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カテゴリ:登山
市内の図書館で司書に蔵書調べを依頼し、やっとウインパーのマッターホルン登攀記を捜し出した。これも近藤 等さんの名訳である。優れた画家であったウインパー本人の手による細密な絵も挿入されていて、これを見るだけでも価値がある。 ウインパーの描いたマッターホルン
その様子を描いた絵がツエルマットの山岳博物館に展示してあったのを昨年見た。遭難の痛ましさより絵としての緻密な美しさを感じていた私は今思えば軽薄だった。事故後、天空に霧が湧き出て、そこに十字架が3本現れたという。実に不思議な話であり、遭難という事実と考え合わせると暗示的にも思える。 不思議な十字架の出現 そこまでは知っていたが、その後のことは全く知らなかった。下山後すぐにウインパーたち主に英国人が事故現場に行き、倒れている3人を発見し、そのままそこの雪の中に埋葬した。しかしその後政府から厳重な遺体収容命令が出され、今度はツエルマットの村人たち21人が遭難者を捜索にいって遺体を収容し埋葬した。相当な危険をともなう作業だったという。 1800年代当時、まだ一時に多くの人命が失われたことがなかった小さな山村ツエルマットでは人々がどんなに恐怖にさらされ、生存したウインパーたち3人もさぞいたたまれなかったことだろう。 さらにスイス政府の予審裁判が開かれてウインパー達3人はその席で取り調べを受けた。強いロープを持っていたにもかかわらずなぜか最も弱いロープを使用し、それが切れて死亡事故になった点に疑惑が持たれた。状況の説明や弁明とかいろいろつらいことが続いたという。 シャモニーでウインパーのお墓を探しあてた時、ロンドン生まれでスイスのマッターホルンを初めて登攀した彼がどうしてフランスのシャモニーに墓があるのか素朴な疑問をもったことは前に書いた。 その理由がわかった。遭難事故は長く彼を苦しめ、アンデスやグリーンランド等他の地で登山家として活躍したが、傷心のツエルマットを訪れることはなかった。彼がツエルマットを再訪したのは1911年老境に達した72歳の時であったという。何とマッターホルン登攀の46年後である。その後シャモニーに移動し宿舎で客死したのである。 遺骸はシャモニーのガイドたちに担がれ、モンブラン山麓のあの墓地に埋葬されたのであった。 彼が残した言葉は私の心に深く沈み、これからの登山の戒めとなろう。 「勇気も力も慎重を欠いたら何にもならない。ほんの一瞬でもこの注意を怠ると一生の幸福をも打ち砕くことになるかもしれないのだ。どんなことも急いではいけない。一歩一歩しっかり見極めたまえ。ことのはじめにあたって結果がどうなるかを常に考えよ」
悲喜こもごもの歴史を秘めて 煙るマッターホルン 2008.7.27 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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