昭和に流行った松坂慶子の 「愛の水中花」 という歌によれば、「これも愛 あれも愛 たぶん愛 きっと愛」 なのだそうで、そのくらい、「愛」 というものは多種多様であり、複雑なのであり、また奇奇怪怪なものなのである。
そもそも 「愛」 というもののややこしさは、「愛」 には必ずと言っていいほど 「憎」 が伴うというところにある。なにしろ、昔から 「かわいさあまって憎さ百倍」 という諺もあるくらいで、相手から否定された 「愛」 は、実に容易に 「憎」 に転化しうるものである。「惜しみなく愛は奪う」 というのは、大正時代にある女性記者と情死した有島武郎が残したエッセイの題名だが、まことに 「愛」 とは、それほどに貪欲なものなのである。
マザー・テレサの言葉に 「愛の反対は憎しみではなく、無関心です」 というのがあるそうだが、この言葉もまた、人間にとって 「愛」 と 「憎」 とがけっして単純に対立するものではなく、どこかで結びついたものであり、切り離せないものであることを側面から証明しているように思える。
いささか陳腐な台詞になるが、人はしばしば愛ゆえに苦悩し、愛ゆえに人を憎み、愛ゆえに罪を犯すものでもある。それは、「嵐が丘」 のヒースクリーフでも、「赤と黒」 のジュリアン・ソレルでも、情事の末に借金を重ね、追い詰められたあげくに毒を飲んだというマダム・ボヴァリーでも同じだろう。もっと俗な例をあげれば、お昼のワイドショーや、いわゆる 「どろどろドラマ」 でも明らかなことだ。
だからこそ、お釈迦様は 「愛」 とは人間の煩悩の最たるものと言ったのであり、古代ギリシア哲学の一派であったストア派は、どんな情念によっても煩わされぬ 「アパティア」 を理想とし、エピクロス派もまた、世俗から身を引いた心の平静を意味する 「アタラクシア」 を理想としたのだろう。
それだけではない。「愛」 には差別も伴ってもいる。「愛する者を守る」 とは、「愛する者」 を優先するということだ。家族を愛するということは、家族を他の者より優先することであり、国を愛するとは他国より自国を優先することであり、人間を愛するということは、人間を他の動物より優先するということだ。なにかを愛するということは、すでにそれを他のものから区別し、それを優先するということを意味する。人が 「愛」 を口にするとき、そこにはつねにその者にとっての優先順位が確固として定められている。
人間には、神様のようにすべての者に等しく愛を注ぐことなどはできはしない。神様がかりに存在するとして、彼にそのような 「愛」 が可能だとすれば、それは神が彼にとってはちっぽけな個々の人間のあれやこれやの区別などまったく無意味なほど、人間よりもはるかに上位にいるからだろう。
つまり、そのような一切の区別のない無差別の愛とは、いわば人間に対してはるか上空から注がれる超絶 「上から目線」 の愛なのであって、すでに対等な者としての人間と人間の間における愛とはまったく異なるものである。もし、そのような神と同じように人を愛することができる者がいるとすれば、それは個々の対象に対する無関心を表明しているのと同じなのであり、言い換えれば、彼にとっては、なんらかの 「大義」 への 「愛」 のために個を犠牲にすることなど屁でもないということにもなるだろう。「一視同仁」 の愛とは、つねにそういうものである。
だから、人間にとっての 「愛」 とは、その本性からしてつねに利己的なものだ。それは、人間的な 「愛」 というものに伴う本質的な矛盾なのであって、むろんそれを完全に否定することも非難することもできない。子を愛する親が、他人の子より自分の子を優先するのは、けっしてつねに望ましいことではないが、極限的な状況において、人がそのような行動に出ることを非難することは、誰にもできない。そして、われわれはみな人間なのだから、そのような人間的で利己的な愛ではない 「愛」 などは想像もできない。
だから、かのウィトゲンシュタインの名文句を借りれば、「愛」 とはまさに 「語りえぬもの」 の最たるものであり、そのようなものについては 「沈黙しなければならない」 ということになるだろう。
とはいえ、それでもそのような 「語りえぬもの」 についても、なんとかしてなにごとかを語ろうと欲するのもまた、人間の本性というものである。だが、だとすれば、「愛」 について語ろうとする者には、せめておのれが 「語りえぬもの」 について語ろうとしているのであり、そのような 「語りえぬもの」 について語るということが持つ矛盾についての自覚ぐらいは、最低限必要なことではあるまいか。
言葉というものには、あることを表すと同時に、あることを隠蔽するという働きがある。とりわけ、観念としての内実すら明瞭でない言葉を無自覚に多用することには、そのような空疎な言葉によって現実を隠蔽すると同時に、そのような言葉を発語する者自身を、夢の迷路の中へさまよわせるという催眠効果もある。それを一言で言うならば、「虚偽意識」 としてのイデオロギーの効果ということになるだろう。
「惜しみなく愛は奪う」 の中で、有島はこう言っている。
言葉は意味を表わすために案じ出された。しかしそれは当初の目的からだんだんに堕落した。心の要求が言葉をつくった。しかし今は物がそれを占有する。
