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カテゴリ:ネット論
大阪府知事選では、かの橋下徹弁護士が当選した。いささか落胆した人も多いようだが、これも大阪の有権者の選択であるからしかたがない。とりあえずは、橋下氏のテレビ出演がいくらかは減ることでも期待するしかないだろう (もっとも、宮崎の東国原知事はあいかわらずテレビにも出ているが)。 聞くところによれば、今回の立候補者の出馬表明は、橋下氏が先で、それを受けて民主党は大阪大大学院教授の熊谷氏に立候補を打診したのだそうだ。いやはや、ちっとも知らなかった。じつを言うと、橋下氏が出るとか出ないとかいう話しか聞いてなかったので、つい最近まで、出馬表明は熊谷氏のほうが先だとばかり思い込んでいたのだ。 だって、知名度もあり、口も達者なうえに笑顔さわやか(?)、肌もつやつや、白い歯もきらきらという38歳の青年候補に、こう言っちゃ失礼だけど、顔に皺はあり、眉はたれているという62歳のおじいさん候補をぶつけるというのは、どう考えてもありえない話だからである。 これって、後出しじゃんけんで、わざわざ負ける手を出すような話である。まあ、ようするにそれだけ人がいなかったってことだろうけど、民主党にはどうも最初から勝つ気などなかったのではないかとすら思ってしまう。 さて、最近思うのは、ネット上での議論がしばしば不毛に終わり、徒労感だけが残るのはなぜかということである。まあ、そういうことを考えるにいたったのには、いろいろ経緯があるわけだが。 言い換えると、それはネットでの議論とリアルな世界での議論とどこが違うのかということになるわけで、それは言うまでもなく、相手の顔が見えないということである。 人はみな固有の歴史と経験を持っており、なにがしかの意見を言うときは、当然のことながら、そのような個人の固有の背景というものが、そこに反映されるものである。言うまでもないことだが、どんな議論も無色透明な論理だけで成り立っているわけではない。 そういうことはお互いによく知った間柄ならば、ことさら口に出す必要もないことだし、また、そうでなくとも、相手の顔が見えるリアルな世界であれば、言葉の端々などからある程度は推測することもできるし、身振りや表情、語調などから、言葉に込められた相手の感情について判断することも可能である。 ところが、困ったことにネットでの議論では、それがほとんど不可能なのである。いやいや、ほんと。 ネットの議論で相手にしているのは、目の前の画面にちらちらと並んだ文字にすぎない。(笑)とか(泣)みたいな記号的表記は、そこに筆者の感情が少しでもうまくのせられるようにと工夫され、広がったものなのだろう。 これが同じ文字でも、書物に印刷されている文字であれば、多少かちんとするようなことが書かれていたりしても、自分に宛てて書かれているわけではないことは分かっているから、普通そう気にはならない。それに、書いている人は、もうとうに死んじまっているとか、海の向こうの人だとかいう場合もある。 つまり、書物の場合はたとえ筆者が明らかだとしても、読者にとっては必ずしも身体を備えた具体的存在としてはイメージされないということだ。それは、テレビの画面に映る、アイドルや雲の上のスターなどの場合と同じである (最近はちょっと違うかもしれない。とくに芸人さんなんかは、街で会ってもいきなり友だち扱いされて、蹴りを入れられたりするそうだ)。 ところが、ネットの議論で画面に浮かぶ文字は、それを書いた固有の人間の 「存在」 というものを感じさせる。顔も名前も分からないにもかかわらず、とにかくそこに息をしていて、ときには額に青筋立てたりしながらキーを打っている誰かがいることをリアルに想像させる (自分のことかも)。 しかも、なお厄介なのは、相手の具体的な顔が見えない分だけ、かえって読む人自身が無意識に持っている、いろんな先入観や偏見、思い込み、ときには自分自身の悪意などがそこへ投影され、対象とは無関係に増幅されてしまいがちだということである。つまり、ネットでの議論というものには、完全にリアルでもなければ完全なバーチャルでもない、コウモリのような中途半端なところがある。 おそらくは、そのようなネットの中途半端なリアルさが、多くの場合に相互のコミュニケーションの不全をもたらすのだろう。であるから、ネット上での議論には、本来リアルな世界での議論よりも、その分さらに高いリテラシーとコミュニケーションの能力が必要なはずなのだ。ところが、現実は必ずしもそうではない。それどころか、むしろ逆な場合のほうが多いわけで、それが一番困ったことなのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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