収められた 「ユダヤ人の知的熱情」 というエッセーの中から、オーストリア系ユダヤ人であり、伝記作家として知られているツヴァイクの 『昨日の世界』 にあるという一文を引用してみる。
上に書いた大原孫三郎もそうだが、これを読んでちょっと連想したのは、かつて三菱重工業の社長を務め、三菱自動車工業を設立するなど、三菱グループで 「天皇」 と呼ばれるほどの力を持っていたという牧田与一郎の息子である牧田吉明という人物。彼は70年代に爆弾闘争を展開した男だが、爆弾事件で起訴されていた人の裁判で真犯人として名乗り出たという経歴がある。いわゆる 「過激派有名人」 の一人であるが、最近ではむしろ右翼人とのつきあいのほうが多いらしい。 また、麻生一族には、平野謙や本多秋五らの 『近代文学』 に近い人で、大井広介という筆名で評論を書いていた人もいる。そうそう、西武グループの総帥だった堤義明の異母兄で、辻井喬の名前で詩や小説を書いてもいる、西武セゾングループの代表だった堤清二の存在も忘れてはいけない。 話を戻すが、戦後、ドイツに帰国したアドルノのもとに留学したことがある徳永恂(『啓蒙の弁証法』 の訳者でもある)は、ウェーバーやルカーチ、アドルノについて論じた 『社会哲学の復権』 の中で、問題の 「フランクフルト学派」 という名称について、1950年代末頃から使われるようになったと書いている。 ということは、「歴史哲学テーゼ」 などで知られるベンヤミンの場合、1940年にフランスからスペインへ脱出しようとして失敗し、ピレネー山中で死を選んだのだから、少なくとも本人には 「フランクフルト学派」 などという意識はなかったことになる。とはいえ、その死後に本人の意思とは関わりなく、そのように呼ばれることになったことについてどう思うかは、もはや確認のしようがない。 彼がドイツからアメリカにまるごと移転した研究所に協力したことは事実であるが、彼を 「フランクフルト学派」 に入れることは、彼をアドルノとホルクハイマーより格下とすることに等しいように思うのだが、どんなものだろうか。そうだとすると、アドルノを信用せず、ベンヤミンに対する彼らの扱いに怒っていたというアレントは、絶対に承知しないのではないだろうか。もっとも、これはまあ、絶対に認められないというような話ではないのだが。 この書では、この名称の始まりについて、「主としてドイツ社会学会を舞台につねに共同歩調をとって活動するアドルノの弟子たちの結束ぶりに辟易したダーレンドルフが、いささかの皮肉と、時代錯誤性への揶揄をこめて、「最後の学派」 と言ったのが事の起こりであり、それがやがてそういうニュアンスを拭い去って一般化していったように思われる」 と書かれている。 こういう最初の揶揄的な他称がやがて一般化し、当初の 「そういうニュアンス」 を失っていくという例は、日本で言えば 「丸山学派」 とか 「大塚史学」 などという場合でも、似たようなものだろう。だいたい、こういう呼び方は、論敵の側からつけられるほうが多いものであるから。 もうひとつ、つけくわえておくと、フランクフルト学派が陰謀論の主体としてたびたび言及されるのには、その創始者であるアドルノとホルクハイマーをはじめ、彼らにもっとも大きな影響を与えた人物や周辺の人物に、多くのユダヤ系の人がいることも無縁ではないだろう。したがって、そこには 「ユダヤ陰謀論」 との関連もあるように思われる。 なお、やはりユダヤ系ドイツ人であり、アメリカに亡命したハンナ・アレントは、ベンヤミンについて 『暗い時代の人々』 の中で、次のように書いている。
ヴァルター・ベンヤミン 1892―1940 ところで、戦後のいわゆる 「進歩的文化人」 の代表ともいうべき丸山真男は、多くの官僚や政治家を輩出している東大法学部の教授を長年にわたって勤め、多くの官僚の卵たちの 「洗脳」 に尽力したわけだが、「丸山学派陰謀論」 というのはどこかにないのだろうか。 海の向こうに由来する荒唐無稽な 「フランクフルト学派陰謀論」 などよりは、官庁街に潜り込んだ丸山の弟子たちによる日本破壊の陰謀という 「丸山学派陰謀論」 のほうが、よっぽど信憑性もあり、世間にも受け入れられやすいように思うのだが。
