「子猫殺し」をどう見るか 下
ドイツのクレッチマーが提唱し、シェルドンなどにより若干修正された、人間の「性格の3(2+1)分類」は、皆さんも聞いたことがあると思うが、心理学や精神医学の基礎的定説として広く認められている。文学などに興味がある者なら必須科目といえるし、それ以外の人でも、知っておくと人間理解に役立ち、重宝である。なお、現在の精神医学・犯罪心理学などの中では非常に精緻に再構成されており、人格障害との「ボーダーライン(境界例)」などの語は、凶悪犯罪者などに関してメディアでもよく使われる。こうした最新の知見は、精神科医、心理学・カウンセリング関係者必携の「DSM-IV(精神疾患の分類と診断の手引き・第4版 Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders / Fourth Edition)」にも含まれる。ただ、生まれつきの気質に関することであり、基本的には一生変わらないとされていることもあり、特に精神病質者の基本的人権と予防拘束問題などにからんで、こういう観点で人間を分類すること自体に根強い反対(いわば、思想的・政治的反対)意見が存在することも事実である。したがって、しろうとの方が傍目八目で、発言しやすい面もある。しかし、われわれ一般人の生活を通しても、以下の分類がおおむね妥当であることは日々経験するところである。【やせ型=分裂性気質・内閉性】基本的特徴: 非社交的、もの静か、用心深い、きまじめ、変わり者 敏感性の場合: 臆病、恥ずかしがりや、繊細、敏感、神経質、興奮しやすい、自然や本を好む 鈍感性の場合: 従順、おひとよし、無関心、鈍感 【肥満型=躁鬱性気質・循環性・同調性】基本的特徴: 社交的、親切、温かみがある、善良 敏感性: 明朗、ユーモアがある、興奮しやすい、活発 鈍感性: 静か、無口、落ち着いている、柔和 【筋肉質型=粘着性気質・癲癇性 (分裂性の一種とされる)】基本的特徴: 熱中しやすい、几帳面、秩序を好む、頑固 敏感性: まわりくどい、人に対して丁寧、仕事は確実だが手早くやることは苦手 鈍感性: 時に激しく興奮したり、爆発的に怒り出す 引用 : 山田ゆかり 1992 以上の気質(いわゆる“性格”)と体質との連関については、生物学の発生論的な説明もなされているが、本質的には遺伝的な内分泌系のホルモン分泌(の過剰・不足などのバランス)が根本にあるものと見られているが、割愛する。この分類は、生物学でいう分類のように厳密な線引きはできず、むしろいくつか混ざり合っているほうが常態であるとされる。詳細に説明したら時間と紙数がいくらあっても足りないので、興味がある方は、あなたはシゾフレ人間かメランコ人間かなどをお読みください。ここでは、骨子にごく簡単に触れるにとどめる。分裂性(統合失調性)気質は、内閉性気質とも言い、優れた思想家、詩人・芸術家などが多い。現代日本を代表し、私も畏敬している詩人・谷川俊太郎の作品群が、典型的なこの気質の頭脳の産物であることは明らかだと思う。その他、やはり詩人の吉増剛造、女優・中谷美紀、世界的モデルでダンス・パフォーマーの山口小夜子などもそうだろう。この気質は古くから、変わり者だが魅力的なものとしても見られてきた。英語のシゾイド schizoid、ドイツ語のスキゾなどとしてもよく知られ、精神的に“トランスポゾン(神出鬼没)な存在”などとして他の人文科学の概念としても援用される。この気質が極端に昂じて病的となったのが、統合失調症(旧・精神分裂病、シゾフレニア)である。躁鬱性気質(の敏感型・発揚型、軽躁型)は、分かりやすく言えば、みのもんた、石塚英彦、東ちづるなどが典型。文学者では、ゲーテ、バルザックなど。作品は、ユーモア・人間味のある、面白いものが多いが、通俗に流れ深みに欠けるきらいがあるといわれる。昂じれば、躁鬱病(躁病および鬱病)になる。「鬱病」の英語メランコリア、メランコリック(憂鬱な)はよく知られている。なお、筆者くまごろうもこの型が優位(若干分裂性含み)であると思われる。躁鬱性気質の人は、分裂性気質の異性に引かれるとされる。山口小夜子さまは、まさに僕の女神である。粘着性気質は、分裂性の大きな分枝とも見られ、スポーツマンに多い。努力と信念の人である。指向性は固着し、軽妙なユーモアは苦手分野である。またいわゆる真面目でお堅い職業といわれる警察官、銀行員、役人、自衛官、研究者などに多い。