吃ることなしには私達は自分の心を語ることが出来ない。恋人の耳にささやかれる言葉はいつでも流暢であるためしがない。心から心にかようためには、なんという不完全な乗り物に私達は乗らねばならぬのだろう。
のみならず言葉は不従順な僕である。私達はしばしば言葉のために裏切られる。私達の発した言葉は私達が針ほどの誤謬を犯すや否や、すぐに刃をかえして私達に切ってかかる。私達は自分の言葉ゆえに人の前に高慢となり、卑屈となり、狡智となり、魯鈍となる。
そもそも、人間の感情というものは、「愛」 だの 「憎」 だのといった観念によって構成されているわけではない。そのような観念は、抽象的な構成物にすぎないのであり、ぶっちゃけたことを言えば、意識の中に存在するのは、「愛」 も 「憎」 も、それからその他のいろいろなものもごちゃ混ぜになった、つねにただ一つの感情なのである。
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Re:「愛」についての考察(06/26)
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薔薇豪城 さん |
有島武郎って、自分の農場を自主的に農地解放してから心中したそうですけど、生きて、もっと世の中の事を何かやってみよう、という気にはならなかったんですかね。
(2008.06.26 21:43:38)
Re[1]:「愛」についての考察(06/26)
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かつ7416 さん |
薔薇豪城さん
有島武郎は、もともとクリスチャンで人道主義的な立場から女性解放運動などにも理解のあった人ですね。このときの心中相手というのも、新聞記者という当時では珍しい今でいうキャリアウーマンなのでしょう。初期の社会主義者には、賀川豊彦のようにキリスト教の立場から労働運動に接近した人もいて、そういう人らとは近かったのかもしれません。
ただ、彼の場合には、上流階級の子弟であるということの罪悪感みたいなものがあって、なにをやっても「偽善」になるという意識に苦しめられていたのかもしれません。
私は第四階級以外の階級に生まれ、育ち、教育を受けた。だから私は第四階級に対しては無縁の衆生の一人である。私は新興階級者になることが絶対にできないから、ならしてもらおうとも思わない。第四階級のために弁解し、立論し、運動する、そんなばかげきった虚偽もできない。 「宣言一つ」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000025/files/217_20459.html
(2008.06.26 22:01:35)
>かのウィトゲンシュタインの名文句を借りれば、「愛」 とはまさに 「語りえぬもの」 の最たるものであり
>「語りえぬもの」 について語るということが持つ矛盾についての自覚ぐらいは、最低限必要なこと
ここには何かコメントをつけなければという、義務感のようなものを感じます(笑)。
仰るとおりだと思います。「語りえぬもの」について語る矛盾、これが私にとっていつもいつも悩みの種です。
実際のところ、語れば語るほど語りたいものから遠ざかっていくような気がしています。その隔絶感からブログを書く意欲が削がれることもしばしば。が一方で、隔絶感を感じるほどに、語りたい何ものかを抱えている自分を自覚することにもなる。厄介なものです。
自分でも隔絶を感じる表現を衆目の目にさらす時には、覚悟というより諦めを感じます。感性とか共感とはいうのも、おそらくはこの諦めゆえにでしょう。
(2008.06.27 05:55:54)
愚樵さん
正直に言いますと、ウィトゲンシュタインについては、「論理哲学論考」の中身はさっぱり分かりません。あの論理記号と論理式を多用した記述は見ているだけで頭が痛くなります。なので、恥ずかしいことですが、彼については、この名文句だけしか頭にはいっておりません(中公版のやつです)。
文学も思想も、言葉という不完全な道具によって、「語りえぬもの」について語るということ、いわば自分の髪をひっつかんで自分を引き上げようという努力にも似た不可能事への挑戦であり、だからこそ何千年もの営為にもかかわらず、いまなお多くの優れた知性の持ち主らを引き付けてやまぬのだと思いますよ。
(2008.06.27 06:48:23)
この記事のTB戴きありがとうございました.期せずして1日違いで似たようなテーマの記事が双方でかかれたんですね.(私は書きかけながら何日か放置していたんですが)
記事の中で『「愛」 には差別も伴ってもいる。』
とありますが,全く同感です.『共感派』の人たちの連帯感情はまさにこれだったのではないでしょうか.
(2008.06.28 13:42:54)
アルバイシンの丘さん
一部ブログ界で、「愛」についての議論がさかんなようだったので、つい参加させてもらいました。
多少とも人生経験や社会経験がある人であれば、「愛」などというものを抽象的に理念化したり、ただ手放しで礼賛することほど、愚かで危険なことはないということぐらい分かりそうなものなのにと思っちゃいます。
(2008.06.28 14:39:09)
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