報道によると、フランスの人類学者レヴィ=ストロース大先生が10月30日に亡くなったそうだ。生まれたのが1908年の11月28日だそうだから、あと4週間頑張っていれば101歳というところだったのに、残念なことである。 彼については、以前にあんなことやこんなことを書いたが、いずれもただの雑文の域を出ない。それはそうだろう。こちらはただの手当たり次第の雑読家であって、人類学はもちろん、レヴィ=ストロースの構造人類学に大きな影響を与えた言語学についても、ちゃんとした勉強をしたことなどないのだから。 ところで、彼は1977年、もうすぐ69歳になろうかというときに日本に来て、何回か講演をしている。その中の一つ、京都で行われた、日本語で 「構造主義再考」 と題された講演では、こんなことを話している。 かりに、どこかの辞書のために、私たちが用いている意味での 「構造」 という語の定義を求められたとすれば、次のように言いたい。すなわち、「構造」 とは、要素と要素間の関係とからなる全体であって、この関係は、一連の変形過程を通じて普遍の特性を保持する。 この定義には、注目すべき三つの点というか、三つの側面があります。第一は、この定義が要素と要素間の関係とを同一平面に置いている点です。別の言い方をすると、ある観点からは形式と見えるものが、別の観点では内容として表れるし、内容と見えるものもやはり形式として表れうる。すべてはどのレベルに立つかによるわけでしょう。...... レヴィ=ストロース日本講演集 『構造・神話・労働』 より
たとえば、20世紀初めにドイツで生まれたゲシュタルト心理学では、「ゲシュタルト」 の説明として、楽曲のメロディがよく引き合いに出される。メロディは個々の音の絶対的な高低ではなく、それぞれの音の高低の関係、つまりはその差異という相対的な高低によって構成されている。だから、ハ長調で歌おうとヘ長調で歌おうと、「やぎさんゆうびん」 はやっぱり 「やぎさんゆうびん」 である。 そのような 「変形」 が可能であり、またそのような 「変形」 を通じても保持されていくのが、つまりレヴィ=ストロースのいう、たんなる 「体系」 とは異なった、特別な意味を持つ 「構造」 ということなのだろう。だから、それはしばしば批判されたような静態的なものではない(らしい)。 しかし、同時にそのことは、彼のいう構造主義なるものは、いかなる問題、いかなる分野にも適用でき、利用できるといったものではないということも意味する。それは、彼自身の言葉を借りれば、「哲学を自称するものでもなく、なんらかの主義を自称するもの」 でもない。 それは、「ひとつの認識論的態度」、「問題に注目し、接近し、これを取り扱うさいの、特定の仕方」 なのであり、それが有効であるためには、「研究する現象のタイプが、普遍的とはゆかずとも、少なくとも一般に認められる現象であって、そのほかの現象から比較的分離しやすく、そこから検出できるすべての例が均質の方法で処理できる、そのような現象でなければならない」 ということだそうだ。 たとえば、現代思想の解説書などでは、「実存主義から構造主義へ」 みたいなことがよく言われる。レヴィ=ストロースが、『野生の思考』 の最終章でサルトルを厳しく批判したのは1962年のことだが、彼自身はこの講演の中で、その前の 『構造人類学』 が刊行された1958年から、いわゆる 「五月革命」 が起きた1968年までの十年間を、本場フランスにおいて構造主義が流行した期間としている。 「五月革命」について、彼は「その時点で判然としたのは、フランスにおける青年知識層のひそかにとりつづけてきた姿勢が、20年も前、第二次大戦末期に生まれたサルトル流実存主義のそれと、ほとんどかわらぬままであったということであります」 と言っており、これが、彼によればフランスでの構造主義の短い流行の終焉なのだそうだ。 人間の自由を基調とするサルトルの哲学そのものについても、彼はおそらく批判的であったと思われるが、『野性の思考』 での批判が対象としていたのは、サルトルの 『弁証法的理性批判』 にひそかに隠されていた西欧中心主義であり、近代的な理性中心主義であって、その批判は自分の学問に関係する限りでのことと言うべきだ。 したがって、それはサルトルにかわる新たな哲学の提出などを意図したものなどではない。その意味では、「実存主義から構造主義へ」 というよくあるまとめ方は、いささか乱暴で的外れなものであり、レヴィさんにとってはむしろ心外なものであるのかもしれない。 