また逆に、“任侠関係”の方の気質を支配しているのもこの気質である。伝説の漫画「巨人の星」は、作者梶原一騎がこの型であったことを反映して、主人公星飛雄馬は中心的な粘着性そのもの、親友伴宙太はやや躁鬱性寄りの粘着性、好敵手花形満はやや分裂性寄りの粘着性といった感じで、この気質の人間性のオンパレードであった。芸術家では、大文学者を輩出している。ドストエフスキーが典型であり、しかもこの気質が昂じると現れる癲癇(てんかん)持ちでもあった。近代哲学の祖カントやヘーゲルなどもこの型である。なお、小泉純一郎前首相は典型的な粘着性であるという玄人筋の見方が、よく新聞紙面を賑わせた。この他、顕示性性格や、神経質性格などが知られているが、これは生育歴などの後天的なものであり、精神医学的にはその扱いは揺れているようである。そして、やっと本題に近づいたのだが(笑)、この粘着性気質の特徴を強めた上に分裂性の特徴を加味したような感じの、偏執性気質(パラノイド)というものが存在する。闘争的であり、自我拡大感を持ち自信満々、思想や信念の権化であり、自説を絶対に曲げない、疑い深く、“自分以外はみんな敵”みたいになりやすい。その信念は、論理的に支離滅裂ではなく整合性がありすぎるほどあり首尾一貫しているが、どこかピントが外れているとの感を周囲に抱かせ、周りを振り回すこともあるという。これが昂じると偏執病(パラノイア)になる。このタイプの頭脳が優秀であった場合(性格と知能は別個のものであり、直接の関係はない)、政治や宗教において大組織の独裁者となり、大きな災厄をもたらすことがあるといわれ、歴史的実例は枚挙にいとまがない。原因としては、内因的要因に加え、ネグレクト(育児放棄)や性的なものを含む幼時の虐待歴との関連も指摘されている。浅田彰「逃走論」では、スキゾ(分裂性)人間をよしとし、パラノ(偏執性)人間の営々として築き上げる硬い構造の制度からは逃走すべきものとして捉えている。偏執性の者は作家にはかなり多く、このタイプの人が持つ果てしない自我意識と猜疑心/疑心暗鬼などは、遠くで見ている分には面白く、長編小説を書く者の必須の資質とさえ言われている(文芸評論家・福田和也慶大教授の「作家の値打ち」)。桐野夏生の前人未到の小説世界はパラノイア的とも評される。笙野頼子の一種悪魔的な世界もこのタイプの頭脳の産物である。一般人でも、自己の正当性を執拗に主張して裁判に明け暮れたりすることがあり、好訴症とよばれる。山本有三「路傍の石」の主人公の少年・吾一の父で没落士族のろくでなし男も、この典型である。坂東氏の今回の一連の言動、固着的思考と激しい自己主張は、この偏執性気質の発作そのものだ。さらに、氏のこれまでの作品をひもといて分かることは、指向性が“死”に固着している。精神病理学的に言うと、「タナトフィリア(死愛好症)」の傾向があることは明らかであろう。さらに深層心理学的にいえば、エロスが死体や汚物に固着した「ネクロフィリア(屍体愛好症)」の傾向も否定できないであろう。これもまた、その猟奇的なイメージと暗いロマンチシズムが文学とは馴染みがいいのか、推理(探偵)小説の祖エドガー・アラン・ポーや「悪の華」のシャルル・ボードレールをはじめ前例は少なくない。シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」のラストシーンや、ハムレットで川を流れていくオフィーリア姫のイメージ、また「眠れる森の美女」のイメージなどの深層にもこれが潜在しているとされる。坂東氏も「眠れる美女」に関して著作が多い。またそのものズバリ「死国」というタイトルの人気小説をはじめ、一貫して死人のイメージが中核にある作品群を展開している。これは、死への衝動であるということもできる。猫を殺すことで、自分も死ぬような苦しみを味わっているという弁明(?)は、案外本音であると受け取ることが可能だ。次々と子猫を殺すことは、眼前に死を出来(しゅったい)させるということである。崖の下を、死で埋め尽くすことである。この辺りは、お読みの通り、かなり差し障りのある部分であり、しろうとがあまり断定的なことを書くのは厳に慎むべきことであろうからこの辺で筆を擱くが、いずれにせよ、まず、死/殺しへの止みがたい衝動があり、あれこれ倫理的なことやエコロジカル(環境学的)な論理を振り回していることは、たぶん“後付けの理屈”なんだろうな、と強く感じさせたのが、今回の顛末であったといえるのではないか。