サルトルの事実上の伴侶であったボーヴォワールはレヴィ=ストロースと同い年であり(亡くなったのはサルトルの死から6年後の1986年)、その主著である 『第二の性』 を書くに当たって、彼の最初の主著であった 『親族の基本構造』 を、出版前の原稿段階で読ませてもらったという。 朝鮮戦争を契機に決別していたとはいえ、かつては親友であり盟友でもあったメルロによる批判に続いて、今度はそのレヴィさんによって、サルトルが批判されたというのだから、ボーヴォワールの驚きははたしていかなるものであったのか。 うえに述べたように、彼はサルトルの実存主義に代わる全体的な哲学として、いわんや 「変革」 のための理論として構造主義を提唱したわけではない。だから、「五月革命」 という変革の季節に、いったんは死んだかと思われたサルトルが復活したとしても、おかしくはないということになる。 日本の場合、構造主義の流行はフランスより10年以上遅れてやってきたが、その後のサルトルの急激な凋落には、舶来の新思想をいつもありがたがってきたこの国の特殊性ももちろんだが、レヴィ=ストロースらによる批判を受けた 「思想的事件」 というより、むしろ当時の急進左翼の衰退に伴った 「政治的事件」 という側面のほうが強いのかもしれない。 レヴィ先生は、この講演でこうも言っている。
荒畑はそのような時代から、宇宙ロケットや核搭載も可能な長距離ミサイル、ジャンボジェットなどがびゅんびゅんと空を飛び回る時代まで行き続けたわけだ(核ミサイルはさすがにびゅんびゅんとまでは飛んでいないが)。 また、江戸時代の浮世絵師である葛飾北斎は1760年に生まれ、1849年に死んでいる。享年89歳ということだが、彼の場合は、生まれたのは八代将軍吉宗が死去した9年後、亡くなったのがペリーが黒船に乗ってやってくる4年前、明治維新のほぼ20年前であり、そのときにはすでに長州の桂(のちの木戸孝允)は15歳、西郷などはなんと21歳に達していた。 ヨーロッパの歴史で100年といっても、今ひとつぴんと来ないのだが、こうやって自分の国の歴史に置き換えてみると、それがどれだけ長い期間であり、また一人の人間が100年を生きるということが、どれだけすごいことなのかがよく分かるだろう。
粘土でできた巨人ゴーレムといえば、アニメやファンタジー、ゲームなどに欠かせないキャラクターとして、いまなおあちらこちらで引っ張りだこのようだ。ざっと調べただけでも、「遊戯王」 や 「ドラゴンクエスト」、それに 「ゲゲゲの鬼太郎」 にも登場したという(もっとも、いずれもよくは知らない)。 このゴーレムについて、渋澤龍彦はつぎのように言っている。 ゴーレムは中世紀からユダヤ伝説にあらわれるようになった、呪文によって生命を吹き込まれた一種の土偶であり、フランケンシュタイン風の人造人間である。これもまた、中世魔術の生命造出に関する野望の反映であろう。 十六世紀初頭のタルムード学者ケルムのエリヤが、カバラの原典 『創造の書』 の助けを借りて、初めてこのゴーレムを作ったのも、プラーグの町のゲットーであったらしく、名高い律法教師のレーウェ・ユダ・ベン・ベザレルが、1580年、神の命により二人の助力を得てゴーレムを製作したのも、やはりプラーグのゲットーにおいてであったようだ。
額に書かれた 「真理」 という意味の "emeth" の最初の一文字を消して "meth" にすると、「われは死せり」 の意味となり、もとの土くれに戻るといった話もよく知られている(本来はどちらもヘブライ文字なのだが、ここでは表記できない)。 この映画はyoutubeにもアップされており、一部を見ることができる。映画はむろん白黒で、もとはサイレントなのだが、ゴーレムは監督自身が演じており、白黒のコントラストが、表現主義っぽい当時のいささかどぎつい演出や背景のセットにマッチしている。ゴーレムは泥人形だということで、たぶん顔にも衣装にも金粉のようなものを塗りつけているのだろう。動きもことさらのようにぎこちないが、巨人といいながら、じつは背丈は他の登場人物とそれほどかわりがないというのはご愛嬌。 マイリングの小説については、舞台であるプラハの住人であったカフカの言葉が、彼の年少の友人であったグスタフ・ヤノーホという人が第二次大戦後に出した、『カフカとの対話』 という題の回想録の中に残されている(カフカの没年は、オーストリア帝国が解体した第一次大戦後の1924年)。
内部で、私たちは、やはり古い悲惨な小路を歩くときのようにふるえています。私たちの心臓は、衛生施設の普及についてまだなにも知らないのです。私たちの内部の不健康な旧ユダヤ街は、私たちの周囲の衛生的な新市街にくらべてはるかに現実的です。目覚めつつ私たちは夢の中を歩む。その私たち自身、過ぎ去った時代の亡霊にすぎないのです。
いまぼくは見知らぬ訪問者がどんな格好をしていたか知っていた。それを感じようと思いさえすれば ―― いつなんどきでも ―― ぼくのからだで感ずることができただろう。しかし彼の格好を思い描くこと、つまりぼくの目のまえに面と向かってそれを見ること ―― それはあいかわらずできなかった。それはいつまでたってもできないだろう。
ポーの 『ウィリアム・ウィルソン』 の場合、主人公の分身たる同姓同名で同じ誕生日、むろん顔も同じという男は、主人公が虚栄や虚飾、放蕩といった悪行三昧にふけっているところに必ずといっていいほどあらわれて、警告を与え、友人らの前でその仮面をはがし、卑劣な男としての正体を暴き出す。つまり、この分身は彼の封印されていた 「良心」 であり、そのうずきであり、手遅れとなった 「悔恨」 の表れということになる。 つまるところ、このようなドッペルゲンガーとは、自己を見ている自己、または自己によって見られている自己のことであり、フロイトふうに言えば 「超自我」、三浦つとむふうにいえば、観念的に二重化された自己の一方が 「実体」 として外部に投影されたものということになるだろう。芥川は 『歯車』 のなかで、「僕はこの本屋の店を後ろに人ごみの中を歩いて行った。いつか曲り出した僕の背中に絶えず僕をつけ狙っている復讐の神を感じながら。……」 と書いている。 ところで、一作目の大魔神は丹波山中の岩壁に掘られた立像、二作目ではどこだかよく分からないが、湖の真中にある島に祀られた像、そして三作目では、飛騨山中にある 「地獄谷」 とかいうところに近い山の頂にある坐像という設定になっている。
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以前、サルトルの 『嘔吐』 に出てくる 「独学者」 なる人物にふれて、「サルトルの 『嘔吐』 をちらちらと読み返してみた」 なる雑文を書いたことがある。そこで引用した 『嘔吐』 の箇所をもう一度ひいてみる。なお、引用文中の 「彼」 とは、この 「独学者」 を指している。
ウェブにはこの種の人は珍しくない。なにしろ、ちょっとした手間と暇さえかければ、誰でも簡単にネット上にホームページやブログを作成して、そこになにやら 「独創的」 な研究成果を発表するぐらいのことはできるからだ。正直に言うと、昔、傾倒していた人を扱ったこの手の 「論文」 を見かけ、いささか感じたことがあったため、しばらくメールでやりとりしたこともある。 最初から、表面上はていねいな言葉の中に、なにか傲慢さを感じさせる 「慇懃無礼」 な雰囲気があって、???という気もした。なので、そこでやめとけばよかったのだが、ついつい疑問点をいくつか並べて書き送ったところ、いきなり 「あなたはまだまだ勉強が足りないようですね」 といった類の傲岸不遜な返事が返ってきた。どうやら、その人の自尊心をいたく傷つけてしまったようであった。 別に、「独学者」 一般を誹謗するつもりはないし、勉学や研究の環境が整わない中で 「独学」 を続けるということは、むろん賞賛さるべきことではある。しかし、サルトルも指摘しているように、「独学者」 にはしばしば 「夜郎自大」 という痼疾がついてまわる。いったい、それはなぜなのか。 以前の記事では、「それは 「独学」 という行為が必然的に孤独な作業であることから来るものだろう」 と書いたが、どうもそれだけではなさそうだ。じっさい、すべての 「独学者」 がそのように夜郎自大というわけではない。むしろ、それは個々の 「独学者」 が 「独学」 を続けているモチーフ、それもおそらくはその人自身も気づいていない、もっと奥の秘められたところ、一言でいえば 「自尊心」 の満足ということにあるような気がする。 「自尊心」 というものは、たしかにだれもが有するものであり、その満足は人間の本源的な欲求のひとつでもある。そして、「独学者」 にとって、もっともその 「自尊心」 を満足させることはなにかといえば、おそらく 「独創的」 であることだろう。たしかに、「独創的」 であることは 「独創的」 でないことよりも評価される。だが、いうまでもなく、「独創的」 な研究などというものは、そう簡単に生まれるものではない。 極端な例を出せば、1+1の答は誰が計算しても2である(2進法の場合は除く)。少々難しい方程式だって、それを理解できる人が正しい解法を用いて、間違いを犯さずに計算すればみな答は同じになる。たしかに、ややこしい問題とかであれば、その過程で多少の独創性が発揮される場面もないわけではあるまいが、答は一緒なのだから、その意味では「独創性」 が発揮される場面などはない。 だから、一般的に言うなら、「独創性」 が必要とされ、また 「独創性」 が発揮されるのは、「未知の領域」 ということになる。だが、「未知の領域」、すなわちいまだ解決されざる問題を見つけるには、その分野において、現時点でどこまでが既知であり、問題がどこまで解決されているかをまず知らなければならない。 「独創性」 を発揮すべき 「未知の領域」 とは、いわば雲の上に突き出ている富士山の頂上のようなものだ。だが、そこまでたどりつくには、えっちらおっちらと麓から自分の足で登っていかなければならない。ヘリコプターでいきなり頂上に降り立ったところで、それは富士を征服したことにはならない。だから、それはそう簡単なことではない。 「独学者」 の多くが、ときにはトンデモ学説ですらあるような、世間の 「常識」 から離れた説に引き付けられがちなのは、おそらくそのためだろう。それは、本当の 「独創性」 を発揮するための前提として必要な、自分が 「知らない」 ということを知るための努力を不要にしてくれるだけでなく、自分が世間の常識を超越しており、したがって世間の人々より上にいるかのごとき勘違いによって、自尊心の満足にも役立つという非常に便利なツールでもある。 たとえば、「常識を疑え」 という人たちは、コペルニクスはプトレマイオスの天動説を疑った、ガリレオはアリストテレスの運動論を疑った、ラボアジェはフロジストン説をひっくり返した、ウェゲナーは大地は動かないという常識に挑戦した、などという例を持ち出す。たしかに、それまでの常識をひっくり返したこの種の 「大発見」 は、科学の歴史にはことかかない。科学の進歩とはそういうことだ。 しかし、彼らにそれが可能だったのは、それまでの 「常識」 では説明できぬ未知の問題にぶつかったからであり、あるいは 「常識」 であり、解決済みであるとされていたことに、じつは未解決の問題が潜んでいるのに気づいたからだろう。どちらにしても、それにはそれまでの 「常識」 について、ふかく理解することがまずは前提になる。そこで必要なのは、「常識」 なるものを無批判に受け入れることでもなければ、頭ごなしに否認し、ただ投げ捨てることでもない。 さて、興味深いのは、このように 「世の常識」 や 「学界の常識」 とかに挑戦している人らの多くが、じつは彼らなりの固有の 「神」 を持っているという事実である。それはたとえば、政治・社会関係であれば副島隆彦や宮台真司であったりするのだが、同じような 「神」 は、医療や看護関係にも、物理学や宇宙論といった分野にも、また史学や思想・哲学といった分野にもいるだろう。最近では、こういった神様もじつに多様である。 むろん、それらはピンからキリまであり、十把一絡げに扱うわけにはいかない。「神様」 扱いされてるからには、それなりの力量や資格、実績を備えている人もむろんいるだろうし、馬鹿な弟子がいるからといって、それがすべて師匠の責任というわけでもない。どんなに偉いお師匠さんにも、師の教えを理解できずに誤解したり、ただの無意味な呪文にしてしまったりする不肖の弟子というのはいるものだ。それは、かの親鸞さんについてすら言える。 ただ、このことからは、そのような人の多くが、じつはフロムの言う 「権威主義的性格」 を備えているのではという印象を強く受ける。一般に 「権威主義的性格」 は、権威への服従を好むマゾヒスティックな性格と、権威を振りかざすことを好むサディスティックな性格の統合というように理解されている。これがただの小物であれば、自己の服属する権威のもとで、その権威を振りかざしたがる、いわゆる 「虎の威を借るキツネ」 ということになる。しかし、その一方で、フロムは次のようなことも指摘している。
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